月末の祈り

虎山八狐

寿観29年6月30日金曜日

 今日は六月最終日だ。

 今月は濃密だった。


 まず一日。三代目桜刃組を共に支え合ってきた一ノ宮いちのみや時也ときやが心中した。心中相手は三代目組長・薬師神子やくしみこざいの異母妹――一ノ宮の娘と二代目組長の隠し子だった。心中の理由は一ノ宮の二代目組長への妄執だった。

 僕は八年間も彼と一緒にやってきたが、彼に死に到る程の思いがあるとは見抜けなかった。記憶の中、彼はいつも飄々としていた。互いに深く入り込まないでいる関係を心地良く思っていた。しかし、もうそのようには思えなかった。若頭という彼の上司に位置する僕はもっと彼に踏み込むべきだった。そんな後悔に苛まれた。今も思い返せばやはり辛い。でも、一日の時ほどには深く沈むことは無かった。


 翌日、たちばな宗助そうすけがやってきた。喧嘩別れした二十五年ぶりの再会だった。彼はその喧嘩が無かったかのようにあっけらかんと接してくれた。それ自体は救いだった。けれども、彼は自分の息子・清美きよみを桜刃組に入れようとしていた。僕は反対したが、結局宗助や情報屋の安藤あんどう巳幸みゆきに圧され、受け入れることにした。


 そして、八日。橘清美がやってきた。


 彼は太陽のような人だ。明るく温かく、希望的な明日を感じさせる。

 距離を置いていた父に捕まって、裏社会に来てしまったこと。そんな経緯が不幸だとは彼は思っていなかった。それどころか、肯定して今の立場を気に入っている。その喜びを素直に周囲に伝えてくれる。

 彼のお蔭で、桜刃組は一気に明るくなった。

 一ノ宮を恩師としている組員の西園寺さいおんじ奈央子なおこが喪失の悲しみから立ち上がるどころか、以前よりも楽しそうにしていることが多くなった。

 一ノ宮と仲が良く、在を強く思ってくれている安藤も一際明るくなった。

 僕自身、清美の純朴さに幾度か救われた。けれど、僕にとっての一番の救いは二人が輝きだしたことだった。

 また、彼の到来により、桜刃組は組員増加を目指すことになった。若頭の僕や組長の在が今まで消極的だったことだ。僕は今そこに希望を見るようになった。


 結局、この一か月は喪失の悲しみよりも未来への希望が勝っていた。

 そう気付いたのは、今朝、眠る前に日記を読み返した時だった。


 就寝前に日記をつけるというのは、僕の幼少期からの習慣だ。

 幼少期の僕は自己肯定感が低く、不安になりやすかった。それが不眠という形で出た。見かねた父が就寝前に日記をつけることを勧めてくれた。思考を日記に記すことで一旦手放せるから、空っぽの頭ですうっと眠れる……という理屈だった。

 だから、僕にとって日記は思考のごみ箱だった。見返すということがあまり思い浮かばなかった。


 だのに、今朝、今日が六月最終日だと気付いて、見返したくなった。桜刃組が大きく変わった一か月を振り返りたくなった。

 今思えば、その衝動も自分が清美の影響を受けて楽観的になりつつある証左だったのだろう。


 僕、それに、西園寺や安藤――そして桜刃組自体が清美によって明るく変わってきている。

 ならば、他の桜刃組のメンバーも同様の変化をしているんじゃないだろうか。


 赤信号で止まる今、僕はバックミラー越しに後部座席で眠る在を見る。

 背凭れに体重を預け、俯いていた。長めの前髪で顔は見れなかった。

 残念な気持ちと少しの安堵を抱えて、前を見ようとした瞬間、ミラー越しに目があった。

 街灯の無機質な白い光がその肌の白さを引き立つ。そして、黒目がちな大きな狐目が際立っていた。

 降り注ぐ真っ直ぐな視線に頬が熱を持つを感じる。

 目覚めたばかりの柔らかい声が耳朶を擽る。

「どうしたの?」

 彼の口癖だと分かっていながらも、僕は思う所の全てを言わなければならないような緊張感を覚えてしまう。

「いえ、その」

 口籠りながら緊張をほぐす。そして、彼と同等の真っ直ぐさで疑問を口にする。

「清美君が来てから、明るくなったでしょう。皆」

「そうね。貴方もね」

 頬の温度が上がる。堪らず一度首を縦に振った。

「あはは、そうですね。貴方もそうなんじゃないかと思って」

 彼が瞬く。

「そうかしら。自分ではあまり分からない。そう見えるの?」

 僕は返事がすぐ返せなかった。

 ミラー越しに見つめ合いながら、言葉を探した。いや、考えようとした。しかし、僕の頭よりも先に前の車が動いた。

 周囲に合わせながらアクセルを踏む。

 夜の街の光が流れていく。

 光のシャワーを浴びるうちに自然と言葉が転がり落ちる。

「そうあって欲しいです」

 衣擦れの音が聞こえる。ふとミラーを見れば、彼はドアに凭れ掛かっていた。

「そうね」

 その返答に一抹の寂しさを覚え、願わずにはいられなかった。


 ――僕も彼自身もはっきりと変化を認められる日が来ますように、と。

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