第3話
「ラス」
呼び声に振り向けば、エルシード(公爵の跡継ぎ)が立っていた。
柔らかな笑みを口許に浮かべて。
寒いだろうに窓際に佇むラスをみて、彼はかすかな嘆息をもらす。
「すこし、いいかな?」
ためらいがちな問いかけに、ラスは無言でうなずきかける。
しかし、なにを思ったか、不意に顔をあげた。
「どうぞ」
夏の涼風を思わせる涼やかな声に、エルシードは驚いた顔をする。
嬉しそうにうなずいて、部屋に足を踏み入れた。
ラスが話してくれることなんて、今までめったになかったのだ。
向かい合わせで腰かけて、テーブル越しにラスが、戸惑ったような笑みをみせる。
それもまた珍しく、エルシードはきょとんと眼を丸くした。
なにが彼を驚かせているのかわからなくて、ラスがまた無表情に近い顔に戻る。
「ああ。気を使わせたなら悪かった。きみが打ち解けてくれたようで嬉しくてね」
「……このくらいは……礼儀だと思ったから」
考え考え口に出しているような、ぎこちない話し方だった。
自身のことなのだ。
記憶を失って1番戸惑っているのは、ラスなのかもしれない。
感情をみせない少年だから、今までだれも気づかなかったけれど。
「今しっかりきみの発音を聞いたけれど、ほとんど訛りがないね」
「訛り?」
「そう。その地方独特の発音のしかただよ。リオンクールにも方言はあるからね。だけど、きみにはそれが感じられない」
そう言われても無意識に使っているので、よくわからない。
「とても流暢に話すね、きみは。それは王都で頻繁に耳にする発音だ」
「王都」
「神帝陛下が居を構える王宮のある都のことだよ」
できるかぎり衝撃を与えないように、静かな口調でエルシードは説明を重ねる。
彼の気づかいはわかったが、ラスは何故か頭に鋭い痛みを感じた。
神帝という名を聞いたときに。
「王都での標準語をきみは使ってる。きみの発音はむしろ貴族に近いと思うよ。きみはとてもきれいに話すから、もしかして貴族じゃないのかい?」
これが手がかりになればと、身を乗り出すエルシード。
ラスは戸惑ったような顔をして、ゆっくりかぶりを振った。
「わからない」
喉から絞り出すような答えに、エルシードも残念そうに肩から力を抜いた。
「もしきみさえよかったら、ぼくかラスティアが王宮にあがるときに同行しないかい?」
意外な誘いにラスが眼を丸くする。
「きみは地方を探すより、王都で身元を探した方が早いと思うよ。きみは間違いなく王都で育ってるから」
迷いもなく断言されても、答えることはできなかった。
北方領土の冬は長い。
降り積もる雪が解ける春の訪れはまだ遠い。
吹雪の音がやまない。
耳鳴り。
目眩。
これからどこへ行くのだろう?
なにひとつわからないままで。
喉で張りついた呼吸を必死になって求め、使者は紙のように白くなった顔を玉座の神帝に向ける。
視線を逸らしたくても、強張って動けないのだ。
頬スレスレのところに長剣が深々と壁に突き刺さっていた。
どこから飛んできたのか、謎の出現のしかただったが、犯人は神帝陛下だった。
その証拠に玉座の神帝は、人の悪い笑みをみせている。
悪びれないその態度で自白しているようなものだ。
「遠路遙々ご苦労だった。それが俺からの返答だと、ウィルフリート王に伝えてくれ。丁寧な挨拶いたみいると」
傲岸不遜な発言に使者は顔を強張らせたまま答えられなかった。
温厚で優しいという噂を覆すような、神帝リュシオンの思わぬ姿を目の当たりにして。
穏やかな人柄だと評判の少年神帝が、これだけ過激で度胸のある人物だと、いったいだれが想像するだろう?
「残念ながらこちらの政策に不都合な点はない。リーン王国内における混乱は、むしろウィルフリート王の責任とお見受けする。そちらが起こした失態の責任を、こちらに押し付けられるのは迷惑だ」
如何にも退屈そうにひじ掛けで頬杖などつき、神帝はのんびりそんなことを言った。
挑戦的な眼の色は変えずに。
「王の狭量さを物語っているとは思わないか、使者殿?」
面白がっているような悪びれない態度で、そう付け足した。
背後に控えている秘書官が、呆れたように玉座の神帝を盗みみる。
これでは戦争をふっかけているようなものである。
それはたしかにリーン王国のウィルフリート王は、なにかとリュシオンに逆らうことで有名だ。
それは事実だが、なにも「彼」がケンカを売ることもないだろうに。
この申し出はたしかに王国側の身勝手な言い方ではあるが。
そもそもリュシオンが執った政策と正反対の政策を、対抗心から起こしたのはウィルフリート王の方だ。
それが失敗したからといって非難してくるのは筋が通らない。
相変わらずウィルフリート王は、リュシオンに対する敵愾心が強い。
神帝側の臣下は、この抗議に全員が呆れていた。
「責任転嫁のうまい国王では、国の先行きが不安だな」
わざとらしくため息などついてみせる神帝に、あちこちで小さな笑い声が起きる。
屈辱に震えるリーン王国からの使者に、追い討ちのように声がかかった。
「謁見はこれにて終了とする。本当に気の毒な役目をご苦労だった」
それだけを言いおいて、神帝は即座に席を立った。
隙のない優雅な足取りで、大扉の向こうへと消えていく。
7代神帝リュシオンのその姿は、美の化身と言い伝えられ、不敗の英雄と呼ばれる祖王、初代神帝を想起させる。
祖王の呼び名で知られる初代神帝は、リーン王国にとっては仇敵に近い人物である。
英雄王によく似たその後ろ姿を、リーン王国からの使者は唇を噛んで見送った。
長い廊下を歩きながら、神帝を追いかけていた秘書官の青年が声を投げた。
「すこしやりすぎたのではありませんか、神帝陛下?」
「そうか? あれでも抑えたんだけどなあ、俺は。やりすぎたかな?」
自覚があるのかないのか、ふしぎそうに首など傾げられ、秘書官は思わず呆れた声をあげた。
「リュシオン陛下はあのようなことは、絶対に申されません」
そう自他共に認められるほど、リュシオンは温厚な人柄で知られていた。
「内心でどう思われていようと、使者には責がないとおっしゃるでしょう。そうは思われませんか、ディアス陛下?」
「思うね。あいつはバカがつくほどのお人好しだからな」
お人好しもあそこまでいくと、本人に負担になる。
それは秘書官も認めている。
「使者はただの使いだからって、あの場は見逃したはずだ」
こんな場面を体験する度に、苦い顔をしていた父親の顔が浮かぶ。
リュシオンのお人好しぶりは、彼を愛する人々にとって頭痛の種だった。
「俺と同じくらい怒ってたとしてもね。バカなんだよ、リュシオンは」
ずけずけと口に出す彼に、秘書官はため息をつき、肩を竦めてみせた。
謁見の後で部屋に戻ったディアスは、椅子に腰かけて襟元をゆるめた。
反射的に大きな息を吐く。
寛いだ姿勢になってから、傍らに佇む秘書官を見上げた。
「ところでリュシオンは見つかったか、アリステア?」
「それがまだ……」
苛立ちと不安を内心に封じた秘書官の返答に、ディアスは思わず途方に暮れた顔でため息をつく。
秘書官の瞳も不安に揺れている。
「意識があったら連絡ぐらい入れろよ、リュシオンのバカっ!!」
7代神帝リュシオンが消息を断ったのは、二月くらい前のことである。
正確にはわからないが、そのくらいは人々の前から姿を消していた。
ただどこまでが気まぐれなお忍びで、どこから消息不明なのかが、こちらには掴む手立てがないだけで。
身代わりをやれる唯一の人材として、自分で動けない現状が、ディアスを不機嫌にしていた。
本音を言えば今すぐにでも、リュシオンを捜しに行きたいのだ。
捜し出して保護し、すぐにでも安心したいというのが、ディアスの偽らざる本音だった。
「アリステア。どうしても俺が動いたらダメか?」
苛立ちを瞳に浮かべたままで、振り仰ぎ訊ねるディアスに、秘書官の瞳が苦しみに陰った。
「お気持ちはお察しいたします。いえ。我々もディアス陛下にお願いしたいのです」
皇家の絶対的な始祖として、こういう事態のときに、ディアスが1番頼りになることは周知の事実である。
「ですがあなたまでが王宮をお空けになれば、今回のような事態のときに、陛下のご不在を隠しきれません」
リュシオンはなくてはならない支柱である。
不在を悟られるわけにはいかないのだ。
特にリーン王国のような、他国からの来訪者には。
いたずらに民や臣下を混乱させまいと、大半の臣下たちにも伏せている。
すべて瓜二つの外見をもつ、ディアスがいたからできたことだ。
「陛下は……ご無事でしょうか」
不安に語尾が掠れる。
不在を知る臣下はみな同じ気持ちだろう。
リュシオンは神帝としてではなく、生きてそこにいるひとりの少年として、みなの心の支えだった。
苦々しいディアスの笑みが、ゆっくり優しい微笑みに変わる。
ふしぎな威厳のある姿に秘書官は感嘆の念を抱いた。
「安心しろよ。あいつは色だけじゃなくて、姿だって俺から受け継いでる。大丈夫だよ。あいつは俺の寵児なんだから」
「そうですね」
あきらかにホッとしたように、秘書官の容貌に安堵が広がる。
ディアスの保証で肩の荷がおりた。
「不敗の英雄が保証するんだ。どんな保証の言葉より確かだよ。な?」
おどけたようなディアスの態度に、秘書官は彼の気遣いに感謝した。
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