第16話

 詩音くんがチャイムを押し込むとほぼ同時に、勢いよく扉が開く。ゴツンと詩音くんに扉がぶつかるのを無視して部屋着姿で飛び出してきたひなたは、勢いよく僕の胸に飛び込んできた。意外にも僕と同じかそれ以上の体重のある彼だけれど、僕はそれを涼しい顔をして受け止める。彼は僕と密着するや否や、ジトっと不満げに目を細めて僕を見上げた。


「急に今日は帰らないとか言われてびっくりした」

「すまんて」


 明らかにご機嫌斜めな彼を宥めようと、彼のいかにも寝起きなボサボサの頭を撫でてやる。案の定、単純なひなたは大人しくなったかと思えば少し染まった頬を膨らませた。多分、照れ隠しだ。そのガキ臭い仕草に僕がついふっと笑みを零すと、彼は眉間に皺を寄せて拗ねたように再び僕の胸へ顔を埋めた。


「いつもと匂い違う」

「そら、香水つけてへんもん」


 僕がそう言うと、彼はわかりやすく「はー」と声に出してため息をついた。


「おかえり、楓。……詩音くんも」


 ひなたのひっつき虫に困っていると、相変わらず可愛いエプロン姿の一茶が大きなアホ毛を揺らして扉からひょこっと顔を出す。相変わらず詩音くんとはぎくしゃくしているようではあるが、ちらっと視線を送って名を呼ぶ姿を見ると案外、仲直りも時間の問題に思える。

 しかし、そんな一茶はひなたを引き剥がしてくれる気は毛頭ないようでいつもとは対照的にそのきりっとした目を柔らかく細めてひなたを見守っている。助けを求めるべく彼へ視線を送っていると、彼はすぐに気が付いてはくれたようだが僕の意図するものは伝わらなかったようだ。細められていた目がキッとして、まるで睨むように向けられた。


「楓。詩音くんに嫌なことされなかったか?」


 彼は、詩音くんが目の前にいるにも関わらず容赦なくそう質問をぶつけてきた。一瞬、夜のことが頭をよぎる。痛かったこと。いつも通り、僕を置いてすぐに眠ってしまったこと。でも。それを言ってしまったらまた、僕たちの仲を認めてもらうまでの時間が伸びるだけだろう。だから僕は、笑顔で首を横に振った。


「んなわけないやん。詩音くんはいつも優しいで」


 僕の言葉に嘘はない。実際、彼が意図して僕を傷つけてきたことなんて一度もない。彼は多分、少し抜けているだけだ。

 それを聞いていた詩音くんは嬉しそうにニヤリと口角を上げて、まるで褒めてもらいたくて今日の出来事を母親へ報告する幼子のようにドヤ顔をした。


「ふーん……ならいいんだけどさ」


 それでも一茶のどこか訝しむような雰囲気は拭えなかったが、少なくとも当初のような敵意は感じられない。


「手洗いうがいして服着替えてからご飯だぞ」


 彼は口癖のようにいつも言っていることを繰り返すと、くるりと踵を返し家の中へ戻っていった。

 それを受け、ようやくひなたも僕の元を離れて一茶の後を追うように駆け足で玄関をくぐる。しかし、彼はすぐにまた戻ってくると、詩音くんの手にあった袋を流れるような動きで取り上げた。


「やったぁ、これ俺もやりたかったんだよね」


 そう言って彼が袋から取り出したのは、詩音くんが楽しみにしていた新作のゲームと、その特典で付いてきたポストカード。しかし、ひなたは特典の方には興味を示すことなく袋へしまい込むと、興味津々にそのゲームのパッケージを眺めながら玄関へ戻っていく。


「待って、それ俺のなんだけど!? それにひなた、怖いの嫌いって言ってたのに……」

「気が変わったの~」


 詩音くんが慌てて追いかけるが、ひなたは容赦なくパッケージを開くと正面から見なくても満面の笑みであることがわかるような、感嘆の声を上げた。


「すごぉお、かっけ~」

「でしょ~?」


 詩音くんは取り戻そうと必死だったはずが、褒められて嬉しかったようでコロッと態度が変わり一緒になって覗き込みひなたへ自慢する。

 なんだか似た者同士だな、と思う。この少し子供っぽいところとか、温厚なところとか、忘れっぽくて抜けているところとか。詩音くんは、そういうところに惹かれたのかもしれない。そりゃあ、僕じゃダメなわけだ。僕は気を保つようにふぅ、と息をつくとはしゃぐ彼らの隣を通り過ぎて先に洗面所へと向かうのだった。


 言われたとおりに手を洗ってうがいをして。自室へ戻って部屋着に着替えると、服を洗濯機へ入れて、そして再び手を洗う。念入りに手を拭いたうえで手の匂いを嗅ぎ無臭であることを確認すると、僕はようやくリビングへ向かった。

 そこでは楽し気にテレビの前を占領してゲームをするひなたと、それを隣で眺めてあっちだそっちだと楽しそうにアドバイスする詩音くんがいた。さすがに、これくらいで嫉妬する時期はとうに過ぎた。


「詩音くん、はよ手洗ってきぃや」


 僕はそうお小言を漏らしつつも、彼らのそばを素通りしてキッチンへ向かった。

 キッチンでは、既に料理を済ませ盛り付け作業中の一茶が鼻歌を歌っている。ノリノリで体を揺らしてキャベツの山の頂上にトマトを乗せ、満足そうに頷く彼の様子に様子に、僕はつい安堵の息を漏らした。どうやら久しぶりにご機嫌モードなようだ。


「なんか、ひなたと詩音くん、本当の兄弟みたいやね」


 そんな彼の上機嫌な様子にはあえて触れずに微笑みかける。


「あぁ、俺の弟と兄貴もこんな感じでうるさかったわ」と、一茶は苦笑した。


 そんな一茶との会話が聞こえていたようで、リビングからひなたの大きな声が飛んでくる。


「俺兄さん嫌い」

「あー、わかる。絶対力で勝てないのわかってるから意地悪してくるんだよね」

「ねーっ。俺、妹欲しかった」

「え、選べるなら絶対お姉ちゃんでしょ」


 よくわからないけれど、本物の兄弟みたい、という僕の感想は不服らしい。ガチャガチャとコントローラーを操作する音と共に兄への不満と、彼らの不純な願望が聞こえてくる。姉だって彼らの思い描くようなものではない、とそう思いながら僕は一茶が料理を盛り付けたお皿をテーブルへ運ぶのだった。






 そんな、何の変哲もない一日だった。一茶が分かりやすく詩音くんを邪険に扱うこともなければ、ひなたが悲しそうな顔をすることもない。まるで、“あの日”の前に時が戻ってしまったかのような、平和な日だった。

 なるほど、と思う。どうやら、詩音くんの作戦が功を奏したようだ。僕とデートへ出かけて、ホテルに泊まって家を空ける。そうすることでほとぼりも冷めるだろうし、まるで詩音くんが本気で僕のことが好きになったのだと勘違いさせることができた。


 なのに。まるで、僕だけがどこかに取り残されてしまったように寂しくて、心にぽっかりと穴が開いたようだった。彼らにこの関係が認められるのを一番に望んでいたのは僕だったのに。そんなことを想いながら僕はその日、相変わらず忙しないコントローラーの音を聞きながら、ディスプレイに照らされる大きなヘッドホンをつけた彼の横顔を眺め、眠りにつくのだった。


 




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