あと3分

久芝

あと3分

「季節の変化を1番に知らせてくれるのは当たり前のように吹いている風なのかもな」と今日もプラットホームで電車を待つ同じ朝のスタイルを築いてからもう10年近くになる。

「まもなく3番ホームに、快速、新青葉中央行きが参ります。黄色線の内側に下がってお待ちください」

「え〜まもなく3番線に、」

自動放送に重なって駅員の声が響く重朝の一コマ。

腕時計で改めて時間を確かめると、8時37分を長針が差すところだった。

今日はいつもと違ってホームの1番前に並んでいる。

事件・事故が多いこのご時世、1番前には並びたくないのだが今日に限ってそうなってしまった。そうなってしまった以上、一応対策をしている。後ろから不意に押されてもいいように重心を出来るだけ低めに意識することと両足を揃えないようにしていた。はたからは普通に並んでいるいるように見えるが、本人の意識は全く違うので仮に通り魔にいきなり押されてもある程度踏ん張れるが、それ以上のパワーがこないことを祈るばかりだ。

重心を低くする意識は意外と難しい。自分の場合お腹の中心に力を入れ過ぎるとデメリットがある。

お腹が弱いのだ。

私にとって、お腹に力を入れることはあれがあれしてしまう可能性を高めてしまう訳で、こんなリスク本当なら負いたくないが、今日だけ仕方なく我慢するしかない。

快速にでの出勤は珍しい。いつもは急行に乗っているが、今日は朝イチから会議があるので早めに家を出てこの快速に乗ろうと思っていた。本来なら快速に乗って通勤すれば30分は早いのだが、私の不安は停車駅の少なさにある。快速のメリットが私にはデメリット。仮に乗車中にお腹の様子が怪しくなった場合、急行なら停車駅も多少は多いので何とかなりそうな気もするが、この路線の快速は極端に少ない。

ローカル線と違ってトイレ付きの車両はなく何とかやり過ごすしかないのが現状だ。

ただ、最近はかなり調子が良いのでそれほど心配はしていない。

もうそろそろ12両編成の快速がホームにやってくる。

先頭車両にいつも乗る習慣で並んでいた。

ドアが開き中の客が降りてくる。降り終わってから乗ると座席は全て埋まっていたが、車両の連結付近の吊り革が空いていたのでそこに陣取った。次から次に客が乗り込んでくる。急行の非ではないなと思いながら、カバンを上棚に置きとりあえず身軽にしておいた。

ドアが閉まり走り始めた車内は、急行と同じく静かだった。日本の電車は全体的に静かだが、数年前に関西方面に行った時車内は会話で満たされていた。東と西でこんなに違うのかと軽くメモしたなと思い出した。

あまりに静かだとお腹の音が気になる。それはテスト中のクラスでお腹が空いた時になるあの音くらいの恥ずかしさはある。それならまだ可愛い方かもしれない。早くテストが終わって答案用紙を裏返しにして、少し居眠りをしていた時に「ドン!!」と凄まじい音が教室中に広まった。爆発音か何か破裂した音がして、クラスの皆んなは俺の方を見ていた。なぜ見られているのか寝ぼけ眼の目を擦りながら空を眺めた。いい天気だったな。

あとから友達に聞いたが自分がかなり大きいオナラをしたようだった。全く気付かずその後も普通に過ごしていたことを今思うとかなり恥ずかしく、そういう何気ないきっかけから仲間外れやしばかれることがあるのに、ある意味鈍感な性格がそこでは幸いしたのかもしれない。

確かにガスが溜まりやすい体質ではある。会社でガス漏れは今の所ないが、会議途中にお腹が空いた時になるあの音が鳴ることはある。お腹が痛くてではなく、空いてなる方が多いだろうか。

最初は誤魔化していた。変にペンケースの中をガシャガシャと音を鳴らしたりキーボードを強めに押して音を鳴らしてみたりと、少しでも自分ではないよとアピールしたこともあったが、それは逆に恥ずかしいことだと気づき、今ではもう開き直っている。逆に小さな会議だと「ごめん。お腹が騒いでるんでご飯いきましょう!」と言って逃げる口実に使いやすいと思っている。

静かな電車の中では何気ない音が際立つ。新聞を広げる音、タンが絡まっているおっさんの咳、鼻が詰まって啜っている音、若干イヤホンから漏れる音。その中でとりわけお腹の音は何故かかなり目立つ気がするのは考えすぎかもしれないが。

お腹が痛くてなる音は、空いてる時とはかなり違う。「ゴゴゴゴゴゴ!」と地鳴りのような音がすると妻からはよく言われ、「そこに何飼ってるの?」と言われることもしばしば。医者には「過敏性超症候群」と診断され一応薬は飲んでいるが効いてるのかどうか分からないが、ないと不安になるので手放せない状況にも関わらず、2日前に薬が切れてしまった。毎回2週間分の薬を処方してもらっているのだが、もう2週間経ってしまったようだ。ここ1ヶ月は仕事が忙しく病院に行く時間がなかったしいつになく調子が良かったことも重なっていた。

この調子のまま行けば薬からも卒業できるかもしれないので、とりあえずそのことはなるべく考えないようにしていた。

いつも停車する駅を通過していく。今のところ電車もお腹も快調であり、このまま無事に駅に着くことを祈るばかりである。

電車が走り始めて30分くらい経っただろうか。

スマホのニュース記事を見ながら朝の会議のことを考えていた。一応まとめておいた資料を確認しておくかとGoogleドライブからドキュメントを開き見始めた時、緊急地震速報が鳴った。他の乗客のスマホからも同じ音が鳴り、車内は一気に騒がしくなった。電車は急ブレーキをかけ緊急停止をした。その反動で乗客が転んだり倒れたりする人がいて自分もつり革に捕まりながら耐えた。外を見ると次の駅があと少しのところでの停車だ。

音が鳴ってから10秒後、大きな揺れが車内に伝わってきた。電車が横倒しになるまでではないが、つり革にしっかり掴まっていないとバランスを崩す。立っている人はしゃがんだり重心を低くしながら、地震が過ぎるのを待つ。不安げな声や苛立っているような声が聞こえ、車内が騒がしくなりつつあった。

20秒くらい揺れて収まった。

多分しばらく電車は動かないだろうなと予想した。直ぐに車内に放送が流れた

「ただいま地震のために緊急停車をしております。地震の揺れが強かったために、線路の状況を確認しております。今しばらくお待ちください」

仕方ない反面、何時間もこの空間に閉じ込められるのは嫌だなと思いながら、上司にとりあえずメールをした。

「地震の為、電車が止まっております。朝の会議に間に合いそうにもありません」

直ぐに返信がきた。

「他の人も身動きが出来ないと連絡がきているので、今日の会議は中止にします。開催は後日に。出社が難しければ今日は休んでも良いので、状況だけ共有してください」

「わかりました」

しばらく電車は動きそうにない。まあこういうこともあるよなくらいで考えていた。

それから2時間が経過した。

車掌の放送が入るたびに乗客たちは徐々に苛立ち始めていた。

そして私は、まさかの腹痛の予兆を感じ始めていた。出来れば外れて欲しいが、今までの経験上あと数十分で激しい腹痛が襲ってくるのは間違いなく、それを見越して今まではトイレに直ぐ行けるくらいの範囲で行動制限をしていた。

もしかしたら人生最大のピンチ!?になるかもしれない。たかだか、それで?と思う人もいるだろうけど、考えたら直ぐわかると思う。今までの人生でどんなにヤバい状況でも漏らしたことはない。これだけ緩い自分の中では誇りに思っていた。危機的状況は幾度となく訪れたことはあった。1番「まずい!!」と思ったのは、小学校六年時の社会科見学だ。

他県のヤクルト工場に見学に行き、工場について学ぶとのことだった。幼い頃ってヤクルトやビックルなんかを飲む機会が多かった気がするので身近に感じていたが、歳を重ねるにつれて疎遠になっていた。今ではほとんど飲むことはない。

他県なのでバスでの移動となり、約1時間半のコース。事前に早朝に下痢止めを飲んでいたので行きに関しては問題なく、むしろいつもより元気よく騒いでいただろうか。

帰りのバス、念のために薬を飲もうとカバンの中を探る。

ない。

入れたはずなのに何故かない。何度も確認するがない。

まあ、仕方ないとその時はそう思った。

帰りのバスの中はみんな疲れていて寝ている子も多かった。先生は一応疲れてはいるが起きていた。

僕は窓際の席に座り、隣に女子の誰かは分からないが座っていた。肘掛に腕おいて寝ている。

僕は何も考えずに外の景色を眺めている時、急に「んん?」と違和感がきた。

学校に着くまであと30分くらい。多分大丈夫だろうと鷹を括っていたが、状況は思いの外直ぐに崩れた。

第一波がやってきた。

これは浅い波で、この程度では心は折れない。力の逃し方を知っているし、何百回と潜り抜けてきた。

「大丈夫大丈夫。落ち着いていこう」と、心の中で呪文を唱える。

あと、10分くらいで学校に着くだろうというときに第二、第三波が連続でやってきた。

「やばやば!!!!!」

声にならない声で叫び悶え苦しんでいた。隣のやつは気持ち良さそうに寝ているのがムカつきはしない。寧ろ寝ていてくれありがとうとお礼を言いたかった。多分、すごい表情をしているのは間違いない。

なんとかギリギリ学校まで間に合った。バスを降りて直ぐトイレに駆け込み、「俺、よう頑張った!」と自分で自分を褒めたいと、その記憶が今蘇ってきた。

あの時と今、どちらがヤバいだろうか。向こうは終わりが見えていたが、こっちは見通しが立っていない。とすると、我慢をするしかないこと、自分の予想が外れて欲しいと願う。

「繰り返し連絡致します。地震の影響により現在線路の安全点検を行なっております。現在運転再開の見通しは立っておりません」

上司にこの旨連絡し、返ってきた文面は「今日は自宅作業で構わないので、自身の安全を優先にしてください」とのことだった。

なんのために電車の中で違うシンドイおもいをしているのかが分からない。とにかくうちらを早く車内からだしくれれば全ては解決するんだよなと感が出したら急に腹が立ってきた。

ニュースアプリを立ち上げ地震関連のニュースを確認した。かなり広範囲で震度5強があったらしいが津波の心配はないとのこと。ただし、俺の方の第一波は間違いなくやってくるので、その時にどれくらいの規模でそれに耐えられるメンタルがあるかどうかが心配だ。

ずっと立っているのも流石に疲れてきたが地べたに座るのも嫌だし、今はあまり変に動きたくない。おそらく部屋の本棚の本屋お気に入りのジオラマ、先週やっと手に入れたフィギュアも倒れているんだろうな。でも今は早く、トイレに行きたい。

そうこうしているうちに第一波がやってきた。思ったよりも、あっさりだった。構えすぎていたのかもしれない。この数年で腸内環境はかなり改善し突然の波も減ってきている。不安に思うストレスが逆に誘発してしまうことになることもあるので、なるべく考えないのがベストだ。

一波の波が引き今のうちにここから出してくれれば気が楽になる。このことを早く車掌に伝えなければいけないがどうしたもんか。線路に乗客を降すのは安全上問題があるのだろうが今は緊急事態だ。平時の考えではダメ。車掌の危険察知能力に期待するしかないのだろうかと。そんな時反対側の端っこの客が何か声を荒げている。

「おい、いつまでここにいさせるんだ。とりあえずここから出して最寄りの駅まで案内しろよ」と電話している様子だ。車掌はいないので直接お客様センターにでもかけているのかもしれない。彼の怒りはただの我慢が足りない?

俺のは一刻を争う。

「ん?なんか、嫌な感じがする」

遠くの方から微かに波の音がしてくる。耳を澄ます。まだ遠い場所にあるが、やがてくるのはどうやら確定だ。その前に何か手立てを出来るとすればと考えたときにあることを思い出した。

カバンを上棚から下ろし、開ける。中にはいくつかのポケットがあり、もしかしたらどこかに何かしらの薬の飲みかけ残骸が残っていたりすることがよくあった。手前のポケットを探す。特に何もない。

奥のポケットを探す。何かあった。取り出してみると、50円玉だった。

今度は底にあるファスナーを開ける。薄い紙のようなモノ。取り出してみるとレシートだった。しかも3年前の。内容はレストランのレシートで誰かと食事をしたらしい。なんでこんな所にあるというか隠してあるのだろうか。

ポケットを漁ってみたが薬らしきモノはなかった。

たまに財布の小銭入れの中に錠剤を入れてることもあるのでそっちも探してみる。

「あった!!」

思わず声を出してしまい、車内の冷たく苛立つ視線がくる。

「すみません」と軽く頭を下げ、カバンの中にある水で流し込む。なんとか大丈夫な気がしてきた。

スマホの時計を確認する。

既にお昼近くになってきた。今日はもう家に帰るかなとイメージしたと同時にアナウンスが流れた。

「お客様にお知らせ致します。線路の安全確認が途中まで出来たとのことで、この電車を最寄りの中央公園前まで運転致します。そこから先は本日は運休となります。また他の列車につきましても中央公園前までの運転となります。そこから先の運転に関しましては本日は取り止めとなっております。代替えにつきまして駅係委員にお尋ね下さい。本日は地震の影響によりお客様には大変ご迷惑お掛けして誠に申し訳ございません」

一通りアナウンスが終わるとゆっくりと電車が動き出す。イラついてた人も多少は機嫌が良くなったように感じ取れた。それにしても人が歩く並みのスピードで走る電車が歯痒い。線路状況を踏まえながらの運行だから仕方ないなと余裕をこいていた。

しかし、不思議なモノで今までの緊張状態から気を緩め始めた途端、第二・第三の波がいきなりやってきた。

「グルるるるるるるるる!!」

強烈なお腹の音が車内に響く。みんな「何何?」みたいに辺りを見ていた。

自分の前に座っているお婆さんは、私の顔を見上げながらシワクチャな笑顔を見せていた。

隣に立っているサラリーマンはクスクスと笑っていたので、軽くそちらに会釈をした。

多分、みんなお腹が空いてんだなと思ってるだろうが、もしかしたら人生最大のピンチかもしれない。

「やばやばやば」

いつもと違う。第四・第五波が来そうだ。そして、そのあとも波が......

魔法使いになりたい。そして、早くこの電車を最寄りの駅に着くようにスピードをいじりたい。このスピードに耐えられる自信がないくらいに、凄まじいこの痛みをどうごまかせば良いか?

とりあえず爪で指を強く刺激する。それからそれから、あとは、えーっと、そうだ......

「ご乗車ありがとうございました。まもなく終点、中央公園前。お出口は右側です」

3分、3分早ければ......魔法使いになれたのに。

窓の外は雲ひとつない晴天に恵まれていた。

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