第5話




「ん……鳥の声?」


 閉じた瞼に陽光が射し込む。


 目を開く。


 あのまま気絶していたようだ。


 ムクリと起き上がったが、もう異常は感じなかった。


「まるで逃げるなって言われたみたいじゃねーか」


 俺をこんなふうに変えた「だれか」が、これ以上逃げるなって、そう意思表示したみたいな、そんな気がする。


 起き上がって服を着替える。


 さすがに男のままでワンピース姿は避けたい。


「やっぱり女のときと体型違うんだなあ。キツイって」


 服を破りそうで四苦八苦して脱ぐ。


 ようやっとワンピースを脱いで、シリルとしての私服を身に付けた。


「やっぱり男物の方が落ち着くなあ。さあて。兄貴はすでに手を打った後だろうし、この家も見張られてるだろうな。どうするべきか」


 もしあの後すぐに見張りをつけたとするなら、ノコノコ出ていったら捕まるし、なによりも家に帰ってきた痕跡がないのに、俺がここにいるのはマズイ。


 どうしよう。


 変装?


 でも、夜まで閉じ籠もっているわけにも……。


「シリル、ノエルちゃん、いるかい?」


「この声。大家さん?」


 他に人の気配を感じなかったから玄関まで出ていった。


「どうしたんだ?」


「いやね。なんか朝からアンタのことを色々訊かれてね」


「ふうん」


 兄貴だな。


 手回しのいいことで。


「アンタなにかヤバいことに巻き込まれたんじゃないだろうね?」


 心配で顔を曇らせる大家さんに閃いた。


「実はそうなんだ」


「やっぱり。なにやったんだい?」


 俺はここで適当な、それでいて危なそうな言い訳をした。


「アンタそんな危ないこと」


「ノエルはもう逃がしたんだけど、俺も逃げなきゃいけないし。手伝ってくれないかな?」


「でも、そんなことしたらあたしらが罪に問われ」


「大丈夫。大丈夫。大家さんは知らぬ存ぜぬで押し通せばいいよ。絶対に罪には問われないから」


 あの優しい兄貴がそんなことするもんか。


「本当に罪に問われないんだね?」


「保証するよ。俺が勝手にやるから、大家さんはいつも通りに振る舞えばいい。それだけの協力でいいから」


「わかったよ。無事に逃げても連絡はいらないよ。訊ねられたらうっかり教えちゃいそうだから」


「そうするよ。今までありがとう」


 笑ってそう言えた。


 大家さんは市場で店を出している。


 その仕入れに今から行くのだ。


 その後市場に出て店を開く。


 思い付いたのはその馬車に潜り込むことだった。


 どこか人目の多いところで降りて逃げればいい。


 そう思って準備に入った。


 思えば昔から単純、短絡思考と言われていた俺だ。


 兄貴が俺について調べた後なら、大家さんの仕事について知らないわけがない。


 知っていたら俺がなにを企むか気づかないわけがない。


 兄貴の裏を掻くなんて1000年早かったんだって後になって思い知らされた。


 ガダゴトと揺れる馬車の中、俺は息を殺している。


 仕入れ先について大家さんが値切ろうと交渉しているのが耳に入る。


 それから満足したのか馬車はまた動きだし、そうして市場についた。


 人通りが激しくなる。


 チャンスだと思って馬車から降りたその瞬間、利き腕を捻り上げられた。


「そこまでだ、シリル」


「イテテ……」


 首だけで振り返れば怒った顔の兄貴が立っていた。


 背後にオーギュストを連れて。


「1年半逃げ続けただけでは気が済まないのか、そなたは」


「イテーから腕を放してくれよ、兄貴」


「兄上と呼びなさい。いつからそんな嘆かわしい呼び方になったのだ?」


「とにかく放してくれってっ。肩っ。肩が抜けるっ!!」


 本気で痛いから悲鳴上げたのに、オーギュストの奴は喜んでこう言った。


「もっとやってやれ、サイラス。肩を抜くくらい当然の罰だ」


 が、この言葉が俺を溺愛する兄貴を動かした。


 慌てたように腕を解放する。


「なんで放すんだ?」


「バカモノッ!! 最愛の弟にそんな真似ができるかっ!!」


「温情かけると性懲りもなく逃げられるぞ」


 言われた瞬間、逃げようとして抜き足差し足だった俺は、ギクリとして立ち止まった。


 振り向いた兄貴が盛大なため息をついている。


「全くそなたは。演技だったのか?」


「本気で痛かったけど?」


「そのわりにはずいぶん元気そうだが? 逃げる余裕があるくらい」


 嫌味だと気付いて俯いた。


 それしかできなかったから。


 今度は痛みを与えないように、それでも鍛えることを中断した俺では振りほどけない力で、兄貴は俺の腕を掴んだ。


 逃げられないように。


「シリル。大丈夫かい?」


 心配そうに問いかける聖人に見える笑顔を大屋さんに向けた。


「弟がお世話をかけました」


「弟? シリルが?」


「ええ。実は1年半程前から弟は家出しておりまして」


「まあまあ」


「ずっと捜していたんですが、全然見付からなくて。昨夜ようやく居所を掴んだんです。そうしたらこの有り様で」


「シリル。迎えにきたのがお兄さんだったら、アンタ嘘ついたね?」


「だって教えたら俺を突き出しただろ、大屋さん」


「当然じゃないか。アンタまだ未成年なんだから、親がいるなら親元にいなきゃ」


「堂々といられるくらいなら、元々逃げてないっての」


 ボソッと愚痴れば聞き逃さなかった兄貴が、小さく耳許でささやいた。


「逃げなければならない事情があったというなら、その事情を教えなさい、シリル」


「兄貴」


 言えたら楽になる。


 でも、この国の第二王子が、それも現王妃の王子が、まさかどういう事情かは不明でも、夜は女性化する、なんて言えるわけない。


 貴族たちがどれだけ騒ぐか。


 父さん……父上だって困った立場に立たされるし、そんな情けない王子を産んだって母上だって責められる。


 兄貴だって兄上だって色眼鏡で見られることになる。


 自分だけならなにを言われてもいい。


 貶められても耐えられる。


 でも、大事な家族は守りたい。


 言えないその決意が胸に重かった。

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