第3話
ノエルとして俺が酒場に戻ると、酒場はいつも通りの賑わいを見せていた。
おやじさんに言わせるとノエルがくるこの時間は男共がはしゃぐらしい。
身体は女でも心は男の俺は呆れるしかなかったりするが。
話せないのはある意味で助かる。
女になってるだけでも不本意なのに、慣れない女言葉なんて使えるかっての。
それでなくても男っぽく見えないように、らしい振る舞いをしないといけないのに。
悲しいかな。
ノエルとしての俺は決して粗野な女の子ではなかった。
清楚で可憐なタイプの絶世の美少女で、悲しいかな。
男っぽい仕草とか、超絶、似合わないっ!!
自分で鏡の前でやってみて、怖気が走ったんだから、これたしか。
仕方がないからノエルとして出歩くために、周囲の女どもの中でも可憐な女性で通っているシスターを毎日観察して、なんとからしい振る舞いをマスターした過去がある。
そのせいでシスターが俺を見掛ける度に、頬を染めるようになったのは、まあちょっとした害のない誤解?
いいじゃん。
そういうこと、どうでも。
こっちも生きていくために必死だったんだから。
細かいことは気にしちゃいけない。
現れた俺におやじさんは笑顔で出迎えてくれた。
「今日も可愛いねえ、ノエルちゃん」
ありがとうという意味で軽くお辞儀してみせる。
サラサラと流れる黒髪に視線が集まるけど気にしちゃいけない。
同じ男に女として見られてるなんて吐きそうになるけど、これも生活のためだ。
「シリルに心配されただろ?」
小さく笑って首肯してみせる。
俺の腕前を知っているヤロー共は、慌てて視線を逸らしやがった。
これがあるから恋人同士っていう誤解を解けないんだ。
そう思われてるかぎり、本物の恋人、できないんだけどねぇ?
でも、女として襲われたくはないし、辛いところだよ、俺も。
「じゃあ今日も頼むよ。そうそう。今日はバイオリンも披露してくれるかい?」
へえ。
意外。
そんな高級な楽器ここにはないと思ってた。
「いや。今日は特別なお客様が参られるんだ。たぶんその人にお借りできるんじゃないかと思ってね。お借りしたいと申し出てあるし」
ふうん。
なんか知らないけど特別な客、ね。
失敗しないようにしないと。
そう思いながら俺はピアノの前にスタンバイした。
これがノエルとしての俺の仕事。
酒場のピアニスト。
それがもうひとつの俺の顔。
流れ出すメロディーに男たちがうっとりと俺を見ている。
でも、気にならない。
音に集中するから。
兄貴に教わったピアノ。
これだけが俺と兄貴を繋ぐもの。
どのくらい没頭して弾いていただろう。
急にピアノの旋律にバイオリンが介入してきて、すこし驚いた。
でも、心地好い。
兄貴とのデュエットを思い出す。
このときばかりは天敵のオーギュストも、うっとりと俺と兄貴を眺めてたっけ。
一曲弾き終わって汗を流しつつ視線を店内に戻す。
そこにいた姿に目を見開いた。
(兄……貴……?)
声が出なくてよかったと、このときほどホッとしたことはない。
だって口は確実にそう動いていたから、声が出ていたらそう呼んだはずだ。
よかった、俺。声が出なくて。
17歳の少年から19歳の青年に成長した兄がそこにいた。
「懐かしい経験をさせてもらったよ。下町の酒場にこんなに綺麗なピアニストがいたとはね。名前は?」
「ノエルと言います」
口を挟んできた店主を一緒にいたオーギュストが不機嫌そうに睨んだ。
「殿下は彼女に訊ねたんだ。不躾な真似をするんじゃない」
「いえ。そうではなくて彼女……話せないんで」
「「話せない?」」
ふたりの視線が俺に向く。
居たたまれなかった。
ふたりの眼に俺は映ってない。
映っているのは黒髪のノエルという少女。
思っていた以上にそれは辛かった。
昔の俺を知っている人たちなのに、今の俺を見てもわかってもらえないってことが。
これ以上ここにいたら泣きそうだった。
俺は立ち上がり、おやじさんに近づいた。
身振り手振りで筆記用具一式を用意してもらう。
サラサラとそこに書いた。
『彼が心配するから今日は帰らせてください』
「そうだな。ノエルちゃんは可愛いし、殿下の御目に止まったら大変だからね。気をつけて帰るんだよ?」
頷いて俺は逃げるようにその場を後にした。
後になって思えば迂闊な言動だった。
兄貴の前で文字を残すなんて。
しかもシリルの名前を出して帰るなんてバカな真似をした。
家が見えるところまで走ってきた俺は、トボトボと歩き出してすぐに二の腕を掴まれて引き留められた。
「待ってっ!!」
俺の腕を掴んで引き留めていたのは、走って追いかけていたらしい兄貴だった。
必死の形相をしている。
「きみ、文字はだれに教わったの? きみの書いた字は弟の筆跡にそっくりだっ!!」
そう言われた瞬間、「しまったっ!!」と、内心で慌ててた。
だってあれを確認されるなんて思ってなかったから。
「きみはシリルって男と住んでるんだって? さっき酒場で聞いた。シリルって名前で金髪で碧眼の17歳の男と、きみが恋人同士だから手出ししないでほしいって。それは事実?」
畳み掛けるように問われて泣きたくなる。
この期に及んで気づいてない。
目の前にいる俺こそが弟だって。
「あのなあ、サイラス。話せない相手をいくら問い詰めても、答えなんて得られるわけがないだろうが」
「オーギュ!! そんなことを言っている場合ではっ」
「ちょっと落ち着け。たぶんこの娘は家に戻ろうとしてたはずだ。かなりの速度で走ってたから、もう近くまで戻ってると思う。だったら家に案内させれば事実かどうか、それとも人違いかわかるんじゃないか?」
なんでそんなところつついてくるんだよっ!?
バカ、オーギュ!!
知らぬ存ぜぬで押し通そうと思ってたのに!!
お人好しの兄貴だけなら騙せただろうけど、引っ付き虫のこいつが一緒だなんて、俺、なんてツイてないんだ。
「話によればその娘が働いているのが夜。昼に働いているのが問題のシリルを名乗ってる奴。どうせ別人だろうけど」
また始まった。
俺への嫌味。
なんでコイツそこまで俺をきらうんだ?
そりゃ俺だって気が強いし、兄貴の周りをウロつくコイツに邪険にされれば、それなりの仕返しはしてたけど。
物心ついた頃にはこうだった気がするぞ?
「聞いたことがすべて事実なら、今頃そのシリルを名乗ってる男は家にいるはずだ。こいつが戻ってくるのを待ってるんじゃないのか?」
「案内してもらえる? 断ったら悪いけど王子として命じさせてもらうけど」
兄貴のそういう卑怯な言い方、初めて聞いた気がする。
意外だったけどその眼が真剣だったから、俺は頷くしかなかった。
どうせ帰ったところでシリルはいない。
シリルは俺なんだから。
でも、これで仕事と家、また探さないとなあ。
兄貴たちにバレちゃったし。
とぼとぼと俺はふたりを連れて家に戻った。
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