第17話

(欲しかったのに、たった一言だけよくやったなって、それだけが欲しかったのに、どうして忘れたんだよ、親父殿っ!?)


 この憤りをだれにぶつければいいのかがわからない。


 記憶を失ったのはリュシオンのせいじゃない。


 そんなことくらいわかってるっ。


 わかっていてもやりきれない。


『待っているから。おまえが目覚めるのを、俺はずっと待っているから』


 傷ついて疲れきった声で、そう言ったあの日。


 消えていく淡雪のような儚い微笑みで、リュシオンは許しをこうた。


 強い力で抱きしめて、リュシオンを引き止めたセインリュースの腕の中で。


『許してくれ、セインリュース。俺はおまえにたくさんの嘘をついていた』


 現実を拒否した心で、引き止めたリュースに許しをこう。


 辛いばかりの現実に引き止めたリュースに。


 引き止めたのが間違いだったのか。


 傷ついて疲弊しきった心と身体を抱いて、リュシオンがひとりで生きていけるかどうか、1番危ぶんでいたのはリュースなのに、それでも彼を引き止めた。


 ひとりで生きていけるほどリュシオンは強くない。


 知っていても、そこにいて欲しかった。


 現実を拒否して心だけ、どこかに捨てないで欲しかった。


 ワガママだと言われても、だれよりも愛してる父親だから、失いたくなかったのだ。


 ただ待っていてくれたら、それだけでよかったのに。


「なんだか傍にいると興奮させてるみたいだな、俺が。人を呼ぼうか?」


 戸惑った声が耳許でして、肩を掴んでいた手が離れる。


 とっさに今度はリュースが二の腕を掴んでいた。


 驚いたようにリュシオンが振り返る。


 突然、二の腕を掴んで引き止めた世継ぎの君を。


「どうした? どこにも行かない。呼び鈴を鳴らすだけだ」


 言い聞かせて腕から手を離させようとしたが、結局果たせなかった。


 ますます強く力を入れて、両腕を掴まれ動けなくなったのだ。


 困ったように立ち尽くして、リュシオンが諦めたように笑った。


 片腕に手をかけて、無理やり引き離す。


 ハッと顔色を変えるリュースに、安心させるように微笑んだ。


「本当にどこにも行かない。安心していろ。そんなに興奮していたら身体に障るだろう? 傍にいるから無理をするな」


 優しい声で言っても、やっぱり二の腕を掴んで離してくれず、リュシオンは呆れて笑う。


 世継ぎの君は意外に甘えん坊だと気づいて。


「これが本当に世継ぎの君か? 世継ぎがこんなに甘えん坊だとは思わなかったぞ、俺は」


 柔らかな口調の揶揄に重ねる面影。


 胸が詰まって声が出ない。


 目の前にいてもリュースのこともわかってくれないのに。


 呼びたい名前が呼べない。


 それが辛かった。


「言っておくが俺は子守唄なんて歌うガラじゃないぞ」


 本当に言っただけだったが、きょとんと目を丸くされ、いささかの気まずさから、リュシオンが顔を背ける。


「眠るまでここにいるから、さっさと眠れ。ディアスに気づかれたら、俺が怒鳴られるんだ」


 不機嫌そうな素振りで、枕元の椅子に腰掛けるリュシオンをリュースはシゲシゲと眺めた。


 言われなくてもリュースは、父親に子守唄を歌ってもらった覚えはない。


 リュシオンはそういうことは苦手としていた。


 年齢が近いせいもあったかもしれないが。


 そのかわり彼がくれたまじないは……。


「おやすみ、セインリュース」


 部屋の灯りが消されて、枕元からささやくような声がする。


 額に軽くキスされて、リュースはまた泣きたくなった。


 小さい頃からリュシオンがくれた子守唄代わりのまじない。


 それは寝る前のキスだった。


 憶えていないくせに額にくれたおやすみのキス。


 記憶はなくてもやっぱりリュシオンはリュシオンだった。


 涙をみせたくなくて、頭まで布団を被れば、小さく笑う声がした。


 たぶん目が覚めてもリュシオンはそこにいるだろう。


 小さい頃のように。


 信じることができる曖昧な確かさを噛みしめて、リュースは目を閉じる。


 呼びたくて呼べない名を何度も心でささやきながら。


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