第12話

 すやすやと安らかな寝息が部屋へ響く。長い睫毛と心なしかいつもより艶やかな肌がかっこよくて、僕はその肌へ触れた。

 その薄紅色の唇は、今日も僕の名を呼んでくれることはなかった。でも、今日はひなたの名もまた同様だった。それだけで満足に思う。


 彼の隣で後処理を済ませ、ティッシュをゴミ箱へ投げ込む。弧を描いてゴミ箱へ入るそれを見届けずに僕は再び彼の隣へ身を沈めた。服なんて、着る気力は残されていない。

 横になった振動で体の至る所が痛むが、背に腹は代えられない。詩音くんのためなら、例え次の日にバイトのシフトが入っていようが朝まで付き合おうと本気で思う。幸い、友人のおかげで休みはまだ残っているけれど。


 目の前の白い頬へ口づける。確かに意識は夢の中であったはずだが、彼は無意識なのかふふっと笑みを浮かべた。大方、脳がひなたと間違えでもしたのだろう。詩音くんが幸せそうなのだから、それでもいいと思った。


 そうして目を瞑ったとき。ノックの音もなく扉が開く音がする。ひょっこりと顔を覗かせた何者かが首を傾けると、柔らかそうな髪がふわふわと揺れた。彼は気配に気が付いて目を開けた僕と目を合わせると、その大きな瞳をにんまりと細めた。


「楓、やっぱり起きてた」


 そう言う彼はまるで大きな唐揚げを目にしたときのように、機嫌よく軽快な足取りでずかずかと部屋へ入り込んでくる。しかし、そんな彼の表情はすぐに曇ることとなる。彼はわかりやすく目を丸めた後、急に眉を下げて腕で顔を隠した。


「ごめんっ……ちょっと話したくてきたんだけど……えっと……ごめん」


 そして彼はどたばたと音を立てて部屋を去った。これにはさすがの詩音くんも目を擦りながら体を起こす。彼は赤く色づいた首元を搔きながらぼんやりとひなたがいた空間を眺めたけれど、そこには既に空きっぱなしの扉が揺れるだけだった。

 僕はそんな彼の足をまたぎベッドを降りて、落ちていた彼の服を拾い上げる。それを彼の頭の上へ置いてやると、寝ぼけていた彼だったがしっかりタグの位置を確認してから被るのが視界の端に映った。だから、僕は安心して自分の服を拾い上げる。


「え、楓。どっか行くの」と詩音くんが服を掴む。

「ひなたに呼ばれたから」と僕が応えると

「早く戻ってきて寝るんだよ」とだけ言って彼はその手を離した。


 一瞬、寂しがってくれたのかと思ったのに拍子抜けしてしまう。そんな僕を尻目に、詩音くんはごろんと僕に背を向けて寝転がるとまるで子供のように一瞬にして大きな寝息を立て始めた。

 本当は、彼が望んでいないとしても彼の隣で眠っていたかった。せっかく今日もあの激痛に耐えたのだから、そのあとのおだやかな時間は自分のものにしてしまいたかった。しかし。自分達のせいで何度も泣かせたひなたを放置することは僕には出来なくて、渋々ながらも部屋を出るのだった。






 薄明りの漏れる部屋の扉を三度叩く。静かな空間にコンコンと音が響いた刹那、部屋の中からドタバタと音が聞こえる。それは怪我でもするんじゃないかと心配になる程だ。しかしその音が止んだ時、勢いよく扉が開き無邪気な顔をしたひなたが僕を出迎えた。


「来てくれないと思ってた」


 いつにも増して輝く瞳がぐいぐいと距離を詰めてくる。招き入れようとするくせに廊下に押し出さんばかりの勢いが面白くて、つい笑みが漏れた。彼は自分が笑われていることなんかつゆ知らず、不思議そうに僕の顔を覗き込んだかと思えば今までの勢いはどこへやら、大人しく部屋へと引っ込んだ。


「なんやねん」


 そんな彼の不思議な行動にツッコミを入れながらも彼の後を追い部屋へとお邪魔する。

 彼の部屋のテーブルには、お菓子が山積みにされていた。テーブルの隣にはいくつかのジュースが置いてあり、極めつけには僕の席であろうところをたくさんのくまのぬいぐるみが囲っている。彼はきっと、楽しい催しでも装ったつもりなのだろう。生憎その、間もなくぎっしり敷き詰められたくまは催しというよりも宗教勧誘か何かを彷彿とさせるけれど。

 

「座って」


 何やら忙しない彼に促され、くま達の視線に囲まれた座椅子に膝を立てて三角形に腰を降ろす。ひなたは何の躊躇いもなしに目の前のお菓子を縦向きに裂いて封を開けると、僕の目の前に差し出した。


「食べきられへんかったらどうすんねん」


 僕が笑うが、彼は「いいの」とだけ言ってベッドへ向かうと何を思ったのか思い切り布団を引っ張った。もともと部屋は片付いている方ではないうえに布団の上にあったクッションや枕が床に落ち、見るも無残な部屋へと変貌していく。


「なにしてんねん、布団取りたいん?」


 人の部屋と言えども片づけを手伝う羽目になる一茶が可哀想で、つい口を挟む。しかし、彼は僕の声を無視して強引に布団を引っ張り出してくると、周りのぬいぐるみ達が倒れるのもお構いなしにそれを僕の頭から雑に被せた。


「お腹、冷やしたらだめって言ってた。一茶が」

「いや、別に大丈夫なんやけど……」

「いいから」


 そして、彼は僕の口を封じるようにぬいぐるみを顔へ押し付けてから僕の向かいの席へ腰を降ろす。彼は胡坐をかくと、おもむろにまたお菓子を開けて手が汚れるのも気にせずに鷲掴んで、口へと放り込んだ。しかし、いつものご飯の時のように顔が綻ぶことはない。ただ無言で数口食べた後、彼は気まずそうに俯くとそばに落ちていたクッションを手繰り寄せて、強く抱きしめた。


「楓」彼は絞り出すように小さな声で僕の名を呼んだ。

「なしたん」と僕が応えると

「元気?」と彼は顔も上げずに囁いた。


 変なことを聞くやつだと思う。僕は今、ずっと好きだった人と付き合えて幸せの絶頂だ。でも色々あったから、ひなたも少し心配なのだろう。そんな彼の優しさが嬉しくて、僕は与えてくれた布団にくるまりながらクマを抱きしめる。


「うん、めっちゃ幸せ。ひなたは?元気やないん?」


 僕がそう言うと、彼はふっと顔を上げてわかりやすく訝し気に僕を見た。彼の前髪の下にある眉が顰められたのがわかる。僕や一茶ならもっとうまく隠すのに、と思うと面白くて、ついぷっと噴き出してしまう。そんな僕を見てひなたはやっぱりわかりやすく口を尖らせた。


「楓のそういうとこだいっきらい。俺本気で聞いてんのに、楓わかりにくいから嘘かほんとかわからないし……」


 ふいと背けられた顔は、ほんのりと染まっていた。きっと、彼なりに照れながら気を遣ってくれているのだろう。そんな彼からの“だいっきらい”はまるで子供のようで、こんな素直にいられる彼を羨ましく思う。


「ふはっ」と噴き出した僕を、彼は恨めしそうにジトっと睨んだ。

「ひなたは絶対高い壺買わされるタイプやもんね」

「わかってるから疑ってんじゃん」と彼は押しつぶすように強くクッションを抱きしめる。


 彼の瞳は、潤んでいるように見えた。彼は、こんなことで泣くほど弱かっただろうか。それとも。これは、彼を泣かせる程大きな問題なのだろうか。


 僕は借りた布団を引きずって彼の隣まで行き、黙って座り込む。彼は驚いたように顔を上げたが、やっぱり少し拗ねさせてしまったようでふいとそっぽを向かれてしまった。僕はそんな彼の頭へポンと手を乗せてやる。


「意地悪言ってるわけやないよ。少なくとも僕は今本気で幸せやと思っとるし、元気やねん。でも……もし、幸せやないなぁって思い始めたらちゃんと相談するから」


 彼はクッションへ顔を埋めてただ黙って頷いた。きっと、泣いているところを見られたくはなかったのだろう。でも、耳は真っ赤だった。だから、僕は黙って頭を撫でていてやる。ひなただったら多分、そうするだろうから。


 少し経つと彼はクッションで綺麗に涙の痕を拭いて顔を上げた。その笑顔は、さっきまで泣いていたとは思えない程に綺麗で明るかった。


「じゃあさ、楓が本当のこと教えてくれたら、俺も本当のこと教えてあげる」

「だから俺も嘘じゃないっちゅーねん」

「いいから。お菓子開けちゃったから早く食べないと湿気っちゃうじゃん」

「お前が変な開け方するからやろ」

「いいから!」


 そうしてどうでもいい話で言い合いながらも気が付くと睡魔が襲ってきて、結局お菓子まみれの狭い部屋で二人身を寄せ合って眠りにつくのだった。

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