第11話

 目の前にはほとんど手の付けられていない料理が盛られたお皿が二つ。リビングを飛び出していった一茶とひなたの分だ。僕はそれを並べて丁寧にラップをかけていく。


 キッチンから見える大きな食卓では、ようやく朝食を食べ終えた詩音くんが顔を上げた。料理はとっても美味しかったはずなのに、まるで彼のよくやっているゲームにでてくるゾンビのような顔だ。きっと、ひなたを泣かせてしまったことが余程ショックなのだと思う。その優しさを僕に向けてくれたらどれだけ幸せか、と思う反面、悔しくもそんな死んだような顔にすら魅力を感じる僕もいる。惚れた弱みというやつだろう。


 僕は彼を盗み見るのをやめ、ラップをかけたお皿を両手に持ち冷蔵庫へ押し込む。

 そんな時、ふいに後ろから名を呼ぶ声が聞こえる。振り返ってみるとその先にある食卓では、いつのまにか瞳に正気を取り戻した詩音くんが僕をじっと見つめていた。


「俺のこと好き?」


 彼は手元の箸を執拗に指先でこねくり回しながら言った。

 聞くまでもないと思う。僕は再び冷蔵庫に向き直り、その銀色の扉を閉めながら返す。


「愛してる」


 冷蔵庫に映った自分は、意外にもぎこちない笑みを浮かべていた。






 一茶はひなたを追いかけて部屋へ行ってからは、お昼ご飯の時しか部屋から出てこなかった。もちろん詩音くんもそれは同じだった。

 こういうとき、どうにか慰めてやるのが僕の仕事だと思う。しかし、部屋ではずっと詩音くんの頭に大きなヘッドホンがついていた。彼の右手がクリック音を鳴らすと画面の中の人の形をした化け物が倒れていく。僕はただその様子をベッドに座って眺めることしかできなかった。

 そうして意味もなくぼーっと彼の操作する画面を見ているときだった。気づけば部屋の中は真っ暗で。腹の虫が鳴くのを見計らったように何者かが部屋の扉をノックもなしに勢いよく開けた。詩音くんは、その音に気が付いていないようだった。


「ご飯、出来たって」


 彼は遠慮なく部屋へ入ってきてその暖かい手で僕の腕を強く掴んだ。痛いくらいだった。いつもだったら痛いと振り払っただろう。しかし、出来なかった。彼の目は腫れていて、それを隠すためか終始僕の目を見ようとはしなかったのが印象的だった。


「ひなた」と僕は彼を呼ぶ。


「ご飯、出来たから」


 ひなたは壊れてしまったかのようにそう繰り返して僕の腕を引いた。じわっと額へ汗が滲む。自分のせいでひなたを取り返しのつかない程傷つけたかもしれない。そう思うと変に口も開けなくて、僕はひなたに一種の恐怖を抱きながらコクリと首を縦に振る。それでも彼はいつものように無邪気な笑顔を浮かべることはなく、首を振って目を覆う前髪を避けると僕の腕を引いて部屋を出た。


「詩音くん、ご飯できてんで」


 そんなひなたが怖くって、僕は部屋の外から大きめに声をかけて彼を呼びはしたものの詩音くんをその場に置いてひなたについて行った。


 食卓には、相変わらず豪華な食事がやっぱり4人分用意されていた。


「おいで」


 そう一茶は僕へ柔らかい表情で手招きする。ひなたはそれを拒むように僕の腕を離すことなく、強引に自分の席の隣に座らせた。一茶もそれを注意することはなく、それどころか身を乗り出して僕の頭を撫でた。


「何かあったら言えよ」


 なにかあったら、なんて。僕はただこの関係を認めてほしいだけなのに。でも、彼の表情は真剣そのもので。言えるはずもなかった。


 その時。


「一茶。なにしてんの」


 低い声が部屋へ響く。気が付くとリビングの入り口には詩音くんが佇んでいた。一茶は声を聞くと一度目を瞑り、大きく息を吐いた。再び開いたその深緑の瞳には、確かな憤怒の色があった。

 沈黙を貫く一茶へ、詩音くんが再び低い声を浴びせる。


「何吹き込んでるのかは知らないけどさ。俺の楓に触らないで」


 一茶は、まるで嘲笑するようにふっと笑うと僕の頭に置いたままの手をぐるぐると動かして僕の頭をかき回す。彼は詩音くんを敢えて無視して僕を見たままに言った。


「お前のことは、俺が一番わかってやれる。ひなたよりも。……詩音くんよりも」


 そう言って僕へ向けた笑みは、何故かとても弱々しく見えた。そんな一茶が心配で、彼の肩へ手を伸ばしかける。しかし、彼へ届く前に「でも」と一茶が俯いた。


「朝のことは、俺が悪かった。あの場で言うべきことじゃなかった。ごめん」


 言い終えて、彼は顔を上げずにちらりと瞳だけ詩音くんへ向けた。向けられた彼は戸惑うように目を泳がせた後、その視線から逃れるように急ぎ足で食卓へ向かう。しかし、その割には躊躇なく一茶の隣の席へ腰を降ろした。ひなたの向かいの席だというのに、ひなたには一度も視線を送らなかった。


「俺も、悪かったよ」


 詩音くんは小さく呟き一人、料理へ向かって手を合わせる。一茶はすかさず合わさった手を強く掴んで至近距離に詩音くんの瞳を覗き込む。


「でも、楓との関係を認めるわけじゃないからな」

「……わかってる」


 しばしの沈黙の後に詩音くんが発した言葉はとても弱々しくて、助けてやれない自分が不甲斐なかった。

 ふいに、ずっと黙り込んでいたひなたが顔を上げる。彼はいつになく真剣な顔で、僕の横顔を見つめた。僕は何となく彼と目を合わせるのが怖くて、横目で様子を伺う。彼はそれでもまっすぐな瞳で口を開いた。


「楓はさ、詩音くんのこと好きなんだよね。全部わかった上で、付き合ってるんだよね」


 ひなたの口元が歪む。震えた声が可哀想で、僕はつい彼の方へ体を向けてしまった。彼はすかさず僕の両肩を掴む。少しだけ、痛かった。


「ね?」


 眉間に皺を寄せて、肯定を求めるひなた。僕は少し震える手をもう片方の手で抑え込み、彼の望み通りに小さく頷いてみせる。途端に、彼の大きな瞳から大きな雫が零れ落ちた。刹那、あんなに怖かった彼の顔はひなたらしい無邪気な笑顔に切り替わる。いつもと違うのはその涙だけ。


「じゃあ」と彼は涙を腕で拭いながら笑う。「僕は、詩音くんと楓を認めますっ」


 元気な声で高らかと宣言される、僕のずっと求めていた言葉。心配なんていらない。ぼくはずっと、こう言って欲しかった。目頭が熱くなるのをぐっとこらえる。彼らの前で泣くわけにはいかなかった。

 僕は彼の頭に掌を置いた。柔らかいその赤茶の髪が、とても心地いい。しかし、彼はじっとはしていてくれず、すぐに僕の手から離れて箸を不思議な形に握ると大好きな唐揚げを刺して口へ運んだ。


「おいし~」


 そうはしゃぐ彼の顔は涙でぐしょぐしょで。少なくとも僕の瞳には空元気に映った。

 詩音くんも、一茶までも、そんな彼に声をかけることはできずただ黙々と食事を済ませることしかできなかった。






 食事を終えて、洗い物を済ませた後。詩音くんの部屋に戻るときのこと。


「楓が可哀想だよッ」


 そう泣きじゃくるひなたの声が聞こえたのは、知らないふりをしておくことにする。

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