1996

鴨の羽

未来を想像できなかった会社員の話

私は、遠い未来を考えることが苦手だ。

将来の夢はなんとなく語れた方がいいとは思っていたが、語れなくて特別困ることはなかった。未来なんて思い通りになることはないし、今が楽しければ十分だった。


一応の目的をもって進んだ大学を卒業して、内定を貰えた会社に就職した。

入社当時20人いた同期も、残ったのは私を含めて6人。


時代が変わり、働き方やキャリアに多様性が生まれ、第二新卒というチャンスに少なからず魅力を感じても、ただ「石の上にも三年」という馴染みのある諺を体現できたことだけに謎の誇りを持っていた。


ギリギリ滑り込むような形で今の会社へ入ったが、子供のころから散々両親にネタにされてきた運の良さは健在で、環境にも恵まれた。


転職したいと思うきっかけもなければ、不満もなく、仕事は楽しい。

滅多に風邪も引かないくせに、一時離脱を提案されるくらい体調を崩した時期も、仕事を休みたいとは思うことは無かった。



そんな私が最も回答に窮した質問は、『○年後、どうなっていたいのか?』である。


幼稚園生が憧れるような「夢の職業」はとっくの昔に諦めているし、高校生のように未来への猶予も成長余地もない。

現実を知り、己を知り、やっと職というものに就いた今、そんな質問をされても正直困ると思った。


その質問に対して、自分が何と答えたのかは記憶にない。

問いかけた上司はもう居ないので確かめる術もないのだが、おそらく、当たり障りのない言葉を連ねてその場を凌いだのだと思う。


ただ、隣に座っていた同期に夢があることを知ったときの焦燥感だけは覚えているし、終に転職を見据えたキャリアビジョンを語り出した時には、勝手ながら上司の顔色を伺い心配もした。


同時に、自分に「夢がないこと」を自覚した。


未来を考えることが苦手な一方で、今を幸せに生きることは得意だった。これは私が私を好きでいる理由の一つである。

もちろん、思い出しただけで叫び出したくなるような恥ずかしい経験もあるのだが、過去に戻りたいとは決して思えない。


私にとって常に今が一番幸せだ、ということを知っているから、逆説的に未来も今より必ず幸せだと信じている。



それでも会社にいると「目標」を求められる。

営業数字やノルマ的なそれではなく、自らのキャリア形成につながることであるので、本当にいい会社、いい上司なのだと思う。


目標を持っている人や、夢を語れる人に対して羨ましい気持ちはあった。

それを表に出すことはなかったけれど、いつまでも答えを導き出せない自分に呆れたし、面談の度に上司を困らせているなと申し訳なさを感じていた。



人間は成長する。入社した時には横一列だった私たちも、変わった。

隣で夢を語っていた彼は転居を伴う異動を経験した。望んで役職に就いたあの子の努力も尊敬している。新たな場所で活躍することを選んだあの子も輝いていた。


私は、ただ懸命に「自分は夢を持つことに向いてない」のだと思い込み、表向きはそのことに悩んでるフリをして過ごした。



そんな私にも、ついに夢ができた。

生きているうちに本をつくること。鹿児島空港を離陸するIBEXエアラインズの小さな機内で、今回の旅を振り返っていた時、その夢を確信した。


1日経った今、落ち着いて考えてみると、きっかけは正しくこれまでの人生にあったと思う。だから全く持って突発的な衝動だとは思わないのだけれど、それはまさに青天の霹靂とでもいいたくなるような出来事だった。


いつか自分が書いた文が詰まった本を1冊、町の小さな書店に置いてもらいたい。


世界でただ1人でも、たまたま手に取った誰かの心に、なにかが響いたらいい。



そんな世界を想像したら、勝手に涙が流れた。

普段滅多に泣くことがない私にとって、それは夢ができた安心感だったかもしれないし、やっと生きていくための軸を手に入れた喜びだったのかもしれない。


隣に座っていたスーツの男性からの気遣わしげな視線を受けながら、私の心は文字通り、空を飛んでいた。


これは、25歳と半年と数日、やっと夢を見つけた私の始まりの記憶。



鴨の羽

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