第四話「蜜月を過ごして」②
私達に向けていた笑顔が凍りついた瞬間を私は見た。あの柔らかい微笑みは一瞬にして消えて目の奥は闇に変わった瞬間。私達の前に現れたのは写真で見たあのお爺さんだった。蚕の糸みたいに真っ白な髪には寝癖がない。写真で見た時よりも分かる育ちの良さ。まさに、『綺麗に歳をとった』を具現化した人だ。
「あれ、お爺ちゃん、もしかして依頼者の八重菊春秋さん?」
「えぇ、そうです。すみません、わざわざこんな山奥まで来てもらって。まさか、こんなにも若いお嬢さん達が来るとは思いませんでした」
目を細めて目尻にシワが寄る。品のある話し方に動作、曲がっていない真っ直ぐな腰は若々しさを感じさせる。パリッとアイロンがかけられているシャツを着ている姿は新入生か新入社員を思い出させる。話しかけて来た八重菊春秋さんに遠慮なくいつもの調子で話しかけに行く火糸糸ちゃん。最近気がついたのは、彼女といると心臓がいくつあっても足りないと言う事。死んでからも心臓の心配なんてしたくないのに。
「八重菊春秋さん。初めまして。私が今回の依頼を遂行する心艮と申します。それであの、左寺さんとはどんな関係で……」
「彼女とは、ちょっと揉めたことがあってね。……でも、その様子だとまだ変わっていないみたいだね。いい加減に……」
「あなたには関係ないでしょう?」
ビクッと肩が震えた。私だけでなく、火糸糸ちゃんも勢いよく左寺さんの方へ向く。彼女の声はズンッと心に重くのしかかるような、それだけでなく心臓を瞬間冷凍された気持ちにさせた。小説や漫画では喉がヒュッと鳴る、なんて表現するだろうけど本当らしい。自分が気付かないうちに呼吸するのを忘れてしまったようだ。
「……じゃあ、急いでるから! またね、心艮ちゃん」
重い空気がまるで無かったかのように振る舞い、笑顔で去って行ったお姉さん。あの笑顔は私でも分かる、完璧な作り笑いだった。蝋で固めた人形の如く貼り付けた笑顔はやけに生々しさを感じる。今の気持ちをどう整理すれば良いか分からず、言葉を失っていると深いため息が聞こえた。
「すまんね、お嬢さん方。彼女はいつもニコニコしているだろう? それを一度、注意したことあるんだ」
「何て、言ったんですか?」
「『何故、笑っているんだい?』って。すると、一瞬誤魔化したのだがすぐに無表情になってね。その後は、まぁ、お察しの通りだよ」
ハハハ、と苦笑いしている八重菊春秋さん。気の良いお爺さんに見えるが、意外と鋭いのかもしれない。小説を書いてるって言ってたし、きっと感性が鋭いのだろうな。私は聞いた事を半分後悔して、半分は聞いて良かったと安心した。前までよく分からなかった感情に整理をつけた気分。固まっていた体がふっと力が抜けたので、「ふぅ」と一息つく。
「お爺ちゃん、マジヤバいね! もしかして、人の気持ち察するの上手い感じ?」
「そうかもね。生前は人の気持ちに聡い子、と言われていたから。それより、お嬢さんはまたお洒落な格好をしている。それが今の流行りなのかい?」
「ありがと! 流行りかどうかは分かんないけど、私は幽霊っぽい服は嫌だからこれを着てるってだけ!」
「そうかい。それはとても立派な事だよ。そのまま自分を突き通して欲しいね」
恐らく孫と祖父以上に年の離れているであろう二人の会話は成立していた。火糸糸ちゃんは変わらずタメ口で話をしているが、それを気にする様子はない八重菊春秋さん。むしろ人目を引く服を着ている彼女に興味津々のようで服を見ながら話を続けていた。二人だけの世界になりそうだったのを感じ取り、本題に入ろうと話しかける。
「八重菊さん。今回の依頼の内容について早速確認したいのですが、よろしいでしょうか?」
「あぁ、話がずれていたね。では、お願いします」
私の言葉にハッとした彼は、話していた火糸糸ちゃんの方から私の方へ向き直し、頭をゆっくりと下げた。私の方が圧倒的に年下なのに威張る事や、昔話をしないのを見ていると本当に品のある人だ。私の知っている歳をとったお爺さんではない。物腰柔らかな彼を見て自然と自分も頭を下げていた。
「では今回の依頼ですが、『生前、婚約していた彼女に会いたい』とのことでよろしかったでしょうか?」
「はい、そちらで大丈夫です」
「了解しました。すぐに取り掛かることが出来ますが、どうされますか?」
「もう出来るのかい? そうだなぁ、僕の小屋の中でも大丈夫?」
彼が指差す先にある小屋を見て、私は頷いた。いつもの依頼ならすぐに行動するので肩透かしを食う気分。彼の性格や行動を見ていると、きっとマイペースなんだろうなぁと想像する。私が頷いたのを見て「じゃあ、こっちへどうぞ」と微笑んで案内をしてくれた。目と鼻の先にある小屋は意外と大きかった。雨に打たれて風に晒されているからなのか、趣を感じる。
火糸糸ちゃんも「楽しみー!」と言いながら一人でウキウキしていた。彼女も彼女で他人を気にすることが少ないので、ある意味二人は似ている。軽くスキップをしている彼女は八重菊春秋さんの「どうぞ、狭い所ですが」と言って開けたドアに向け、一目散に入って行った。
「わぁ! シンプルだけど、めっちゃオシャレ! お爺ちゃん、これ自分で作ったの?」
「半分はそうだけど、半分は手伝って貰ったんだよ。そこのソファーに座って。今お茶を淹れるから」
「キャー!」と言いながらソファーにダイブする火糸糸ちゃん。ソファーと同じくらいの長さがある低めのテーブルが一つあり、その上には一輪の花が飾ってあった。私も中に入りキョロキョロと中を見渡すと、趣のある古い見た目とは正反対の内装をしている。外からの光が差し込んでおり、シンプルにまとめてある家具と木材を使った小屋が映えていた。ふわふわしているらしいソファーで寝転がる火糸糸ちゃんに「ほら、ちゃんと座って」と促してから私も座った。
「ふふ、驚いたでしょう? 戦時中の人なのにお洒落だなーって」
「え、いや、その……あ、あはは……」
心の内側を見られた気がしてドキリと心臓が鳴る。今この瞬間も心臓が鳴っているのもバレてしまうのではないかとヒヤヒヤする。本人が言っていた人の気持ちに聡いと言うのはあながち間違ってもいないようだ。
「本当にオシャレだよね! 私もこんな家に住んでみたかったなぁ」
「おや、君達には家はないのかい?」
ふわりと香ってくるのはお上品な紅茶の香り。あまり紅茶を飲んだ事がない私にとってはホッとする匂いだった。カタン、とお皿の上にカップを置く仕草はとても丁寧で、片手に持っているお盆の上にあるポットから良い匂いがすることに気づく。ジーッと見つめていると、「そんなに珍しいかい?」とクスクス笑う八重菊春秋さん。私はハッとして頭を横に振って「す、すみません!」と謝った。
「はは、そんなに緊張しなくていいんだよ。紅茶は苦手だったかな?」
「あ、その、私、紅茶を飲んだことなくて……」
「そうなのかい? じゃあ、僕の入れた紅茶が初めてと言うことなんだね。ふふ、嬉しいなぁ」
コポポ……とポットからコップの中に紅茶が入って行く。最初よりも紅茶の匂いが強く感じ、心が踊るのを感じた。初めて見るので彼の動作全てに魅力を感じて見つめていると、「それで、部屋は無いのかい? 僕が頼んであげようか?」と提案をしてくれた。
「え! いいの?」
「あぁ、もちろんだよ。僕もここに来て随分長いからね。ある程度は顔が効くんだ」
「い、いえ! 私達にはちゃんと部屋あるんで大丈夫ですよ! ちょっと、狭いですけど……」
「えー別にいいじゃん! あの部屋に二人はちょっと狭くなーい?」
「いいの! ほら、依頼を遂行するために来てるんだからしっかりして!」
優しさの塊なのか、八重菊春秋さんは快く請け合おうとしていた。しかも、それに甘んじて火糸糸ちゃんが頼もうとしているのを阻止する。確かに私達の部屋はそこまで大きく無い。でも、外に出ている事が多い私達にとっては十分なのだ。寝泊まり出来るくらいのスペースがあれば良い。私の話を聞いていた彼は、口に手を当ててクスクス笑っていた。
「二人とも、仲良しなんだね。いいなぁ」
「……八重菊春秋さんは、いつも一人で?」
「そうだね。大体六十年くらい、かな? 天界に来てからはほとんど一人だよ」
「寂しく、無いんですか?」
私ですら十数年間独りぼっちだったのは寂しかった。まるで、私がこの世界に存在していないような気がして。思い出せる限りの記憶の中で、私はいつも独りぼっち。誰かと一緒にいた記憶なんてほぼ皆無。だからこそ、この言葉が出てしまったのかもしれない。私の質問に対して、持っていたポットを机の上に置く。ふわふわと出ていた湯気は少しずつ減って行き、今では微かに見えるだけだ。
「寂しく無い、と言ったら嘘になるかな。でも、彼女をずっと待っている時間は苦痛では無いよ」
彼が私に向けた笑顔は全てを包み込むような温かさがあった。きっと心の底から良い人なんだろうなぁと思い知らされる。こんな人が戦死したなんて、信じられない。良い人が早く死んでしまうのはいつの時代でも変わらない事実なのかもしれない。
「よし。じゃあ、依頼を進めてもらおうかな。僕は何をすれば良いかな?」
「あ、そのままで大丈夫ですよ。鏡で反射した所に現世が映るので、それまで待っててください」
分かったよ、と言った彼はお盆を抱えて台所らしき所へ向かった。やはり私の倍以上生きている人だから切り替えが早いと言うか。自分だったらそんな簡単に気持ちを切り替えられない。物腰柔らかなお爺ちゃんだと思っていたけど、抱えている物が大きすぎるのだろうな。自分では経験したことのない話を色々聞きたかったのだが、また今度にしようと心の中で決めた。
私が一人でしんみりしていると、横で「あちっふーっふーっ」と必死に紅茶を冷ましているツインテールの彼女。空気が読めるのか読めないのか、静かだと思っていたら紅茶と戦っていたらしい。
「ほら、火糸糸ちゃん。今から依頼を遂行するから手伝って」
「え? あーはいはい! ちょっと待ってね」
一口だけ口の中に入れて、ふぅと一息つく。すると、すぐに「よし! やるぞ!」と言って立ち上がったので私も同じように立って紅茶のカップが乗っている机を一緒に動かす。なるべく広い場所で映し出したいので動かした。そして、日光が入ってくる場所へと移動し反射するかどうかを確認するべくポケットから鏡を出す。
「ここら辺で、大丈夫かな?」
角度を変えつつ反射させていると、片付けを終わらせた八重菊春秋さんがこちらへ来た。ジーッと見ているので思わず、「どうかされました?」と聞くと「いやぁ」と片手を顎に添えている。
「これが、現世に繋がるなんて凄いなぁって思いまして」
「まぁ、私達も半信半疑でしたから」
苦笑いしながら話し、「ここら辺でいいかな」と決めた。一度鏡を閉じて、真っ直ぐに彼を見る。私の隣にいる火糸糸ちゃんは「楽しみー!」と緊張感がないようだ。私の変化を感じ取ったのか、お爺ちゃんも同じように身だしなみを整えて真っ直ぐ見た。
「では、これから現世にいる八重菊春秋さんの元・婚約者の女性を映し出します。私たちが出来るのは映し出すことだけです。介入することは出来なくはないですが、お約束は出来ませんのでお願いします」
「はい、分かりました。よろしくお願い致します」
「それでは……」
鏡を開き、光が反射するように少し高めに腕を上げる。反射した所に視線が集まる。最初は靄がかかっており見にくかったようだが、すぐに鮮明になり映し出された。しかし、そこに人はおらず綺麗に整頓された部屋が映し出されている。一つの大きな本棚にたくさんの本が置いてあり、その前には小さなコタツが一つ。誰かいないのかと思い黙っていると、一人の女性、いや、お婆ちゃんが出て来た。
「
ポツリと呟いた八重菊春秋さん。彼の顔をチラッと見ると、一筋の涙が垂れていた。彼女が、きっと彼の元・婚約者である『七草希叶』さん。書類の中にも一応書かれていたのだが、正直名前の読み方が分からなかったのだ。戦時中にしては珍しい名前だったんじゃないかな、と思っていると映像はどんどん進んで行く。
『お婆ちゃん!』
『何だい、また遊びに来たのかい』
『だって、お婆ちゃんに会いたくて! またお話聞かせてよ!』
『仕方ない子だねぇ。あぁ、
『いえいえ、私達にはこれくらいしか出来ませんから』
一人、また一人と現れる映像の中。お婆ちゃん、と呼ばれているのは七草希叶さんで間違いないだろう。言っていることは少し厳しく聞こえるが、表情は柔らかい。宝物に触れる手付きで子供を撫で、一緒に来た女の子の母親らしき女性にお礼を言っている。どこからどう見ても幸せな家族の図。
しかし、これを見て肝が冷えたのは私だけだろうか。だって、孫がいると言うことは彼女は既に他の誰かと結婚している可能性が高い。第三者の私ですら分かったのに、当の本人が分からないはずがない。どんな表情をしているかと思い、再度彼の顔を覗き見ると、予想外にも彼は目を細めて口角を微かに上げて微笑んでいた。
「そうか……彼女は、幸せになったんだな……良かった、良かったよ……」
ただ、それだけを繰り返していた。元・婚約者とは言え一度は愛を誓い合った仲なのに、何故相手の幸せを喜ぶことが出来るのだろうか。自分が先に死んでしまい、辛い想いをさせてしまったからその懺悔なのか。私には分からない感情が、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「あの、何故、喜んでいるんですか?」
「え?」
「だって、元は婚約者じゃないですか。彼女だけ幸せになって自分は死んで。普通、恨むんじゃないんですか?」
失礼なことを聞いているのは頭では分かっていた。でも、どうしても止まらなかった。だって、私にはここまで愛してくれる人がいなかったから。誰も、教えてくれなかったから。鏡を持ったまま私は質問を続ける。手が震えていることはブレている映像を見れば分かった。それでも私の口は止まることを知らない。
「おかしいですよ。相手だけ幸せになるなんて。そんなの、そんなの平等じゃない!」
「ちょっと、心艮? どうしたの?」
「どう、しちゃったんだろ……私も、分からない」
私の荒ぶる感情に一番驚いていたのは火糸糸ちゃんだった。髪を振り乱して叫び、自分の髪の毛を乱暴に掴む。感情的になることは、馬鹿なことだと思っていた。表に出せば出すほど相手は面白がって嫌なことをしてくるから。自分はこんなにも不幸なのに、何であいつだけ幸せになるんだと何度思ったことか。頭の中に過るのは文字通り地獄のような生活。私だけが不幸になり、相手方だけが幸せになるのを何度も見て来たのだ。
はぁっはぁっと息が上がっていることに気づかず、むせてしまった。普段出さない声を出したからだろうか。いつもだったら冷静な火糸糸ちゃんが私の背中を撫でる。すると、「そう、だなぁ」と八重菊春秋さんが声を零す。その声は震えていたけど、それは私に対する怒りとかではないのが見て分かった。
「一度愛したら、愛してしまったら、もう恨めないんだよ」
言葉の意味が、分からなかった。彼は変わらず動き続ける映像を見ながら、愛おしそうに見つめている。あぁ、彼の表情はすでに何人もの人がしていたじゃないか。目の中に宿るのは優しさなんてものではなく、人が人を想う感情。彼の一言に私は何も言葉を発することが出来なくなってしまった。
反射し続ける鏡が少しだけ光を失う。腕を上げたままにしているから辛いのではなく、この場に私がいることが許せなかった。目の前にいるこの人が眩しすぎて、自分があまりにも醜すぎて。いつになったら私はこの気持ちから逃げ出すことが出来るのだろうか。
「あ、あの本は……」
「お爺ちゃん、あの本知っているの?」
「あぁ、もちろんだよ。だってあれは……」
『お婆ちゃん! 私もこれ読みたい!』
八重菊春秋さんが説明しようとした時、被せるようにして子供が叫んだ。指差しているのは火糸糸ちゃんが聞いた本と同じ物。その女の子にとっては少し高い棚なので、一生懸命背伸びしている。しかし、届かないので座っていた七草希叶さんが立って手に取った。
『これはまだあんたには早いよ』
『えー! そんなことないもん! 私、こーんな分厚い本も読めるんだよ!』
小さな手をいっぱいに広げて彼女に見せていた。小学生らしいな、と思うと同時に微笑ましい光景だ。自信満々の孫を見たお婆ちゃんは「本当かい?」と疑いの言葉をかけるが、その表情は楽しそうだ。話を聞いた後、隣にあった何冊かも手に取って先程と同じ位置に座り直した。
『……これはね、お婆ちゃんが大好きな人と会うために毎日買った本だよ』
『毎日? なんでー?』
『その人はね、本の虫と言われるくらいの本好きでねぇ。お婆ちゃん、本を読むのが苦手なのにわざわざ買っていたんだよ』
ふふっと笑っている七草希叶さんは愛おしそうに本を撫でる。日に焼けているからなのか、随分ボロボロになっているようだ。しかし、何十年前に買ったとは思えないくらいには綺麗に扱われているらしい。普通ならもっと脆くなっているはずだし。私がその様子を見つめていると、口を閉ざしていた彼がポツリと呟いた。
「……一目惚れだったらしいです」
「え?」
「彼女、僕に一目惚れしたらしくて。それからずっと僕に会う為に毎日書店に通っていました。あの時代は、女性から男性に声をかけることは珍しいことだったのでよく覚えています。苦手な本を毎日買って、僕に話しかけるタイミングを見計らっていたとか」
「えー! それって、逆ナンじゃん!」
話を聞いて興奮しているのは火糸糸ちゃん。ツインテールを揺らして、「いいなぁー!」と悶えている。その隣で私はふと考えた。彼らが生きていた時代に『逆ナン』に値する行動があったのだろうか。普通の男女ならしないことをこの女性はしていたと言うことだ。今ですら『女性らしさ』『男性らしさ』について言及されることが減ったものの、まだまだ凝り固まった考えをしている人が多かった時代のはず。その逆境を生きてきたのか。
「そうですね、今なら逆ナンされたとでも言うのでしょう。ですが、当時はそんな言葉は無く色々周りからは言われました。『甲斐性なしの男』とか『自分から声をかけるなんてはしたない』とか。大変でしたねぇ」
ふふふ、と笑っている八重菊春秋さんは映像から視線を逸らしていない。懐かしそうに語る口調は、本当にあったことなのだろう。閉鎖的だったあの国で言われることは心の負担になることも多かったはずだ。それでも彼女も彼も、幸せそうな顔をしている。
「……それでも、幸せだったんですよね?」
「えぇ、もちろん。何度『このまま時が僕達を置き去りにしてくれないか』と思ったことか」
「『時が止まる』じゃ無くて『時が僕達を置き去りにしてくれないか』かぁ。やっぱ小説書いてる人って表現が面白いね!」
「そうですかねぇ。自分では分からないものですよ」
私の質問にも火糸糸ちゃんの話にも一つ一つ相槌を打ってくれる彼の心はどこまで広いのだろうか。『幸せだった』と自信を持って言えることはきっと何よりの幸せなのかもしれない。彼が言った『愛してしまったら、もう恨めないんだよ』とはこのことだろう。
どんな形であれ、『時が僕達を置き去りにしてくれないか』と願う程の相手が幸せであるのならばそれはその人にとっても幸せであると。遠回しにそう言われているような気分になった。
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