第17話

 けたたましい携帯の鳴き声を聞くこともなく、ふいに目が覚める。目の前に詩音くんはいない。彼は僕の視線のすぐ先で、昨夜と同じくディスプレイに照らされながら緑色のいかにもお高そうなキーボードを枕にして心地よさそうに寝息を立てていた。ディスプレイの明かりが空いているのを見る限り、まだ寝落ちてそう時間は経っていないのだろう。

 そんな彼を見て、ふと昔のことを思い出す。新しく買ってもらったゲームが楽しすぎて何日も寝ずにプレイした、まだ小学生だった頃の日々。あの頃は、何も考えずに遊んでいられて楽しかった。いつから、ゲームをしなくなったんだっけ。そう考えながらも僕は大きく伸びを一つ。スマホのアラーム設定を解除してからベッドを出た。


「詩音くん起きて。寝るならベッドで寝ぇや」


 すっかり熟睡してしまっている彼の頭から大きなヘッドホンを外し、それを机の唯一空いた隅の方へ置く。ごちゃごちゃと散らばるマウスやコントローラーをまとめつつ、おいてあったお酒の缶を手にとる。それはまだ中身が残っているようで、振るとチャポチャポと音がした。


「まだ残ってる……」


 彼は目を覚ましたようで、目を擦りながら僕の手からお酒の缶を受け取ると一気に残りを飲み干した。朝から少し心配になるけれど、詩音くんならこの量で酔うこともないだろう。僕は彼の手から空になった缶を受け取りそっと肩へ手を乗せた。


「おやすみ。ゲーム消してから寝るんやで」

「えー」


 彼は、意外にも眉を顰めた。そして、甘えるように声を出しあろうことか僕の手を引くとそのまま引き寄せ抱きしめた。

 きっと寝ぼけているのだろう、と僕は思う。それでも。直前まで眠っていて、更にお酒まで飲んでいる彼の体は暖かくて。その温度は、僕に離れがたさを抱かせるには十分だった。しかし、僕は心を鬼にして彼の肩を片手で押し返す。


「僕ひなたやないで~」と僕が笑みを作る。

「知ってるって。一緒に寝ようよ……」


 彼は相変わらず不服そうに口を尖らせると、再び強く僕を抱き寄せて座ったまま僕のお腹へ顔を埋めた。もしかしたら、昨夜にもたくさんお酒を飲んでいて酔っぱらっているのかもしれない。こんな機会なかなかないのに、と思うと後ろ髪を引かれる思いだが、僕はふぅと息をつき意を決して彼の頭をポンポンと叩いた。


「あかんて。僕これからバイトやねん」

「休んじゃえ」


 彼は冗談めかすでもなく、真剣なトーンで言って僕を真っすぐに見上げた。


「休めるわけないやん。ただでさえ風邪で休んどるんやから、お給料なくなるわ」

「俺のバイト先おいで。給料高いよ」

「あそこ顔採用で有名やろ……。ええからはよ寝ぇや」


 彼の言葉を軽くあしらって、少し強引に抱きしめられた腕の中を抜ける。しかし、なぜか彼はふふと上機嫌に笑みを漏らして頷いた。大方、自分の顔を褒められたことが嬉しかったのだろう。


「別に顔なんて褒められ慣れとるやろ、詩音くんなら」


 僕が少しだけ嫌味も込めてふっと笑う。


「慣れてるけど、嬉しい時だってあるよ」


 しかし、彼は僕からの言葉を素直に誉め言葉として受け取り上機嫌に腰を上げた。


「いってらっしゃい」


 僕の頭に、優しい掌が触れる。きっと、彼にとっては何気ない仕草なのだろう。頬を熱くする僕を尻目に、彼はおぼつかない足取りでベッドへ向かい、倒れ込むようにして体を沈めた。きっと、余程眠たかったのだろう。その後一分としないうちに彼は再び寝息を立て始める。

 息でなびく黒髪が、なんだか少し可愛かった。


「行ってきます」


 僕の言葉は彼へ届いただろうか。僕は彼の邪魔をしないように、静かに扉を開けて部屋を後にした。






 部屋を出ると、なにやらキッチンの方からガタガタと小さく音が聞こえてくる。一茶なら、今日はもう少し遅い時間からのバイトだと話していたはずだったけれど。きっと、僕のためにわざわざ早く起きて作ってくれているのだろう。僕がお礼のためにキッチンへ向かうと、案の定そこではエプロン姿の彼がご機嫌に栗色のアホ毛を揺らし、なにやら奇妙な歌詞の歌を歌っていた。


「卵焼き~、卵焼き~っ。あれ、塩がっない~っ」


 ノリノリな様子で、透明なボールの中に割り入れられた卵を溶く一茶。彼はふと動きを止めると、目の前の棚から白い容器が二つ並ぶうち、右のものを手に取り中に入った白い粉をボールへ加えた。そして、その体勢のまま硬直する。


「おはよ、一茶」


 僕は、敢えて何事もなかったかのように声をかける。彼は僕の意図を察したのか、むっと口を尖らせてギロリと僕を睨んだ。


「お前、止めろよ」

「ええやん別に。砂糖でも美味いやろ」

「そういう問題じゃねぇよ」


 一茶はまるで当てつけのように大きくため息を漏らすと、決して綺麗ではない字で『砂糖』と書かれたテープの張ってある白い容器を再び棚へ戻した。


 一茶は砂糖派なくせに、と僕は思う。きっと、僕とひなたの好みに合わせてくれようとしたのだろう。年上で、身長だって僕よりも少し大きい彼へ使う表現ではないかもしれないけれど、その少し拗ねたように口を尖らせる様にはいじらしさを感じた。


「いつもありがと」と彼の背中をポンと叩く。

「い、いいから……出来上がるまでそっちで待ってろ」と彼は少し染まった顔をふいと背けた。


 面白い人だ。素直に頷けばいいのに、と思いつつ照れる彼の言葉を「はいはい」と聞いて、僕はリビングへ向かうのだった。





 

 ある程度出来上がるまでは、決して広いとは言えないキッチンで手伝えることもない。それまでに色々準備を終わらせてしまおうと、顔を洗って、歯を磨いて、そしてある程度寝癖を直して再びリビングへ向かう。

 扉を開けると、正面にはさっきまでなかったはずのサラサラの赤茶髪がソファの肘置きからはみ出ているのが見えた。僕は、そこへ寄ると背もたれ部分の方からソファを覗き込む。そこでは、大きなあくびを漏らしながらどうにか眠らないようにと目を擦るひなたがいた。


「ひなた、何してん。まだ寝とればええやん」

「ん~……」


 バイトもしていないので特に予定もないはずの彼は、寝ぼけたように曖昧な返事をしつつも体を起こす。大人しく寝ていればいいものを、わざわざ起き上がった彼は大きく伸びをしてからぽんぽんと隣の席を叩いて僕を呼ぶ。


「なしたん、寝ぇへんの?」


 僕はそんな不思議な彼の言うことを聞いてやり、隣に腰を降ろす。しかし、彼はおしゃべりに興じるでもなく、僕の肩へ寄りかかって寝息を立て始めた。なるほど、と思う。確かに、こんなことをされていたら詩音くんが好きになってしまう理由もわからなくもない。詩音くんは元々女の子が好きだから、きっと可愛いひなたに惹かれたのだろう。幸い、詩音くんのようなかっこいいタイプの人が好きな僕の感情は動かされないけれど。

 それでも。この自由奔放なところが可愛くて、そして憧れで。僕は彼のその白い柔らかそうな頬に沿う、伸びた赤茶のもみあげへ触れる。彼は、一茶のものとでも勘違いしたのか僕の手に頬をすり寄せた。やっぱり、ひなたは詩音くんに似ているな、と思う。彼らはいつも、僕を他の誰かと間違えて愛を求めるのだから。


 そこで、ふと気づいて慌てて彼の髪から手を離す。いくら僕にもひなたにもその気がないとはいえ、恋人の前でこれは失礼に値するだろう。このことを謝罪しようと顔を上げると、キッチンの一茶と目が合った。彼は僕の心を全て見透かすようにふっと優しく笑った。


「ごめん、楓が嫌じゃなかったらそのままにしておいてやってくれない?」


 逆に嫌じゃないんだろうか、というのが素直な感想だった。少なくとも、僕がもし、詩音くんとひなたが寄り添って眠っているのを見せつけられたとしたら、穏やかな気持ちでいることはできそうにもない。これが、余裕があるということなのだろうか。


「ええの?」

「うん。だって、妬く必要はないだろ? 楓には詩音くんがいるんだから」


 彼は僕から視線を外してしゃがみこみ、食事の準備しながら片手間にそう言う。つい最近まで、あんなに真剣になって詩音くんと喧嘩していた人とは思えない変わりようだった。


「詩音くんのこと、信じることにしたの?」と僕が言う。

「まぁ、それしかないじゃん?」


 彼の表情は、ここからでは見ることが出来なかった。

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