第二章 感情とはいったい何だったのか
第2話
六月と言えば、昔は梅雨の長雨のイメージだったらしい。だが、近年の六月といえば春が過ぎ初夏といっても差し支えのない暑さだった。もちろん雨なんて降らない。地球の気候がズレたのか、雨が降り始めるのは大抵が七月、早くても六月下旬。六月になったばかりのこの時期は、衣替えをしたとはいえどこかべとつく空気に教室の中も淀んでいた。
あの日から、毎日蒼志と杏珠の部活動は続いていた。放課後の屋上で、教室で、運動場で。休日の公園で、映画館で。
杏珠はいつだって笑顔だった。何がそんなに楽しいのやら、いつも笑っていた。
「何? 私の顔に何かついてる?」
学校の花壇の前で、嬉しそうに花を見ていた杏珠は、蒼志の視線に気付いたのか鼻の頭や頬を手で触った。その拍子に手についていた土が頬を汚した。
「今ので逆についた」
「えー、ねえ取ってよ」
ほら、と顔を蒼志の方に差し出すようにする杏珠にどうしたものかとため息を吐くと、ポケットからハンカチを取り出した。左頬についた土を拭ってやると、目を閉じたままの杏珠が「取れた?」と尋ねる。
なんとなく「まだ」と言うとポケットからスマートフォンを取り出した。カシャッという音が響いて、杏珠は目を開けた。
「今、撮ったでしょ!」
「何のことだか」
「盗撮だー!」
「失礼な」
「もうっ」と頬を膨らませる杏珠に、気付けばもう一度シャッターボタンを押していた。
「え?」
「あ」
撮るつもりなんてなかった。撮ろうとなんて思っていなかった。なのに。
「……もう」
「悪い。消そうか?」
「別にいいよ」
気を悪くしたようではない様子に少し安堵する。そして自分がなぜ二枚目の写真を撮ったのか、蒼志自身もわからなかった。感情の殆どを失う前であればわかったのだろうか。
相変わらず杏珠は花を見て笑顔を浮かべている。杏珠が笑顔で楽しそうなのは今に始まったことではない。いつだって楽しそうに嬉しそうに幸せそうにいる。
「花、好きなの?」
「好きだよ?」
当たり前でしょ、とでも言うかのように杏珠は言う。その口調に、何故か苛立ちめいた物を覚えた。
感情がわからなくなった今、自分のことに対しても人に対しても、そして物に対しても蒼志は無関心だった。興味がない。感情があった頃は、人や物に対してもう少しは興味があったように思う。だが、自分に対しては今と大差ないのかもしれない。嫌い、という感情が無関心に変わっただけだ。
「蒼志君のことも好きだよ?」
だから思いも寄らないことを杏珠が口走ったとき、まるで心の中を読まれたかのような、それでいて同情されたかのような感覚になった。
「な、にを」
言っているんだ、と続けようとした言葉は乾いた喉のせいで上手く音にならなかった。そんな蒼志の態度を動揺だと思ったのか、杏珠はまるで悪戯が成功した子供のような表情を浮かべて笑った。
「好きって言ってもラブだけじゃなくてライクもあるんだからね」
「……わかってるよ」
からかわれたとわかったがどうでもよかった。どうでもよかったけれど、ライクの意味であっても自分のことを好きだと思ってくれる人間がいるのだと思うと、まるで外の暑さが皮膚を通じて胸の中まで温めてたかのような、不思議な感覚になった。
高二の六月といえば、高校生にとっての一大イベントといえるであろう修学旅行が待っていた。中間テストの返却も終わり、教室の空気は浮ついていた。教室のあちこちで「誰と一緒の班になる?」とか「自由行動はどこに行こうか?」なんて話題が上がっていた。
その日の六時間目、
ようやく席替えがされ、一番前の席だったこれまでとは対象的に、一番後ろの窓際の席になった。何の因果か、隣の席は杏珠だった。
「よし、決まり!」
杏珠の楽しそうな声が聞こえ、思わず視線をそちらに向ける。蒼志とは違い友人の多い杏珠はさっさと班を決め、担任に報告へと向かう。どうやらいつも一緒に弁当を食べている女子三人で一緒の班になったようだ。男女六人組、ということだったが女子だけ決めて報告に行ってどうするつもりなのかと思ったが、蒼志には関係のないことだった。どうせ女子に声を掛けられない男子グループができるだろうからそことつっくつのだろう。
「朝比奈君」
「は?」
そんなことを考えていると、杏珠から報告を受けたであろう担任が何故か蒼志を呼んでいた。隣にはニコニコと笑顔を浮かべる杏珠の姿もある。凄く嫌な予感がする。行かない方がいいとなけなしの感情が叫んでいる。だが、担任に呼ばれて行かないわけにはいかない。聞こえないふりをしようかと思うが、あまりに蒼志が反応しないからか担任は先程よりも大きな声で「朝比奈君、ちょっといい?」と蒼志を呼んだ。お節介な女子が「朝比奈君、呼ばれてるよ?」とわざわざ蒼志に声を掛ける。
こうなればもはや逃げることもできない。面倒くさいと思いながら席を立つと、教卓の前で待ち構える担任と杏珠の元へと向かった。
「なんですか」
「あのね、今日下部さんから聞いたんだけど朝比奈君も写真部なんだってね」
「……まあ、一応」
一応、と付けたのはせめてもの抵抗だった。一体何を言われるのか皆目見当も就かないが、蒼志にとってろくでもない話なのだろうという想像は、杏珠が嬉しそうな顔をしていることからもあきらかだった。
「あのね、写真部の二人に折り入ってお願いがあるの。修学旅行中のクラスの写真係をしてもらえないかしら?」
「嫌です」
「いいですよ!」
蒼志と杏珠の言葉が重なった結果、担任の耳には都合のいい言葉だけが聞こえたようだった。
「ホント!? そう言ってくれると凄く助かる!」
「私たちこそ、そんな素敵な役目を与えてもらえて嬉しいです! ね、蒼志君」
「いや、俺は」
「あ、でも私は自撮りするけど蒼志君は絶対自分の写真撮らないよね。クラス写真できあがって蒼志君の写真だけないとかいうことになりそう」
「確かに」
何を担任まで「確かに」とか言って杏珠と一緒になって腕を組んでいるのか。別に蒼志の写真がないぐらいどうでもいいことだ。それなのにこの二人と来たら似たような表情を浮かべて当事者であるはずの蒼志よりも真剣に悩んでいる。
「あ、先生いいこと思いついちゃった」
「なんです、なんです?」
こういうときの『いいこと』がいいことだったためしがないことを蒼志はこの一ヶ月でよく知っていた。主に、杏珠の言う『いいこと』に対してだが、この場合どうやら担任に対しても適合してしまうようだった。
「日下部さんと朝比奈君が同じ班になればいいよの。そうしたら、一緒に行動するから日下部さんが朝比奈君の写真を撮れるでしょう? なんなら朝比奈君が日下部さんの写真を撮ってくれたら自撮りしなくてもいいわけだし」
ほら、見ろ。ろくな話ではない。げんなりする蒼志を尻目に、杏珠はナイスアイデアだと言わんばかりに両手をパチンと打ち鳴らした。
「先生、それいい! 私たち、ちょうど女子メンバーしかいなかったし、蒼志君のところの班と合体したらいいんですね!」
当たり前のように蒼志がどこかの班に入っていることを前提とした話が進んでいく。まだどこの班にも属していない、と言えば二人から気の毒なという表情で見られることはわかりきっていた。いや、気の毒なであればまだいい。言ってはいけないことを言ってしまった、とでもいうかのように申し訳なさそうな表情をされる方が耐えられなかった。
どうするべきかと悩んでいると、誰かが蒼志の肩を叩いた。振り返ると、そこにはクラスメイトの
「朝比奈、やっと見つけた」
「やっとって何を……」
「班のメンバーの名前書かなきゃいけないのにお前いないからさ。もう勝手に書いてしまおうかと思ったよ」
「は、何を……」
大谷とは仲が悪いというわけではないけれど、別に特段仲がいいわけでもない。ただ一年の頃もクラスが同じだったので会話をすることはできる、というぐらいの間柄だ。修学旅行の班を一緒になろうなんて話をするような関係ではないし、こんなふうに馴れ馴れしく話しかけてくるほど親密なわけでもない。
だが、そんな蒼志の戸惑いに気付くことなく、杏珠は大谷の言葉にパッと顔を輝かせた。
「大谷君たちの班に蒼志君入るの?」
「お、おう。それがどうかしたのか?」
「今ね、私たちの班と蒼志君の班を一緒にしようって話してて。あ、私たちのところって
杏珠が自分の席の方へと顔を向けると、その視線に気付いたのか
「そ、そうなのか。俺のところは俺と
何がちょうどいいのか全くわからない。「いや、俺は」と口を挟もうとした蒼志を押さえ込むように大谷が肩に腕を回した。
「頼む、一生のお願いだ。このまま話を進めてくれ」
「は? いや、別にそれはいいけどなんで……」
「ゆ、雪乃ちゃんと……一緒の班に、なりたい……」
蚊の鳴くような声で蒼志にだけ聞こえるように大谷は言う。どうやら大谷は沢本に片思いをしているらしく、蒼志が杏珠達の班と一緒になる、というのを聞きつけ慌てて話に混じってきたようだ。ようは、蒼志をダシに沢本に近づきたいと。
「……別にいいよ」
「ホントか!?」
「ああ。だからその手離せよ」
大谷の手を振り払うと、蒼志はため息を吐く。何が目的かわからなかったが、沢本目当てだということがわかれば逆にスッキリする。変だと思ったんだ。突然、一緒の班になりたいだなんて。
「じゃあ、ここに名前書いてくれる?」
担任の言葉に、大谷は三人分の名前を書く。これで修学旅行の班が決まった。決まってしまった。面倒なことにならなければいいが。
「ふっふーん」
「何」
妙に機嫌のいい杏珠に、蒼志は尋ねる。にんまりとした笑みを浮かべて、杏珠は蒼志の顔を覗き込むように見上げた。
「修学旅行、楽しみだね。蒼志君」
「……そうだな」
どうでもいいと思いながら言ったはずのその四文字が妙に浮かれて聞こえて、思わず咳払いをする。そんな蒼志の隣で、杏珠は楽しそうに笑っていた。
「準備期間から写真を撮ってね」という担任からの言葉通り、蒼志と杏珠は班決めをしているクラスメイトの写真を撮った。ちなみに修学旅行用としてデジカメを一つずつ渡された。個人のカメラで撮るものとは別で管理するようにとのことだった。
蒼志は適当にそれぞれの写真を撮っていく。少し不安そうな表情を浮かべた女子や決めなければいけないことそっちのけで全然関係のない話をする男子、行きたい場所で喧嘩になりそうな班もある。そのどれもが蒼志にとってどうでもよかった。
そんな蒼志とは対照的に、クラスメイトに話しかけながら写真を撮る杏珠。不思議なことに、杏珠が笑顔で声を掛けるとそこにパッと花が咲いたように明るくなる。さっきまで不安そうな表情を浮かべていた女子も、馬鹿話ばかりしていた男子も杏珠の声かけで表情が雰囲気が変わっていく。
蒼志はポケットからスマートフォンを取り出すと、クラスメイトを撮る杏珠の姿を写真に収めた。今日の一枚、だ。キラキラとした笑顔を浮かべる杏珠。何がそんなに楽しいのか蒼志にはわからない。それでも、杏珠の笑顔が伝染するかのように、クラスメイト達が笑顔になっていく姿は単純に感心してしまう。蒼志とは違う。蒼志にはマネできない。マネしたいとも思わないが――。
「どう? 撮れた?」
LHRが終わり、そのまま帰りのHRに入った教室で隣の席から杏珠は蒼志に尋ねた。「まあ、一応」と気のない返事をする蒼志に「偉い偉い」と杏珠は笑った。
黒板の前では担任が明日提出締切のプリントがまだ集まりきっていないことを注意していた。忘れると、修学旅行に参加できないと。必ず明日、親に印鑑を押してもらってもってくるように、とのことだった。
担任の話を聞きながら、杏珠は蒼志の方を見た。
「楽しみだなー修学旅行」
「そうか?」
「あれ? そんなことない? あ、ねえねえ。蒼志君ところは中学の修学旅行どこ行った? あれって同じ市内でも学校によって違うのかな?」
「うちはねー」と楽しそうに話す杏珠に、蒼志は感情のない声で言った。
「俺、行ってないから」
「え?」
「中学の修学旅行、行ってない。ちょうど、病気が発覚した直後だったから」
中学二年の秋に予定されていた修学旅行。だが、夏に心失病を発症した蒼志は、不安に思った両親から「修学旅行に行くのはやめてほしい」と言われ、その言葉を受け入れた。
別に両親のためではない。ただ全てがどうでもよかった。自分のせいで泣いている両親も、腫れ物に触れるように扱ってくる教師も友人も全てがどうでもよかった。
今思うと、発症した当初はまるで電気のスイッチを消したようにバチンと一気に感情がなくなってしまっていたように思う。医者の話では本来は徐々に感情が消えていくらしいのだが、稀に蒼志のように一度完全に感情が消え、そこから緩やかに元に戻り、また徐々に消えていくというパターンを通る場合もあるらしい。徐々に消えていく患者に比べて、余命が長いのが特徴だと、よかったねと言われたのを覚えている。
よかった、の言葉の意味はわからない。どうせ死ぬのなら変に長びかせずさっさと殺してくれた方が楽だしいいと蒼志は思う。ただ、その説明を聞いた母親が「よかった」と涙を流していたから、残される人間にとって心の準備をする期間が延びた、ということに対しては『よかった』のかもしれない。
隣に座る杏珠の姿を視線の端で見る。前を向いたまま何かを考え込むように杏珠は黙っている。一体何を考えているのか。さすがの杏珠でもまずいことを聞いたと思っているのかも知れない。「ごめん」と謝られるだろうか。それとも聞かなかったことにして他の話題に移るのだろうか。杏珠がどんな反応を返してくるのか、ほんの少しだけ興味が湧いた。
だが、杏珠はいつだって蒼志の斜め上を行くことを忘れていた。
「そっか、じゃあ楽しみだね!」
「は?」
「え、何その反応」
怪訝そうに眉をひそめる杏珠に、その言葉をそっくりそのまま返すよと言いたかった。
「いや、楽しみって……」
「楽しみじゃないの? 初めての修学旅行でしょ?」
「別に修学旅行自体は小六でも行ったから」
「まあそうかもしれないけど。でも、小学生と高校生じゃ違うじゃん。持って行っていいお小遣いとか、行く場所とかさ」
「まあ、たしかに」
思わず納得してしまった蒼志に「でしょ?」と嬉しそうな笑顔を向ける。
「それに、ほら。今回は私も一緒だし」
「どういう理屈だよ」
「え、私と一緒に行くの楽しみじゃない? 私は蒼志君と一緒に行けるの楽しみだよ!」
はにかむように言う杏珠から視線を逸らす。楽しみじゃない? と、言われても困る。
「杏珠が暴走しないか不安だな」
「どういう意味!?」
「そのままの意味だよ」
楽しみだと言えたらよかった。悪くないと思えたらよかった。何の感情も湧いてこない自分の心が、今日ほど嫌になったことはない、かもしれない。
放課後「今日の一枚はもう撮った」と蒼志が伝えると、「私も!」と杏珠は笑った。一体いつどんな姿を撮ったのか想像も付かないが、撮ったのであれば今日の部活はしなくてもよさそうだ。
いつもよりも早い時間に自宅に帰った蒼志は、鞄の奥でクシャッとなっていたプリントを見つけた。そういえば、帰りのHRで担任が明日までだと言っていたのを思い出す。
階段を降りリビングへと向かうと、キッチンに母親の姿があった。
「母さん、これ」
「どうしたの?」
夕飯を作っていたのか、エプロン姿の母親がリビングへとやってきた。蒼志が手紙を手渡すと、口の端がヒクッとなったのが見えた。
「そうちゃん、これ」
「修学旅行の申込書。提出明日までなんだ」
「……そう。あとでお父さん帰ってきたら話しておくね」
そのまま蒼志に背を向けてキッチンに戻る。蒼志は何も言うこと泣く自分の部屋へと戻った。
制服姿のままベッドに寝転がると天井を見上げた。
いつからだろう、リビングにいなくなったのは。心失病に罹るまでは学校が終わって帰ってきたらリビングでテレビを見て、おやつを食べて、母親に聞かれるままにその日学校であったことを話して聞かせた。友人達は「親なんてうざったい」と悪ぶって言うけれど、蒼志はその時間が意外と嫌いではなかった。
けれど、心失病に罹った蒼志を両親は、とりわけ母親はどう扱っていいのかわからないようだった。今までと同じようにしよう、そう思えば思うほど不自然になる。蒼志の反応一つ一つに肩を振るわせ、蒼志に気付かれないように涙を流す。だが、全てがバレバレでそのたびに蒼志は申し訳なく思った。そんなふうにさせてしまったことに。そしてそうなってもなお、何も思えない自分に。
やがて自宅にいる時間の大部分を自室で過ごすようになった。一人でいるのは楽だ。何も考えなくていい。自分のせいで誰かが傷付くことも悲しむこともない。誰かを苦しませるしかできないのなら、さっさと死んでしまいたい。死んだ直後は悲しくても、やがてその辛さは薄れるだろう。いつまでも蒼志がいるよりずっと楽になれるはずだ。そんなことすら思っていた。
「ん……」
いつの間にか眠っていたようで、カーテンを開けっぱなしにしていた窓からは月明かりが入り込んでいた。変な時間に眠ってしまったせいで頭が重い。
ポケットに入れっぱなしにしていたスマートフォンを見ると、すでに十九時を回っていた。そろそろ父親も帰っているはずだ。
「そうちゃん、晩ご飯よー」
「はーい、今行く」
ちょうどいいタイミングだったようで、階下から母親が呼ぶ声が聞こえた。制服のまま降りるのも憚られ、手早くTシャツとジーンズに着替えリビングへと向かった。
リビングのドアを開けると、すでにダイニングテーブルの前に両親は座っていて、蒼志が来るのを待っていたようだった。
テーブルの上に、手に持ったままだったスマートフォンを置くと蒼志は自分の席に着いた。
「ごめん、先に食べててくれてよかったのに」
「ご飯は家族みんな揃ってから、でしょ」
「……そうだね」
あと何回一緒に食べられるかわからないしね、そんな言葉が喉まで出かかったがやめた。両親の、母親の気持ちを慮ったからではない。泣かれて面倒なことになるのを知っていたから。なんならすでに二度、三度と同じことをして大変なことになっていたから。
母親は泣き崩れ、父親はため息を吐く。それを見てもなんとも思うことのできない自分を僅かに残った感情が責め立てた。
カチャカチャと食器の鳴る音だけが響く食卓。感情というものは全てに直結していたのだとこの病気に罹ってから蒼志は初めて知った。今まで好きだったものを食べても美味しいと思うことがなくなった。食べたいという気持ちがわかなくなった。ただ腹が減るから、空っぽになった胃を満たすためだけの食事をする。
……でも、そういえば。この間、杏珠と食べたおにぎりは久しぶりに美味しいと、そう感じた気がした。
「蒼志」
鯖の味噌煮を食べていた父親が、箸を置くと顔を上げた。その隣で母親は『私は何も知りません』とでもいうかのように素知らぬ顔をしている。こんな態度を取るときは、大抵母親が父親に何かを言い、それを蒼志に話そうと、いや諭そうとしているのだとわかっていた。
今日の議題は、きっと。
「修学旅行の件、母さんから聞いたよ」
「……ああ」
やっぱりそうだ。
蒼志はため息を吐きそうになるのを必死に堪えた。プリントを渡したときの母親の反応が手放しで喜んでいるようには思えなかったから。普段よりも三十分ほど遅い晩ご飯。おそらく、父親が帰ってきてから修学旅行の話をしていたのだろう。
「旅行中に何かあった場合、周りの人にも迷惑が掛かる。それに北海道じゃあもしものことがあったときに、父さんも母さんも駆けつけることができない」
だから諦めろと、諦めるよと言って欲しいという空気がダイニングに流れる。二人とも、蒼志が「そうだね、わかったよ」と言うと思っている。
実際、今までの蒼志であれば行かなくていいのであれば行かなかっただろう。両親の言わんとすることは十分わかる。余命三ヶ月、と言われたといえそれは心失病の場合、絶対に三ヶ月は生きられるという保証があるわけではない。生きられても三ヶ月、というだけだ。
もしかしたら明日死ぬかもしれない。明後日死ぬかも知れない。そういう不安を抱えている。
別に自分一人が行かなくたって何が変わる訳でもない。写真係が一人いなくなったとしても代理を立てればいいだけの話だ。担任が代わりをするので事足りるはずだ。
頭絵ではそうわかっている。なのに。
テーブルの端に置いたスマートフォンが視界に入る。
『蒼志君と一緒に行けるの楽しみだよ!』
そう言って笑った杏珠の姿が思い出される。別に、杏珠のためじゃない。ただあの瞬間、ほんの少しだけ『なら行ってもいいかな』と思ってしまった。
「……わかってる」
「そうか、じゃあ学校には――」
安堵したように父親は言う。母親はあからさまに嬉しそうな表情を浮かべる。そんな二人に、蒼志は小さく首を振った。
「それでも、行きたいんだ」
「蒼志……」
蒼志の言葉に、二人は驚いたように目を見開いた。それもそうだろう。何かをしたいと、自分の希望を、感情を蒼志が言ったのは心失病に罹患してから初めてのことだったのだから。
「でも……!」
母親は不安そうに声を上げる。だが、そんな母親を父親が優しく諫めた。
「母さん」
「お父さん、でも!」
「蒼志、修学旅行に行きたいんだね」
「……うん」
「そうか、じゃあ楽しんでおいで。プリントはあとでサインしておくよ」
「ありがとう」
それ以上、両親が修学旅行の件について何かを言うことはなかった。時折、母親が不安そうに蒼志を見ていたのを知ってはいたが、気付かないフリをした。気付いてしまえば、何かを言われるめんどくささに僅かに湧き出た感情が封じ込められてしまう気がしたから。
修学旅行までの二週間はあっという間に過ぎ去った。その間も毎日部活動をし、杏珠の写真を撮った。撮られた覚えはなかったが、どうやら杏珠の方でも蒼志の写真を毎日撮り続けているようだ。杏珠曰く『そこそこいい』カメラに収められた蒼志の写真。気にならないかと言われれば嘘になるが、見せて欲しいという程の興味はなかった。どうせ無表情で淡々と何にも興味のなさそうな平凡な容姿の少年が写っているだけだろうから。
修学旅行の前々日、蒼志はいつものように大学病院にいた。今日の部活は早々に終わらせて、杏珠とは学校前で別れた。杏珠のことだから「私もおばあちゃんのお見舞いに行こうかな」なんて言うかと思っていたが「そっか、じゃあまた明日ね」と手を振ると帰って行った。
あっさりしている態度に拍子抜けしながらも、一人学校から駅までの道のりを歩く。最近は、修学旅行のカメラ係のせいもあって杏珠と一緒の時間が増えていた。だから、こんな風に静かな時間というのは久しぶりだった。
交差点を渡り、城北通りを歩く。人と自転車と車が狭い道を行き交うせいで、少し気を抜くと前から来るタクシーに触れそうになる。それを器用に避けながら歩いて阪急の駅を抜けた。
もうすぐ病院に着く、そう思ったタイミングで雨が降ってきた。ポツポツと降り始めた雨はやがて本降りへと変わる。蒼志が病院の入り口にたどり着いた頃には、アスファルトの色は全て変えられていた。
はあ、とため息を吐く。診察が終わり帰る頃には雨はやんでいるだろうか。病院内のコンビニで傘を買うのも馬鹿らしく、かと言って駅近くのドラッグストアまで走ればこの雨では制服だけでなく下着まで濡れてしまいそうだ。
「まあ、いいか」
そんなことは診察が終わって雨がまだ降っていればそれから考えればいい。受付に診察券を出すと、待合の椅子に身体を沈ませた。
病院特有の静かさに、蒼志は目を閉じる。雨の病院は嫌だ。初めてここに来た日のことを思い出す。心失病だと聞いて泣き崩れる母親とそれを静かに見下ろす感情のない蒼志。今ならもう少しだけでも心を痛めることも、母親に寄り添うこともできたかも知れない。けれど、あのときの蒼志は『この人、なんで他人のことでこんなに泣けるんだろう』と冷ややかに見ていた。そんな蒼志にしがみついて母親は言ったのだ。
『そうちゃんを返して。あなたなんてそうちゃんじゃない』
と――。
ショックで錯乱していたのだと今ならわかる。だが、自分自身を否定された、受け入れてもらえなかったという記憶は残るものだ。あの日から、蒼志の中であの人は母親であるけれど『お母さん』ではなくなった。もしかしたらあの人の中でも、蒼志は『息子』ではなくなっているのかもしれないけれど。
目を閉じているうちにうとうとしていたようで、自分の名前が呼ばれる声で目を開けた。どうやら番号で呼ばれていたが、あまりにも反応がないため名前で呼び出されたようだ。
身体を起こし、いつもと同じ扉を開けて診察室に入る。定期検診のため変わりはないかということを聞かれ、医師は「じゃあ次は」といつものように終えようとした。
「あの」
「ん?」
だから蒼志が話を遮るように声を出したことに、少し驚いた様子だった。それもそうだろう。この二年十ヶ月。毎月、この主治医に診てもらってはいたが、蒼志から何かを聞くことも何かアクションすることもなかったのだから。
「どうかしたのかい?」
医師は姿勢を正し、椅子を机から蒼志の方へと向ける。久しぶりにこちらを向いた医師の胸元に付けられたバッチに『村松』と書かれているのが見えてそいういえばそんな名前だったと思い出す。一番最初に診察してもらったときに名前を聞いた気がしていたが、興味もなかったので覚えることもしていなかった。
笑顔を浮かべる村松だったが、眼鏡の奥に見える瞳は興味深く蒼志を観察しているように見えた。一体今から何を言おうとしているのか、それが気になって仕方がないようだった。
「や、あのたいしたことじゃないんですけど。明後日から修学旅行なんです」
「修学旅行? 蒼志君が? そっか、高校二年生だもんね」
「はい。えっと、行っても大丈夫、ですか? と、いうか行くんですっていう報告、なんですけど」
今さら相談しても遅いだろうと蒼志は思っていた。そもそも、相談であれば行くことを決めたタイミングでしなければ意味がない。それでも、念のため報告しておく必要はあるだろうと思ったのだ。万が一、向こうで何かあればそのときは村松の方にも連絡が行くことになるだろう。その時に突然『今、北海道にいるんです』ではさすがにまずいだろうと思った。
蒼志の考えなんてお見通しとでも言うかのように、村松はうんうんと頷いた。
「そっか、それは教えてくれてありがとう。北海道のどこに行くか詳しく聞いておいてもいい? あ、もし予定表とかあるならコピーさせてもらえると助かるんだけど」
村松の言葉に、蒼志は鞄から修学旅行のしおりを取り出すと手渡した。村松はそれを近くにいた看護師に渡すと「二部、コピー取っておいてもらえる?」と指示を出した。何故、二部なのだろうかと少し疑問に思ったがどうでもよかった。
だが、村松はそんな蒼志の心の機微をきちんとくみ取ってくれる。
「僕が休みの時や他の医師が夜勤の日もあるからね。僕の方で一部と君のカルテに一部挟んでおけば万が一僕が対応できなくても他の先生が対応できるだろう」
「そう、ですね」
「各地の病院をピックアップしておくから、あとで受付で貰って帰ってくれるかな」
自分が修学旅行に行くと言ったがために余計な手間を掛けさせてしまった。蒼志は
村松もそうだしきっと学校の方でも蒼志のために動いてくれることもあるだろう。母親にも心配を掛け不安にして。こんなことなら行くなんて言うべきではなかった。いつものように無関心なまま「じゃあ、行くのやめるよ」と言っておけば誰にも迷惑をかけることはなかったのだ。
今からでも遅くないだろうか。キャンセル料がかかったりするかもしれないが、今からでも行かないと言った方が――。
「ねえ、蒼志君」
「え?」
村松の、蒼志を呼ぶその声が妙に優しくて、蒼志は思わず顔を上げた。そこには優しく微笑む村松の姿があった。
「今、みんなに迷惑をかけている。こんなことなら修学旅行に行くなんて言わなければ良かったって、そう思ってる?」
「どう、して」
わかったんですか、と掠れた声で言う蒼志に、村松は手元の紙に何かを書き込みながら笑う。
「僕はね、君が修学旅行に行くって聞いて嬉しかったんだよ。行きたいって少しでも思ったのかな、誰かに行こうって誘われて行く気になったのかなって」
「それ、は」
「きっとたくさん心配する人はいると思う。ご両親とか特にね。でも、君がほんの少しでもしたいってやりたいって思ったならその感情を僕は大事にしてほしい。僕はそう思うよ」
「……わかんないんです」
蒼志は吐露するようにポツリと呟いた。わからない。先日から僅かに湧き出る感情を蒼志は持て余していた。ずっと気持ちは平坦だった。たまに、ほんの僅かに揺れ動くことはあっても、それでもその感情の波はすぐに引いて静かになっていっていた。それがこの一ヶ月、妙に感情が動かされる。
「……この病気はまだ解明されていないことも多い。だが、心失病患者の中には、寿命を迎える前、まるで今まで押さえ込んでいた感情が爆発するように湧き出て、それから静かに息を引き取る人もいる。もちろん感情の爆発なんて起きることもなく静かに感情もそして鼓動も消えていく人も多い。色々な人がいるんだ。それから……」
「先生?」
何かを言いかけて、村松は手に持ったボールペンを唇に押し当てたまま黙り込んでしまう。やがてカチッという音を立てて、限界まで出されたボールペンのペン先が中へと引っ込んでいった。
「いや、なんでもないよ。まあそんな感じだからさ、そこまで気にすることないよ。今の蒼志君にできるのは一日一日を大事に生きること。わかった?」
「……はい」
言いかけた何かが気にはなったが、これで話は終わり、とばかりに村松は再びボールペンをノックすると無言のままカルテに何かを書き込んでいく。覗き見たそこには『残り二ヶ月』と先月の検診よりも一ヶ月減らされた数字が書き込まれていた。
受付で支払いついでに封筒を受け取ると、蒼志は自宅への道のりを歩いた。幸い、雨はやんでいてむわっとした空気と雨水に濡らされたアスファルトの匂いが辺りに漂っていた。
自宅へ帰るとリビングには行かず自分の部屋へと向かう。検診の日は母親の情緒が不安定になる。検診のたび、一ヶ月ずつ息子の死が近づいているのだと思えば仕方のないことだ。
机の上に鞄を置くと、蒼志は先程受付で受け取った封筒を取り出した。用意しているボストンバッグに入れておこうと思ったのだ。ついでにそっと封を開けた。見るなと言われてはいないのだから、少しぐらい覗いても大丈夫だろう。
中には蒼志の名前や年齢が書かれているカルテの写しがあった。心失病の発症日や今までの経過、薬の服用歴、アレルギーの有無など事細かに書かれていた。
「残り二ヶ月――か」
少なくとも八月の十五日までに蒼志は死ぬ。それはもう避けられようのない事実だ。ただ、二ヶ月と書かれた下に小さな文字で『感情が僅かに湧き出ている。急変の可能性あり』と書かれているのが見えた。
紙を持った手に力が入る。ぐしゃっと丸めてしまいたい衝動に駆られ、必死にそれを押さえると封筒の中に紙を戻した。そして無造作にボストンバッグに放り込むと蒼志はベッドに寝転がった。
天井の染みがまるで蒼志を笑うピエロの顔のように見える。死ぬことなんてわかっていたことだ。それが少し縮まるぐらいどうってことない。
そう思うのに、目を閉じると何故か杏珠の顔が浮かび上がる。「蒼志君」と呼ぶ声も聞こえる。
蒼志が死んだら、杏珠は泣いてくれるだろうか。そんな考えても仕方のないことを思いながら、蒼志は眠りに落ちた。
修学旅行の当日、集合時間の十五分前に蒼志は学校に着いた。すでに杏珠は来ていたようで、首から提げたデジカメを蒼志に向けながら「遅い!」と唇を尖らせた。
「もう! 遅刻するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」
「遅刻って。まだ集合時間の十五分も前だぞ」
「あと十五分で集合時間、でしょ。私なんて三十分も前に着いたよ」
「……遠足が楽しみで寝られない小学生じゃないんだから」
ボソッと呟いた蒼志に「なんでわかったの?」と杏珠は首を傾げ、それから照れくさそうに笑った。
「昨日の夜、今日が楽しみすぎて全然寝られなくて! 20時にはベッドに入ったのに、寝付けたの22時だったよ」
「どっちに突っ込んでいいのかわかんねー」
高校生が20時に寝ようとするなよ、とも思うしそもそも蒼志が寝たのなんて日付が変わる直前で、22時でも十分早いほうだと思うのだ。
だが、そんな蒼志の呆れになんて気付かないようで杏珠はデジカメを構えると蒼志を撮った。
「なっ」
「登校してきたところから修学旅行は始まっているのだよ、蒼志君」
「いや、何だよそのキャラ」
「ふふっ。見て、みんな楽しみ半分、不安半分って顔してるの」
杏珠につられるようにして校門の方へと視線を向ける。いつもの登校時間よりも一時間早いため、この時間に学校に来ているのは蒼志達の学年の生徒だけだ。ボストンバッグや大きめのリュック、小さなキャリーケースを引っ張りながら緊張と楽しみが入り交じったような表情で登校してくる姿が見えた。
「なんかよくない? ああいう表情」
「……まあな」
蒼志の言葉に、杏珠は少し驚いたような表情を浮かべ、それから嬉しそうに笑った。
「素敵な修学旅行にしようね」
「……はしゃぎすぎて転ぶなよ」
同意するのも癪で、かと言って「別に」と言ってしまうのは何か違う気がして、杏珠に忠告だけすると蒼志は出欠を取っている担任の元へと向かった。後ろから「転ばないよ!」と杏珠が言っている声が聞こえて、思わず笑いそうになるのを咳払いで誤魔化しながら。
関西国際空港までバスで向かうと、そこから飛行機に乗る。二時間ほどの空の旅を終えると、蒼志達は北の大地に足を踏み入れていた。
「寒い!」
あちこちから聞こえてくる声に、蒼志は心の中で同意した。半袖でもすでに暑かった大阪とは違い、六月も半ばだというのに北海道は薄らと寒い。これなら長袖のシャツで来た方が良かったのではと思わされるほどだ。ちなみに寒い寒いと文句を言っているのは男子だけで、女子は示し合わせたようにカーディガンを持参していた。勿論、杏珠もだ。
「そういうの持ってくるなら教えろよ」
「まあまあ。どうしても寒かったら私のカーディガン貸してあげるよ?」
「入るわけないだろ」
身長差がどれだけあると思っているんだ。呆れたように言う蒼志に「意外と着れたりするかもよー?」と杏珠は笑った。
寒い寒いと文句を言いながらも、移動の大部分はバスなので空港でカーディガンを着込んだ女子達も早々に脱いで手に持っていた。邪魔そうだな、なんて思っていると通路を挟んで隣の席に座る杏珠と目が合った。
「どうしたの? あ、もしかして私のカーディガン持っててくれるとか?」
「バスに忘れていかないようにさっさと鞄に入れておけよ」
「もーノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、リュックにカーディガンを片付ける。その拍子に鞄の中に入った見覚えのある白い薬袋を見つけた。そこに書かれている調剤薬局の名前は大学病院そばの薬局だった。
「風邪でも引いたのか?」
「え?」
「今、薬入ってたから」
驚いたように蒼志を見た後、慌ててリュックのファスナーを閉めた。
「あーえっと、私車酔い酷くて。それで処方してもらったの。おばあちゃんのお見舞いのあと近くの病院に行ったから大学病院の近くの調剤薬局に行ったの」
聞かれてもいないことまで答える杏珠に「ふーん」とだけ返事をする。関心があるわけでも興味があるわけでもない。ただ。
「窓際の方が酔いにくいっていうし、しんどかったら変わってもらえよ」
発車してすぐに眠ってしまった杏珠の隣に座る女子に視線を向けながら蒼志は言う。「えへへ、そうする」と笑うと、杏珠も目を閉じた。
「あ……」
口を開こうとして蒼志はやめた。寝るならさっき片付けたカーディガンを羽織っておいた方が風邪を引かなくていいのではないか。そう言おうとしたが余計なお世話だろう。
そして気付く。杏珠の隣で寝ている女子のことは特に気にもならない。風邪を引こうが引くまいが勝手だと思うし、なんなら名前すらいまいち思い出せない。それなのに何故、杏珠のことだと気に掛かってしまうのか。もどかしい思いを抱えた蒼志を乗せて、バスは北海道の広大な大地を走り続けた。
アイヌの話を聞きジンギスカンを食べる。一日目は移動がメインだったのでそこまで予定は詰まっていない。ホテルについて休憩し、予定の時間になれば食事場所となっているホールに集合だと担任は言っていた。
蒼志は三人部屋で、同じ班の大谷達と同室だった。そんな二人は荷物を置くなり、片付けることなく部屋を飛び出していった。
気を遣ったのか「一緒に行くか?」と尋ねられたが、首を振って断った。どこに行くか聞くこともしなかった。興味がなかったし聞きたいとも行きたいとも思わなかった。大谷も別にどうしても蒼志に来て欲しかったというわけでもなく、同じ班で同室なのに放っていくのもと声をかけて来ただけだったようで、蒼志の反応に「おっけー」と軽く答え部屋を出て行った。
このまま集合時間まで寝てしまおう。荷物を片付け終わった蒼志は靴を脱いでベッドに寝転が――ろうとした。その瞬間、室内にチャイムの音が響き渡る。どうやら誰かが廊下からチャイムを鳴らしているようだった。
どうせ大谷達を誘いに来た誰かだろう。いないことがわかれば他を探しに行くかスマートフォンに連絡を入れるだろう。蒼志は無視を決め込むと、丸まるようにベッドに寝転がり目を閉じた。
「……うるさい」
すぐに諦めるだろうと思っていたチャイムはいつまでも鳴り続ける。なんとなく、もしかして薄らと、このチャイムの主がわかった気がした。
重い身体をベッドから起こすと、脱ぎ捨てた靴を履きドアへと向かう。のぞき穴から廊下を見ると、予想通りの人物の姿がそこにはあった。
「……何やってんの」
「あー、やっぱりいた!」
「いや、人の質問に答えてよ」
ガックリと項垂れる蒼志の顔の前に、手に持ったデジカメをずずいと差し出した。
「写真、撮るよ!」
「今?」
「いーま。ホテルのお土産物屋さんで見てたりとか、あとホテルの部屋でゆっくりしてる写真とかさ」
「それ、俺が女子の部屋行ったら問題なのでは?」
蒼志の言葉の意味がわからなかったのかキョトンとした表情を浮かべたあと、杏珠は軽蔑したように眉をひそめた。
「さいてー」
「いや、何を想像したんだよ。俺は行ったら問題なのでは? って聞いただけだろ」
「蒼志君ってば、女子の部屋のお写真撮ろうとするなんて、そんな人だったんだね」
「だから違うって言ってるだろ。人の話を聞け」
ふふっと笑うと「嘘だよ」と杏珠は言う。その表情が妙に可愛くて思わず蒼志は動きを止めた。最近、自分が変だ。杏珠といると、妙な気分になる。なくなったはずの感情が、杏珠の前では呼び起こされる。消えかかっていた感情が増幅する。杏珠の前でだけ、どうして。
「蒼志君?」
突然動きを止めた蒼志を、杏珠は不思議そうに覗き込む。慌てて何でもないフリをすると、杏珠に背を向けた。
「あっ」
非難の声を上げる杏珠に、蒼志は頭を掻くと振り返ることなく言った。
「……カメラ、取ってくる」
「うん!」
振り向かなくても、杏珠が嬉しそうな顔をしていると想像が付く。いつもみたいに、嬉しそうな顔できっと笑っているのだ。
そう言う顔をしている杏珠は悪くないと、思う。
……悪くないって、なんだよ。
頭を垂れ、ため息とともに呟いた言葉は、音になることなく閉じられたドアの内側へと消えた。
杏珠に取ってくるように言われたカメラで、蒼志は写真を撮っていく。男子の写真は蒼志が、女子の写真は杏珠が、と決めてはいたが、杏珠は近くにいる男子達の写真も次々と収めていく。おそらく、蒼志が預かってるデジカメに入っている枚数よりも遙かに多いだろう。
人徳の差、というか人付き合いの差というか。蒼志がカメラを向けるよりも杏珠が向けた方が皆、嬉しそうに写真に写っていた。蒼志がいる意味はあるのだろうか。隠し撮りのような形で写真を撮りながら、ふと杏珠に視線を向けた。
土産物屋の前で、男女入り交じって10人ちょっとの集まりがいた。集合写真を撮ろうとしているのか、全員をフレームに入れるために杏珠は後ろに下がっていく。
蒼志は杏珠の背後にあるものに気付いた。
「……っ」
「わっ」
「あっぶないな」
「蒼志君?」
気付けば蒼志は杏珠の身体を背後から抱きすくめていた。杏珠は何が起きたのかわからないといった表情を浮かべ、ようやく自分が蒼志に抱きしめられていることに気付いたのか慌てて飛び退いた。
蒼志は背中に当たった柱の角のせいで痛む背中を押さえながら、何をやっているんだかと自問自答する。
危ないと一声掛ければよかった。別に身を挺してまで庇う必要はなかった。ぶつかって転んだとしてもたいした怪我をするわけじゃない。余計なことなんてせず放っておけばよかった。
そう頭ではわかっているのに、気付けば身体が動いていた。杏珠が転ばないように、痛い目に遭わないように。危ないとそう思ったときには反射的に駆け出し、そして身体を抱きしめていた。
以前であれば絶対にこんなことすることはなかった。杏珠が転ぼうが怪我をしようがどうでもよかった。なのに、どうして。
いや、どうしてなんて言葉で誤魔化せないことはもうわかっていた。少なくとも杏珠に対してだけは、蒼志の感情は揺れ動く。他の人間はどうでもいい。自分自身のことだってなんとも思わない。なのに、なぜか、どうしてか杏珠に対してはどうでもいいとは思えない。
一か月前と比べると明らかに変わり初めていた。
『心失病患者の中には、寿命を迎える前、まるで今まで押さえ込んでいた感情が爆発するように湧き出て、それから静かに息を引き取る人もいる』
ふいに松村の言葉がよみがえる。これがその兆しなのだろうか。押さえ込んでいた感情が、何故か杏珠にだけ爆発し、そしてそのまま蒼志は死を迎えるのだろうか。
「……悪くは、ないな」
自分自身の呟きが信じられなかった。でも、悪くない。その言葉があまりにもしっくりきて、蒼志はほんの少しだけ口角を上げた。
そのあとも、何故かぎこちない態度の杏珠とともにクラスメイトの写真を撮った。ちなみに今日の一枚は、すでにバスの中で撮っていた。眠っている杏珠の姿。いつか見せることがあったとき、杏珠は怒るのだろうか。それとも「いつの間に撮っていたの?」と笑うのだろうか。
そういえば、こうやってお互い写真を撮り続けているがこの写真はどうするのだろう。三ヶ月が経って蒼志が死んだあと、杏珠は一人で見るのだろうか。
それよりは、一緒に見て笑いたいなとそんなことを思う。今度、杏珠に提案してみよう。ああ、でも杏珠が撮った自分の写真は別に見たくないな。そんなことを思いながら、修学旅行一日目の夜は更けていった。
――お互いの撮った写真を見せ合う。そんな日が来ることはないことを、このときの蒼志はまだ知らなかった。
その日の夜中だった。蒼志のスマートフォンに一通のメッセージが届く。それは、杏珠からだった。
『夜空が凄く綺麗だよ』
大谷達が眠っていることを確認すると、そっとベッドから抜け出しカーテンを開けた。そこには確かに満天の星空が広がっていた。
光の多い大阪では見ることのできない量の星に圧巻される。
返事を返せないままいると、杏珠から電話がかかってきた。
『星、見た?』
「……寝てたらどうするつもりだったんだよ」
『既読がついたから起きてると思って。ね、それより星見た? 凄いね』
「……凄い。一瞬、息ができなくなった」
言ってから笑われるかもしれないと思ったがどうでもよかった。けれど、杏珠は笑うことなく、電話の向こうで頷いた。
『うん、わかる。息ができなくなるぐらい凄くて、目が離せなくなった』
杏珠の言葉がどうしてか嬉しかった。自分と同じようなことを思ってくれる人がいることに、どうしてか胸の奥がふわふわした。
でも、そんなまるで感情のある人間の思うようなことを自分が考えたことが信じられなくて、蒼志はごまかすように尋ねた。
「……なんで」
『え?』
「なんで俺に連絡してきたの?」
誤魔化しながらも、単純に疑問でもあった。別に星空を見るのであればわざわざ蒼志に連絡してくる必要はない。同じ部屋には沢本や徳本がいるのだ。二人を起こして三人で見ればいい。そう疑問に思い尋ねると、杏珠が言葉に詰まったのがわかった。
『それ、は』
「それは?」
『…………』
何も答えない杏珠に、そんなに変なことを尋ねただろうかと少しだけ気になる。
「杏珠?」
『……から』
「え?」
上手く聞き取れなくて、聞き返した蒼志に杏珠は怒ったように言った。
『蒼志君と見たいと思ったから!』
「は……?」
『じゃあおやすみなさい! 明日、寝坊しないようにね!』
通話の切れたスマートフォンを見つめながら蒼志は「何を怒ってるんだ?」と首を傾げると、もう一度星空を見上げた。
杏珠はこの星空を蒼志と見たかったのだと言った。もしも蒼志が先にこの星空を見つけていたとしたら、その時は……。
「確かに、俺も杏珠に連絡していたかもしれないな」
小さく呟くと、蒼志は杏珠にメッセージを送ってスマートフォンのディスプレイをオフにした。
『教えてくれてありがとう。嬉しかった。おやすみなさい』
そのメッセージに、すぐ既読がついたことを、蒼志は知らない。
二日目、早朝から蒼志はホテルの外に出ていた。目が覚めたからではない。起こされたからだ。
「寒い」
「寒いね」
「眠い」
「うん、眠い」
「もう部屋に戻っていい?」
「駄目」
即答する杏珠にため息を吐く。六月と言えど北海道。朝の冷え込みは大阪の比ではない。今も吐いたため息がやけに白くて余計に寒く思える。部屋を出たのが4時半過ぎだったはずだからそろそろ5時前だろうか。ちらほらと集まり始めたクラスメイトたちの姿にさっさと終われという気分にすらなってくる。
「楽しみだねー気球」
「俺はむしろいつの間に申し込まれていたのか不思議でしょうがないんだけど」
「班行動のときに決めたよ? ねー」
小首を傾げるようにして杏珠は蒼志、ではなくその後ろに立つ半分寝ている大谷達に声を掛けた。「お、おう」と慌てて返事をするけれどおそらく何を言われたのかすらわかっていないだろう。
どうせ女子三人が乗りたいと言ったのを、沢本にいい格好がしたい大谷が「いいじゃん、乗ろうぜ」とか言ったのだろう。後ろで苦笑いをしているもう一人の男子の班員である飯野を見ればその予想が当たっているであろうことは想像に難くなかった。
「でもそんな話してた記憶、全くないんだけど」
「そりゃ、蒼志君が先生に呼ばれていなかったときに話してたから」
「は?」
「だって蒼志君がいるときにしても「めんどい」「やだ」「俺は行かない」って言うのが目に見えてるんだもん。ねー?」
もう一度、同意を求めるように『ねー?』と言った杏珠だったが、さすがに他のメンバーもその言葉に同意の声は上げなかった。大谷だけは腹を抱えて笑っていたが。
「……と、いうか翌日こんな予定が入ってるなら、昨日の夜あんな時間に起こすなよ」
「えーでも見れて嬉しかったって蒼志君も言ってたでしょ」
「……そこまでは言ってない」
ポケットに手を突っ込んだままそっぽを向く蒼志を、大谷が不思議そうに覗き込む。
「なーなーなんの話?」
「なんでもないよ」
「昨日の夜ってなんだよ。俺らが寝たあと二人で何してたんだよ」
「何もしてねえよ」
「ホントか?」
疑わしそうに蒼志を見た後、大谷は視線を杏珠に向けた。
「日下部さんホントに?」
「えーどう思うー?」
「わっ。やっぱり何かあったんだな?」
「だから何もないって。杏珠も大谷をからかうなよ」
「だって大谷君面白いんだもん」
クスクスと笑う杏珠に「え、俺今からかわれてたの?」と大谷は泣き真似をしてみせる。そんなことをしている間にようやく一組目が飛び始め、
赤や黄色といった色とりどりの気球が朝焼けの空を舞う。乗りたい、とは今も思わないがこうやって下から見上げる分にはいいかもしれない。
随分と前にテレビで見たトルコの気球を思い出す。何十、何百もの気球が一気に空を舞う姿は壮観で、いつか実際に見てみたいと思った。両親に「ここに連れて行って!」と言って困らせたのが懐かしい。もうそんな気は起きないし、そもそもそんな時間も蒼志には残されていないけれど。
「ほら、次みたいだよ」
「あ、ああ」
空を舞う気球に見とれていた蒼志は、杏珠に声を掛けられるまで呼ばれていることに気付かなかった。人数の関係で蒼志達の班の6人と、隣のクラスの6人が一緒に乗ることになった。下から見ると小さく見えたそれは、間近で見ると思った以上に大きい。こんなものが、電気も何も使わず空を飛ぶというのだから不思議だ。
ゴンドラの扉が閉められて、いよいよ着火される。ふわり、と身体が宙に浮く感覚は、少し飛行機の離陸の瞬間に似ている気がした。
気球が高度をあげ、だんだんと地上にいるクラスメイトたちの姿が小さくなっていく。
「……綺麗」
隣に立つ杏珠が、遙か彼方まで広がる大地を、朝焼けを見て思わずと言った様子で呟いた。その感覚は蒼志にはわからない。けれど、朝焼けを見て綺麗だと言う杏珠のことを無性にカメラに収めたくなった。大谷達もスマートフォンで写真を撮っているから、蒼志が撮っていたとしても何も言われないだろう。杏珠に気付かれないようにポケットから取り出すと、そっとシャッターボタンを押した。
「え?」
「……何?」
「あ、ううん。そっか、朝焼けか。ビックリしちゃった」
すぐにスマートフォンの向きを変えたおかげで、杏珠は蒼志が撮ったのが朝焼けだと勘違いしてくれたようだった。なんとなく後ろめたくて蒼志はスマートフォンをポケットに戻す。そして反対側のポケットに入れていたクラス用のデジカメを取り出した。
乗りたいとは思わなかったけれど、こういう機会でもないと気球に乗ることも、それからさっきのような杏珠の表情を見ることもなかっただろう。そう思うと、ほんの少しだけ大谷に感謝してもいいような気がした。
「大谷、それから沢本も」
「へ? あ、え、ピ、ピース」
蒼志の意図に気付いたのか、大谷は隣に立つ沢本と並んでピースサインをこちらに向けた。自然に笑う沢本の隣で動揺したせいか引きつった笑顔になってはいるが、いい思い出にはなるだろう。徳本と飯野の写真も撮り、それから自然なトーンで杏珠にもカメラを向けた。
「杏珠、ほら」
「撮ってくれるの? わ、嬉しい」
照れくさそうに杏珠は笑う。
――可愛い。
「……っ!?」
自分の中に浮かび上がった感情に、蒼志は驚きを隠せず息を呑んだ。今、何を考えた? 杏珠が、なんだって?
そんなふうに誰かのことを思うことがあるなんて、あの日以来思ってもみなかった。それなのに。
表情を見られたくなくて口元を押さえると、その場にしゃがみ込んだ。恥ずかしい。どうして、こんなこと。
もしかして、心失病が進んだせいで感情が爆発しようとしているのか。もしかすると爆発、という表現は正しくなくて本当は感情が増幅しているのではないだろうか。そうじゃないと説明が付かない。こんな、こんなふうに誰かのことを思うだなんて。
「大丈夫?」
突然しゃがみ込んで動かなくなった蒼志を、杏珠が心配そうに見下ろしている。心配掛けたくなくて「酔っただけ」と言うと「気球で?」と不思議そうに言われた。
気球では酔わないのだろうか、と思ったりもしたけれど今さらもう遅い。酔ったと言ったからには酔ってしまったで押し通すしかないのだ。
徐々に高度を下げて、気球が地上へと戻る。まるで現実へと引き戻されるようで、どこかもの悲しさすら感じる。素知らぬ顔で立ち上がると、杏珠が「もう大丈夫なの?」と尋ねてきたけれど聞こえなかったふりをした。
「朝比奈」
「え?」
大谷が何故か蒼志に向かって手を差し出しているのが見えた。何がしたいのかわからずにいると「ほら! カメラ!」と言って蒼志の手からクラス用のデジカメを奪い去る。
「お前、何を……」
「俺ら四人は撮ってもらったんだから、次はお前らだろ」
「は? いや、俺らは」
「いいから、並べよ」
大谷に言われるがままに杏珠の隣に並ぶ。「ほら、笑って」と言う大谷の声に、隣で杏珠が楽しそうに微笑みを浮かべる。
そんな杏珠のそばで、蒼志はただ立ち尽くしたまま笑うことも身動きすることもできずに写真に収まるしかなかった。
いつか見返したとき、これもいい思い出になるのだろうか。そう思うと、どことなくくすぐったいようなそんな気がした。
二日目、三日目と杏珠に振り回されるままに体験学習に行った。ラフティング体験では杏珠と大谷の企みにより、ライフジャケットを着たまま川に浮かされた。正直、こういう役回りは大谷にピッタリだと思うのだけれど何事も体験だとしたり顔で言われた。
牧場では乳搾り体験。牛に蹴られそうになるという一生のうち一度も体験しなくていいであろう経験をさせてもらう。楽しいかどうかはわからない。ただ杏珠が笑っていたから、こんな日があってもいいかと思った。
自分自身がこんなことを思うなんて、今まで想像したこともなかった。感情を失ったはずの自分が、誰かのことを考え心を動かされるだなんて。不可解だった。でも、不快ではなかった。それがまた不可解さに拍車を掛けていた。
ようやく迎えた最終日。今日は小樽周辺で自由行動のあと、また飛行機に乗って大阪に戻る。涼しい気候に慣れた今となってはほぼ夏のような気温の大阪に戻るのが多少憂鬱である。
オルゴール店を見た後、蒼志達の班は集合場所近くの土産物屋へと向かった。このあとの空港では土産を買う時間はないらしくここで済ませておくように、とのことだった。
店内には有名どころの土産物から面白グッズまで色々ある。大阪でよく見たパロディ元のお菓子や可愛いのか可愛くないのかわからないクマがプリントされたハンカチ、北海道名物をキャラメルにした変わり種までたくさん並んでいた。
両親に何かお菓子でも買って帰ればいいかと適当に美味しそうなのを見繕う。そうしたい、というよりはそうしなければいけないから。喜んで欲しいとか美味しそうなものを見つけたから食べて欲しいとか、そういう感情があるわけではない。
そんな蒼志の隣で大谷が「これは自分用」と言いながら両手に持ちきれないほどの箱を抱えていた。一日目にも買っていてすでにボストンバッグがパンパンだったように思うのだがどうやって持って帰る気なのだろう、と少しだけ思ったが気に掛かる程でもなかったので特に何も言うことはなかった。
「ちょっとあっちも見てくるな!」
律儀に蒼志に断りを入れると、大谷は箱を抱えたままふらふらと歩いて行く。
「大谷、これ」
「ん? ああ、サンキュ!」
近くにあった買い物カゴを大谷に差し出すと、一瞬驚いたような表情を浮かべたあと嬉しそうに笑って受け取った。手渡したカゴに持っていた土産を入れるとすでに八割ほどカゴが埋まってしまっていた。大谷もようやく買いすぎなことに気付いたのか「あと一つか二つにするか」とカゴの中を見て呟きながら歩いて行った。あの様子なら、なんとか持ち帰られる範囲に収まるだろう。
「やっさしー」
「……何が」
いつの間に隣にいたのか、どうやら一部始終を見ていたらしい杏珠がニヤニヤと笑いながら蒼志を見上げていた。何の話かわからないではなかったが、素知らぬ顔をして土産物に視線を向けた。けれどそんなことで諦めるような杏珠ではないことを、蒼志はこの一ヶ月でよく知っていた。
「さっきの、大谷君が買いすぎて持って帰れなくなるんじゃないかって思ってでしょ?」
「違う。あんな大荷物を持って店内を
「他のお客さんって、うちの高校の生徒以外いないじゃん」
蒼志は言葉に詰まる。杏珠の言うとおりで、観光地小樽といえど平日の昼間。しかも店内に制服姿の高校生がうじゃうじゃいるという現状で一般のお客さんが入りにくくなっているのか、同じ制服を着た生徒の姿しか店内にはなかった。
「やっぱり優しいじゃん」
「……杏珠は何か買うの?」
押し問答を続けるのも面倒くさい。さらっと話を変えてしまおうと、蒼志は杏珠に尋ねた。両手いっぱいにお土産を持っていた大谷とは対照的に、杏珠は手ぶらだった。何かを買った様子もない。
「んー、何か買おうとは思ってるんだけどね。あ、ねえねえ。蒼志君、一緒にキーホルダー買おうよ」
「キーホルダー?」
「そう。あーでもただお揃いのを買っても面白くないなー」
お土産に面白さなんて必要なんだろうか、と思うものの先程まで見ていたクマグッズを見るに、面白さを求めている人も一定層いるのかもしれない。
暫く何かを考えていた杏珠は名案を思いついたようで「そうだ!」と手を打ち鳴らした。
「私は蒼志君のキーホルダーを選ぶから、蒼志君は私のキーホルダーを選んでよ」
「やだ」
「なんで!?」
「面倒くさい」
「面倒くさくなーい。ね、いいでしょ? どうせ蒼志君だって、自分へのお土産なんて一つも買ってないんだからさ。私にお土産をあげると思って。ね!」
どうせ、と言われることに引っかかりを覚えるが、自分へのお土産を買っていないことは事実だった。と、いうか自分にお土産を買うという発想がなかった。自分が行った旅行のお土産を自分自身に買うというのは一体どういう心境なのか。
疑問に思っている蒼志の隣で「はい、決定ー!」と杏珠は勝手に話を進めていく。こうなってしまえば引くことはないだろう。
まあ適当にそれっぽいものを選べばいいか。そう思い、目の前にあるクマのコスプレをした有名なネコのキーホルダーに手を伸ばす。
「適当にそれっぽいものを選んどけばいいか、なんて思って選ばないでね」
まるで蒼志の心の中を読んだかのように、杏珠はニッコリと微笑んで釘を刺す。伸ばしかけた手を、蒼志はそっと引っ込めた。
杏珠にお土産をあげるとしたら、そんな難しいことを言わないで欲しい。だいたいお土産というのはその場所にいないからあげるものであって、こうやって一緒にいるのにお土産も何もないじゃないか。そう思うものの、そんな言葉で杏珠が納得するはずがないことは重々承知なのでとにかくキーホルダーを一つ一つ見て行く。
クマにメロンにマリモ……変わり種ばかり並ぶ中に、それはあった。小さな気球がついたキーホルダー。色々な色があるが、蒼志達が乗ったのと同じ赤い気球もあった。スイッチがあってオンにすると気球が光るらしい。
杏珠らしい、が何かはわからないが、気球に乗っているときの杏珠を思い出すと何故か蒼志の胸の奥が暖かくなるのを感じた。
数分後、杏珠が蒼志の元へと戻ってきた。蒼志と同じことを考えていたようで、その手には小さな紙袋に入れられたキーホルダーを持っていた。蒼志も見られないようにと先に会計を済ませ袋に入れてもらっていた。
「じゃあ、交換しようか」
「……気に入らなくても文句言うなよ」
「言わないよ。蒼志君が選んでくれたものなのに」
そういうものなのか、と思いながら差し出された紙袋を受け取った。
「ね、開けてもいい?」
「……いいけど」
嬉しそうにテープを外すと、杏珠は紙袋の中身を自分の手のひらに出した。
「わぁ……」
手のひらに載った小さな気球。それが何を意味するのか杏珠もわかったようで嬉しそうに笑った。その反応に安心すると同時にどこか気恥ずかしくて、蒼志は顔を背けるとぶっきらぼうに言った。
「……なんだよ」
「ふふっ、凄く嬉しい。ありがと。ねえ、蒼志君も――」
「あー!」
開けてみて、と杏珠が続けるよりも先に、大きな声が辺り一面に響き渡った。
「やっぱりお前ら付き合ってんのかよ」
からかうような声の主は、ちぎれんばかりに持ち手の伸びたビニル袋に無理やり詰め込まれたお土産のお菓子を持った大谷だった。大谷の声に周りにいたクラスメイトや他のクラスの生徒まで視線をこちらに向けた。勘弁して欲しい。
「違う」と蒼志が否定するよりも早く、杏珠の声が耳に届いた。
「違うよ」
「ん? そうなの?」
あまりにもハッキリと言う杏珠に、大谷は首を傾げると蒼志に問いかける。けれど、蒼志は大谷に返事をする余裕はなかった。
自分だって同じことを言おうと思っていた。否定するつもりでいた。なのに、杏珠から言われるとどうしてこんなにも胸の奥が重いのか。まるで一日目にジンギスカンを食べたあとのような胸焼けのような感覚が蒼志を襲う。
「ふーん、仲いいし付き合ってるんだと思ったのにな」
まだ諦めきれないのか食い下がる大谷に、杏珠は苦笑いを浮かべた。
「蒼志君は私のことなんて好きじゃないよ。ね?」
好きかどうか、と聞かれると確かにそうだと思い蒼志は頷いた。蒼志にはもう好きという感情がどんなものだったのかなんてわからない。けれど。
「……別に、嫌いでもないけどな」
「え……」
蒼志の言葉に、杏珠の頬がまるであの日見た朝焼けのように真っ赤に染まったのを見て、喉まで出かかった笑い声を慌てて飲み込んだ。
数日後、教室前の廊下に修学旅行中に蒼志と杏珠が撮った写真が貼り出された。クラスメイトを撮ったはずなのに、蒼志が撮った写真は何故か妙に杏珠が写っていることが多い。
その理由を、蒼志自身もまだ知らなかった。
ちなみに二人並んで撮った写真は、貼り出された直後杏珠によって取って行かれたことを、蒼志は知るよしもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます