余命三ヶ月、君に一生に一度の恋をした
望月くらげ
第一章 感情なんていらない
第1話
真っ白で無機質な部屋。神経質そうな表情でカルテに何か書き込みながら、白衣を着た医者はこちらを見ることなく喋り続ける。
「それで。
「はい。何も」
「そう。繰り返しになるけど、少しでも体調に変化があればすぐに救急車を呼んでください」
「わかりました」
毎月言われるお決まりの注意事項を聞きながら、蒼志はカルテを盗み見る。そこには『残り三ヶ月』と書かれていた。カルテには
奇病、と呼ばれる病はいくつもある。昔からあるものもあれば近年発見された珍しい物まで様々だ。蒼志が罹っているのもその中の一つ。『
「お疲れさま。もう帰って大丈夫だよ」
「ありがとうございました」
特に薬が出る訳でもない。ただの経過観察のためだけに大学病院まで来るのは大変だろう、と以前医者から言われたことがあった。だが、蒼志にはその面倒くさいという感情がもうわからなかった。
「次回もまた一か月後。そうだな、六月十五日頃に見せに来て下さい。ああ、時間は今日と同じ。十六時で取っておくから安心してね」
医者はまるでいいことをした、とでも言わんばかりの笑みを蒼志に向ける。蒼志にとってはどうでもいいことだったけれど、別に医者の言葉を否定するだけの何かもなかったので黙って頷いた。
どうやら医者は平日の昼間に病院に通うことで、クラスメイトから何か言われるのではないか、心失病と知られることを蒼志が嫌がるのではないかと思っているようだった。実際のところそんな感情はこれっぽっちも蒼志にはないのだが。
頭を下げて診察室を出ると待合のロビーに向かう。初診の患者がいる午前中ほどではない、と聞いてはいるが夕方のこの時間でも大学病院は混み合っている。一つ開いていた二人がけソファーの片方に座ると、ポケットからスマホを取りだした。もはや定型文と化した「変わりはなかった」というメッセージを母親に送る。心失病を発症した当初、まだ中学生だった頃は診察の度に母親が仕事を休んで付き添ってくれていた。だが、どうやら心身共に負担だったらしく高校に入ったことをきっかけに「一人で行けるか?」と父親から尋ねられた。
蒼志としては別にどっちでもよかった。母親と一緒に行っても自分一人で行っても何かが変わるわけではなかったから。ただ話を聞いて「変わりないです」という返事をするだけ。ただ、それだけだった。
電光掲示板に蒼志の順番を示す番号が表示された。窓口で支払いをして、帰ろうと振り返ると誰かが真っ直ぐこちらを見つめていることに気付いた。黒のブレザーにチェックのスカート。胸元にはえんじ色のリボンが付いていた。あれは――。
「
「あー、やっぱり朝比奈君だ。後ろ姿でそうかなって思ってたんだけど、自信なくって」
ひらひらと手を振り、本人曰く人懐っこい笑顔を浮かべながらこちらに向かって歩いてきた。
「お見舞い、じゃないよね。お支払いしてたし。大学病院まで来るって何かあったの? あ、ちなみに私はおばあちゃんのお見舞いに来たんだ」
歩き出す蒼志の隣に当たり前のように並ぶと、日下部は聞かれてもいないことを話し、なおかつ蒼志にも尋ねる。小首を傾げると肩に掛かる髪がふわりと揺れた。
「定期検診」
「定期検診? 朝比奈君って何か持病でもあるの?」
「心失病」
「心失病って?」
病名を聞いてもピンとこなかったのか、さらに尋ねてくる。それもそうだ。癌や脳腫瘍なんかのメジャーな病気に比べて、心失病なんて当事者かその周りの人間ぐらいしか知らないぐらいマイナーな病気だ。症例だって僅かしかない、どういう原理で発症するのかもわからない。だから奇病と呼ばれているのだ。
蒼志は自分が以前、医者からそうされたように学術書に書いてあるないようを平たく噛み砕いて説明する。
「心を失う病気と書いて心失病。文字通り心をなくす病気だよ。失感情症というのもあるらしいけど、それとは少し違う」
「心を、なくす……。それって楽しいとか、嬉しいとか、そういうのがなくなっちゃうってこと?」
「悲しいとか辛いって感情もな」
日下部は驚いたような表情を浮かべた。別に感情がなくなったからといって何もわからないわけではない。こういうとき前だったら辛かっただろうなとか、あーきっとこんなときに喜んだんだろうな、とか思うことはある。理解するのとその感情が自分の中で湧き出てくるのとは全く別の話だ。カルテに書かれていた通り、すでに蒼志の中から『喜怒哀楽』の感情はほぼ全て抜け落ちていた。薄らと残ってはいるけれど、起伏というには山が小さく検査でも殆ど振れ幅は見えない。「まだあります」なんて自己申告するのも訂正するのも面倒で、そのままにしていた。
大学病院を出て蒼志は阪急高槻市駅の方へと向かって歩く。高校まで徒歩通学のせいで、つい病院の日だというのに今日も歩きで来てしまった。まあ普段十五分歩くところが二十五分になるぐらいの差なのでどうってことはない。
「つまり、日下部君には喜怒哀楽がないってこと?」
「もうちょっときちんと言うと、「喜び」、「悲しみ」、「怒り」、「驚き」、「恐れ」、「嫌悪」だね。どこかの論文で人の感情は二十七種類ある、なんてのも発表されたらしいけど」
そんな誰が決めたかわからない研究結果なんてどうでもよかった。だが、日下部は蒼志の言った二十七種類、というのが気になったらしく隣を歩きながら「えーそんなにあるのかな」なんて言って指折り数え始めた。
そういえば、同じ方向に向かって歩いてくるが、日下部もこちらなのだろうか。日下部の存在は高校に入って初めて知ったから、中学校区が同じということもないはずだ。まあ別に興味はないからいいのだが。
「そっか。でも感情を失うだけで、って言い方をしたら駄目かもだけど、命を失う病気じゃなくてよかったよね」
「いずれは命も落とすけどな」
「え……?」
蒼志の言葉に、日下部は思わず足を止めた。ちょうど阪急高槻駅へと渡る横断歩道の前に着いたところで、たくさんの人がいる中立ち止まったままの日下部の存在は邪魔になっていた。それは蒼志だけではなく日下部も思ったようで、制服の袖口を引っ張ると「こっちに来て」と円形のベンチのところまで連れて行く。
「命も落とすってどういうこと?」
どうやら話し終えるまで帰してくれそうにない雰囲気に思わずため息を吐と蒼志はベンチに座った。日下部は蒼志の前に立つと逃がさないとばかりに腰に手を当てた。
「どういうことって、そのまんまの意味だよ。心身っていうだけあって心と身体はどちらも揃うことでバランスが取られてるんだ。どちらかが欠けてしまえばバランスが崩れ、足りない方を補おうとした結果、共倒れのような形で駄目になってしまう。体調が悪くなると、なんとなく気持ちも弱るだろ。あれと似たようなもんだ」
発症当初、医者が母親に説明していたのをよく覚えている。隣で涙を流す母親をよそに、そんなもんなのかと妙に納得した。
「風邪を引いて高熱を出したときとかもそうだもんね。でも、だからって今日明日すぐにって話でもないんでしょ?」
「さあね。最長三年らしいから。発症後の余命は」
「……ちなみに、今は」
「二年九ヶ月」
「嘘、でしょ?」
「なんで嘘なんてつかなきゃいけないの」
カルテに書かれていた残り三ヶ月という文字を思い出した。日下部に説明したとおり、心失病患者の予後は悪い。発症後の余命は長くて三年、短くて半年ということもあるらしい。少なくとも、今まで三年を超えて生きた患者は一人しかいないそうだ。唯一の生存者、そして唯一の完治した人間だ。
治療法の確立していない病気で、そんな奇跡が早々起きることのないことはわかっている。そんな奇跡が自分の身に起こることを期待しようとも思わない。だから蒼志の命はどれだけもっても残り三ヶ月。別にそれに対して特に思うこともなかったし、どうでもよかった。
ただ目の前の日下部はそうではなかったようで。蒼志の話に何やら考え込むように眉ひそめたり額に手を当てたり、一通り表情を変えたあと頭を下げた。
「ごめん」
「何が?」
「言わなくてもいいこと、言わせちゃった。ごめんね」
「別に」
自分が話したことに対して嫌だという感情も恥ずかしいと思う感情も、もう蒼志は持ち合わせていなかった。
「……私、もね。……が、余命三ヶ月なの」
「は?」
あまりの声の小ささに上手く聞き取れなかったこともあり、一瞬言われたことの意味がわからなかった。ただすぐに理解した。先程、日下部は祖母の見舞いに来ていたといっていた。そうであれば。
「おばあさんの話か?」
「……うん」
蒼志の言葉に、日下部は小さく頷いた。俯いた日下部の表情はうかがい知ることができない。
「発見が遅くて……。気づいたときにはもう手術もできないぐらい悪かったの。あとは薬で痛みを緩和するぐらいしかできないって」
「そうか」
こういうとき、寄り添うような言葉を掛けられればいいのだろうけれど、生憎今の蒼志にはそんな言葉の一つも出てこない。
それよりも同じ余命三ヶ月とは。こういう場合、宣告された日からお互いちょうど余命三ヶ月なのか。それとも、大まかに四月に宣告されたからどちらも七月が余命、ということなのか。だとしたら。
「どっちが先に死ぬかな」
「……は?」
それは今まで聞いた中で一番冷たい言葉だった。特に他意があったわけではないが、どうやら日下部の癇に障ってしまったらしい。肩をすくめる蒼志の頬に乾いた痛みが走った。
「ふざけないで!」
「…………」
「生きたいと思っているおばあちゃんと、生きることを諦めているあんたを同列に語らないで!」
はぁはぁと肩で息をしながら、叫ぶように日下部は言った。どうしてそこまで怒れるのかが蒼志にはわからなかった。わからなかったが、こういうときどうすればいいのかぐらい感情を殆ど失った蒼志にだってわかる。
「悪い」
「思ってもないのに言わないで」
だが、その言葉すら日下部を苛立たせるものでしかなかったらしい。せめてここで『じゃあ、どうすればいいんだよ』と困りでもすればよかったのだろうけれど、生憎そんな感情は持ち合わせていなかった。
「……決めた」
暫く黙ったままだった日下部だったけれど、やがてそう言うと蒼志の顔の前に指を突き出した。額に触れそうな程ギリギリの距離だったせいで、日下部の指先が蒼志の前髪に触れて額をくすぐった。
「生きたいと思わせてあげる。三ヶ月かけて」
「は?」
先程、日下部が蒼志に言った言葉を、今度は蒼志が言う番だった。
「何を……」
「もう一回言う? 聞こえなかった?」
「いや、聞こえはしたけど」
言った言葉を理解したのと、言われた言葉の意味を理解するのでは大きな違いがある。
日下部が何を言ったかはわかったが、その言葉の意味が蒼志にはわからなかった。
今日まで殆ど話したこともなかった蒼志にどうしてそんなことを言えるのか。他人が生きようが死のうが、どうでもいいじゃないか。仲がいい友人でもない、ただのクラスメイトでしかない蒼志のことなんて放っておけばいい。
そう思う気持ちはあるものの、正直なところ蒼志は日下部が何を言おうがどうでもよかった。
「好きにすれば」
「あれ? なんでそんなことするんだ? って聞かないの?」
「聞けば理由を答えるのか?」
「答えないけど」
勝手な答えに蒼志はベンチから立ち上がると、これ以上付き合っていられないとばかりに歩き出した。その後ろを日下部は慌ててついてくる。
「ねえ、待ってよ」
「何、まだ何かあるの?」
「そこはさ、理由は? って聞くところでしょ」
「面倒くさいな」
阪急高槻市駅に向かう横断歩道を渡り、駅の高架下を歩いていく。駅の中に入っているエミルの出口との合流地点までやってきてもなお、日下部は蒼志のあとを着いて来ていた。
答えることがない理由を何故聞かなければいけないのか蒼志にはわからなかった。ただこのまま聞かなければどこまでも着いて来そうでそれはそれで面倒だった。
「理由は?」
「え?」
「だから、理由だよ」
蒼志の言葉に、日下部はにぃっと口角を上げると満面の笑みを浮かべた。
「理由なんてどうでもいいじゃない」
「……あっそ。これで満足か? じゃあ、俺はこっちだから」
「私はこっち。また明日ね!」
左手側、城北通りを指差す蒼志に対して日下部は直進方向、水木通りを真っ直ぐ行く道を指し示した。着いて来ていると思ったのは勘違いだったようで、どうやら帰り道が途中まで同じだっただけらしい。嵌められた気もするけれど、どうでもいい。
「…………」
無言のまま左に曲がる蒼志の背中に、日下部は先程よりも大きな声を投げつけた。
「また明日ね! 蒼志君!」
「……また明日、日下部」
「む。あんじゅ、だよ! 蒼志君!」
わざと大きな声で創始の名前を呼ぶ日下部に、僅かに残っていた苛立ちを感じはしたが、それよりもこのまま無視をして人通りの多いこの時間帯に、フルネームを叫ばれかねないことの方が避けたかった。
渋々振り返った蒼志は片手を挙げた。
「……わかったよ、杏珠」
「またね!」
嬉しそうに手を振ると、杏珠はもう蒼志を振り返ることなく小走りに駆けていく。呼び方を変えられたことにも変えることにも抵抗はなかった。ただどうにも杏珠の思うままに進んでいるような気がして、それだけがなんとなく腑に落ちなかった。
「まあ、どうでもいいか」
一人呟くと、蒼志は城北通りを抜け自宅への道のりを歩き始めた。
翌日、いつも通り蒼志は学校に向かう。家から歩いて十五分。遠すぎず、近すぎず。距離だけで選んだ高校だったけれど、特に不満はなかった。
二年三組の教室に向かうと、すでにクラスの半分ぐらいは登校していた。進級後、まだ席替えをしていないため『あ行』の蒼志は廊下側の一番前の席だった。ゴールデンウイークも開けたことだし、そろそろという空気が流れてはいたが、担任が新任教師のため、どうやらまだ名前と顔の一致に不安があるようで、結局席替えは行われていなかった。
だがそこにはすでに先客の姿があった。
「おはよう、蒼志君」
「……おはよう、杏珠。そこ、俺の席なんだけど」
「うん、知ってるよ」
「知ってたらどいてもらっていいかな?」
「まあまあ、そんなこと言わず。今日、私は蒼志君にこれを渡すためにいつもよりも三十分も早く家を出たんだよ。凄いでしょ」
凄いでしょ、と言われ蒼志は教室の一番前につけられた時計を見る。時間はすでに八時。始業時間まであと十分だ。
「あ、今八時に学校に着いてて三十分早く出たってどういうことだって思ったでしょ? ぶっぶー。私が学校に着いたのは七時半なんですー。だから普段八時に学校に来ている私にとってはいつもより随分早い登校だったんです-」
「そりゃお疲れさま。で、そこどいてくれない?」
「なんて感情のこもってないお疲れさま……」
「まあ、感情がないわけだし」
さらっと答える蒼志に、杏珠は不味いことを言ってしまったとでも思っているかのように表情を曇らせた。別に気になんてしていない。感情がないことも先程の言葉に感情がこもっていないことも事実なのだから。
おずおずと席を立つ杏珠と入れ替わるようにして蒼志は席に立つ。まだ何か話があるのか、杏珠は蒼志の席の横に立っていた。手には小さな紙を持っているようだった。
「で、何の用があるの」
鞄の中から一限目に必要な物を取り出しながら杏珠に尋ねる。ちなみに一限は数学だった。教科書とノートと筆箱があればいいか。そんなことを考える蒼志の目前に紙が差し出された。
「入部、届け?」
紙に書かれた言葉をつい読み上げてしまう。視界の端に杏珠の嬉しそうな表情が見えた。
「そう、これを貰うために早く学校に来てたの。ねえ、蒼志君。私と一緒に写真部に入らない?」
「入らない」
「なんで!?」
即答する蒼志に杏珠は大げさなまでに反応をする。ショックを受けたとばかりの声に、近くの席に座っていたクラスメイトがこちらに視線を向けたのがわかった。先程から何度かこちらを気にする素振りをしていたが、どうやらついに堪えきれなくなったらしい。
それでも声を掛ける義理もないので、そちらを見ることなく杏珠に答えた。
「何でって。逆になんで入らなきゃいけないの?」
「昨日言ったでしょ。生きたいと思わせてあげるって」
「それと写真部に入るのと何の関係があるんだよ」
「私の写真を撮って欲しいの」
「は?」
もう話の流れが全くわからなかった。生きたいと思わせることと、杏珠の写真を撮ることがどう繋がるのか。会話がかみ合わない人間と話すことがこんなにも疲れるなんて知らなかった。若干の頭痛にこめかみを押さえながら蒼志はため息を吐いた。
「意味がわからない。だいたい写真部に入るったって俺はカメラも何も持ってないよ」
「スマホがあるでしょ?」
「スマホ?」
「そう。最近のスマホって昔のに比べてカメラの性能がぐんっと上がったの。加工もしやすいしね。スマホだからってバカにできないぐらいいい写真が撮れたりするの」
「写真部ってそんないい加減なものなんだな」
そんなものなのか、と思いつつもつい突っかかるような言い方をしてしまうのは何故だろう。別に杏珠が何を言ってきたところで興味も関係もないはずなのに。
自分自身が投げかけた言葉に戸惑う蒼志を余所に、杏珠は胸を張った。
「弘法筆を選ばずって言うでしょ」
「は?」
「あ、知らない? 弘法筆を選ばずって言うのはね」
「いや、知ってるけど」
そりゃそっか、と杏珠は笑った。何が可笑しいのかわからないが、杏珠はよく笑う。いや、笑うだけではない。感情を素直に表へと出す。感情を失った蒼志とは正反対だ。だが、ストレートに感情を表す杏珠のそばにいるのは、そう居心地が悪いわけではなかった。わかりやすいというのはいいことだ。何を考えているのかわかりにくく、隠されているよりずっといい。
そんなことを考えていたからだろうか。つい、口から肯定の言葉が滑り出てしまう。
「まあ、別にいいよ」
「いいの?」
「……そっちが撮れって言ったんだろ」
正直なところ、嫌だ、という感情すらも今の蒼志はほぼほぼ持ち合わせていなかった。スマホで写真を撮るぐらいどうってことない。思い出したときに適当に撮っておけばいいだろう。そのうち杏珠も飽きるか忘れるに決まっている。
そんな蒼志の思考をまるでよんだかのように杏珠はニヤッと笑った。
「毎日、だからね」
「は?」
「それから、私も毎日蒼志君の写真を撮るよ。一眼レフでね」
「いや、そんなこと頼んでないし。なんだよ、それ」
杏珠の言葉が理解できない。どうしてそういう思考になるのかが蒼志には全くわからない。だが、わからないことに対する興味すら蒼志にはない。
「好きにすれば」
「好きにするね。ちゃんと蒼志君も撮ってね。約束だよ」
「…………」
蒼志の無言を肯定だと受け取ったのか、先程の入部届をもう一度差し出した。今度はご丁寧にシャープペンまで一緒に。それを受け取ると、蒼志は紙に自分のクラスと名前を記入した。嬉しそうに受け取ると「じゃあ、出してくるね!」と杏珠は教室を飛び出して行く。
始業まであと五分もないというのに、わざわざ今行かなくても。と、思うがどうでもよかった。それよりもようやく静かになったことに小さく息を吐いた。
どうでもいいと言っているはずなのに、妙に杏珠のペースで物事を進められている気がする。それがどことなく腑に落ちなかった。
その日の放課後、教室を出ようと帰り支度をして席を立った蒼志の腕を誰かが掴んだ。誰かが、なんてわかりきっている。振り返った蒼志の目の前に満面の笑みを浮かべる杏珠の姿があった。
「部活の時間だよ」
「……わかってるよ」
「ホントに? 今、帰ろうとしてなかった?」
「…………」
黙り込んだ蒼志に「仕方ないなー」と笑うと、腕を掴んだまま教室を出て行く。傍目からは仲良く腕を組んで歩いているように映るのか「え、あの二人?」なんて声が蒼志の背後から聞こえてくる。
「変な勘違いされてるけどいいのか?」
「ん? 勘違いなんてしたければさせとけばいいのよ」
「まあ、それもそうか」
別に蒼志も勘違いされようがどうでもいい。ただ杏珠の方が困るのではないかと報告したまでだ。まあそんなことを思うような人間なら、こんなふうに人前で蒼志の腕を掴んだまま廊下の真ん中を歩いたりなどしないか。
どこのクラスもホームルームが終わった直後ということもあり、廊下はそれなりにごった返していた。だが、あまりにも杏珠がズカズカと歩くものだから、廊下の真ん中がぱっくりと開いている。さながら、海を割ったモーゼのようだ。
そのままどこかの教室へと向かうのかと思った。体育部であれば部活棟に部室があるが、文化部は基本的に空き教室や化学室なんかの教科教室を使っている。写真部も同様だろうと思ったのだが、杏珠は階段を降りると校舎の外へと向かった。もしかすると中庭へと向かっているのかもしれない。
蒼志の予想通り、杏珠は腕を掴んだまま中庭へと向かった。ベンチがあり草木が生い茂る中庭は、昼休みになると弁当を持った女子やカップルが所狭しと座っていた。だが、今は放課後だ。皆、自習室か部活動へと向かったし、それ以外の生徒は下校しているはずだ。勿論、今までであれば蒼志も下校組だったのだけれど。
杏珠は鞄から何やら四角いケースのようなものを取り出した。そっとケースを開けると、中からはカメラが出てきた。
「じゃじゃーん。これが私のカメラだよ」
「見ればわかる」
「感動薄いなー。カッコいい! とか似合ってるね! とか杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね! とか言えないの?」
「悪かったな、感情がなくて」
だいたい『杏珠が持つために生まれてきたようなカメラだね』とは一体何だ。そんなこと感情があったとしても言うわけがない。
「ノリ悪いなー」
ブツブツと文句を言いながらも、杏珠は器用にカメラの準備をしていく。確か杏珠の姿を撮れと言われたはずだから、蒼志も準備をした方がいいのかもしれない、とポケットからスマホを取り出す。
どんな姿を撮れという指示は聞いていない。このあと言われるのかもしれないけれど、面倒くさいことはさっさと済ませてしまいたかった。
カシャ、という音が中庭に響く。気付かれたか? と、思ったけれど目の前の杏珠は真剣な表情でカメラの操作をしているからか、シャッターの音に気付いてはいないようだった。
「よし、準備できた! って、あれ? どうかした?」
写真を撮ったときのまま杏珠のことをジッと見つめていた蒼志に、杏珠は不思議そうに首を傾げる。そんな杏珠に小さく首を振った。
「いや、なんでもない」
「そうなの? 変な蒼志君」
ケラケラと可笑しそうに笑うと、杏珠はカメラのレンズを蒼志へと向けた。
「さあ、準備できたからいつでも撮れるよ」
「撮れるよ、って言ったって」
どう撮られればいいというのだ。立ち尽くしたり座ったりしておくから、勝手に撮ってくれ、ではダメなのだろうか。まあ、駄目なのだろう。
「どうすればいいわけ?」
「んー、普通に普段通りしててくれればいいよ」
「普段通り」
それが一番難しい注文なのでは。だが、普段通りでいいと言ったのは杏珠なのだから自分の言葉に責任を持ってもらおう。蒼志は鞄から教科書とノートを取り出すと、中庭のベンチに広げた。
「ねえ、何やってるの?」
「宿題」
「普段通りでいいって言ったのになんで宿題?」
「これが俺の普段通りだから」
感情を失う前は漫画や小説を読むこともあった。スポーツ観戦も嫌いではなかった。しかし、心失病に罹ってからというもの楽しかったはずのものも興味があったことも全てがどうでもよくなった。どうでもよくなった、というと語弊があるのかも知れない。感情がなくなってからそれらを読んだり見たりしても何の感情も湧いてこないのだ。楽しくもなければ面白くもない。ただ時間を消費しているだけにしか思えない。
それなら学校の宿題をしていた方が余程有意義だった。あと三ヶ月しか生きれないとわかっているのに、今さら勉強をして何になるとも思うのだけれど、まあ学生の本分は勉強だし仕方がない。むしろあと三ヶ月、学校に行かなくてもいいし好きなことをしろ、なんて言われたほうがただ毎日を無駄に消費するだけで終わってしまう。それよりは当たり前のことを当たり前にやって、普通に生活がしたかった――らしい。
今の蒼志は、こんな希望も願望も持ち合わせてはいない。ただ、自室の机にまだ感情を失いきる前の、心失病が発症したばかりの頃の蒼志が書いて貼ったであろうメモにそう書いてあった。
過去の自分の言葉を律儀に守る必要はないのかもしれないけれど、でも忘れないように書いて貼った言葉を、その頃の自分の気持ちをせめて大事にしてやりたかった。
そう、一つ隣のベンチに座る杏珠に伝える。だが、杏珠の反応は「そうなんだ」とあっさりしたものだった。別にどんな反応を期待していたわけでもなかったので、あっさりだろうがこってりだろうがどうでもよかった。
「ねえねえ、蒼志君。私も一緒に宿題してもいい?」
「ん?」
「と、いうか今見ててそこわかんなくて」
「ここ? これ一年の範囲だよ?」
「嘘っ」
杏珠は慌てて教科書とノートを開ける。これなら教室から移動する必要はなかったのでは、と思わないでもないが今さら戻るのも面倒くさい。
時折話しかけてくる杏珠を適当にあしらいながら、蒼志は宿題を進めて行った。
「もー、一年の内容は一年までで終わりにしてほしいよね」
「いや、それは無理だろ」
数学なんて積み重ねだ。中学三年間でやってきたことが高校一年に、一年でやってきたことが二年の勉強にかかってくる。ここで変に躓くと、この先の単元や三年になったときに絶対困る――。そう杏珠に説明しながら、蒼志は自分の中の矛盾に気付く。この先なんて蒼志にはないのに、当たり前のように先のことを考える自分自身が滑稽だ。
手早く宿題を終わらせると、蒼志はノートを閉じ鞄の中へと片付けた。
「あ、まだ私終わってないのに」
「じゃあ、俺は帰るからやってればいいよ」
「えー。まあ私も写真は撮れたからもういいけど」
口を尖らせながら言う杏珠に蒼志は「へえ」と呟いた。宿題しかしていなかったけれど、いつの間にか杏珠は蒼志の写真を撮っていたらしい。
「何してるところ撮ったとか気にならない?」
「ならない、というか宿題しかしてないんだから宿題してるところだろ」
「わっかんないよー。無意識のうちに欠伸してたりとか目擦ってるところだっていう可能性もあるよ? ほらほら、恥ずかしかったりしない?」
「別に」
そんなところを撮るなんて悪趣味だな、と思いはしても恥ずかしいなんて感情は蒼志にはない。だから杏珠が何を撮ろうがそれをどうしようがどうでもよかった。
「じゃ」
鞄を肩に掛けると蒼志は中庭をあとにする。その背中に、杏珠の「また明日ね」という声を聞きながら。
翌日も、そのまた翌日も杏珠は放課後になる度、蒼志に声を掛けた。中庭だけでなく時には屋上、時には教室で杏珠は蒼志の写真を撮った。蒼志も杏珠に言われるがままに一日一枚写真を撮る。別に撮りたいと思う瞬間なんてなかった。ただ杏珠に「ほらこんなポーズはどう?」とか「今、シャッターチャンスだよ!」と言われて、そんなもんかと思いながらスマホのシャッターを押す。ただ撮った写真を見返すこともなければ、それらに心を動かされることもなかった。
感情がない、ということは興味を持てるものもなくなるんだ、ということに気付いたのは発症してすぐのことだった。スマホの画像フォルダにはそれが顕著に表れている。
蒼志のスマホの中にある一番新しい写真は杏珠を撮り始める前は二年九ヶ月前、中学二年の七月に友人達と言った海で撮った写真だった。今よりも少し幼い顔をした蒼志が、ビーチボールを持って砂浜で友人達と笑っている。その数日後、急に笑うことも怒ることもしなくなった蒼志を心配した母親に病院へと連れて行かれ、心失病を発症していると言われることになるとは、あの頃の蒼志は考えもしなかった。もうあのフォルダを見返すこともない。
そんな蒼志のスマホの中には少しずつ杏珠の写真が増えていった。途中でふと撮れと言われただけで保存しろと言われた訳ではないのだから、撮るだけ撮って削除してしまえばいいのではないか、と考えたこともあったがあとあと「実は撮ってなかったんでしょ!」なんて言われるのも面倒だった。
火曜日から始まった部活動も金曜日で四日目を迎えた。この日も適当に「今だよ!」なんて言いながら教室でジャンプする杏珠の写真を撮って蒼志は活動を終えた。
「じゃあまた明日ねー!
手を振りながらそう言う杏珠と正門の前で別れる。蒼志は高校よりも南側、杏珠は北側と正反対な方向のおかげで一緒に帰る、ということはなかった。
自宅までの道のりを歩きながらふと、また明日と言っていたけれど明日は学校が休みだ。いったいどうするつもりなんだ? と、疑問に思ったがすぐにどうでもいいと思い直した。言葉の綾というやつで月曜のつもりだったのかもしれない。だいたい部活動なのだとしたら、許可も取らず土日までやるのもどうなのだという話しだ。
だから蒼志は、翌日の朝杏珠から連絡があるなんて思ってもみなかった。
「嘘だろ」
そう呟いたのは、翌朝午前八時。土日は目覚ましを掛けていないのだけれど、だいたいいつもこれぐらいの時間に目が覚める。特にすることもないのでもう少し寝ていても問題はないのだけれど、習慣というのは恐ろしいもので長年この時間に起きていたため身体が自然と目が覚めるようになっていた。
そんな蒼志が目覚めてスマートフォンで時間を確認するついでに通知を確認する。だいたいは随分と昔に登録したメルマガや、これまた数年前無料スタンプを貰うためにフレンドになった企業からのメッセージ、あとは今日の天気が配信されているだけだった。
だが、この日は違った。スマートフォンの画面に表示された『新着メッセージがあります』という文字と日下部杏珠の名前があった。
一体何を言ってきたのか。怪訝に思いながらも名前をタップする。するとそこには
『今日の部活は課外でやります。十時にJR高槻駅に集合ね』
と書かれていた。
「マジかよ」
思わずそんな言葉が零れる。そして自分の中にまだこんなにも感情が残っていたのかと少し驚く。怪訝に思うことも、驚くことも、ましてやそれを口に出すことなんてこの数か月の間で思い出そうとしても思い出せないぐらいにはなかった。それなのに話すようになってたった数日の杏珠に、こんなにも感情を引き出されるなんて。
「……まあたまたまだろ」
スマートフォンを操作すると『了解』の二文字だけ送信する。数秒も経たないうちに既読を示すマークが付き、さらにネコのイラストに『待ってるニャン』という吹き出しがついたスタンプまで届いた。律儀なことだと思いながらスマートフォンをベッドの上に放り投げる。待ち合わせまであと二時間。自転車で行くとして九時四〇分に家を出れば余裕で間に合う。
やることもないので宿題を終わらせてしまおう。そうすれば明日は月曜日の予習に充てられる。
「……そういえば、さっきのメッセージで今日の部活は、と書いていたがまさか明日も部活をするつもりじゃないだろうな」
呟きながら、杏珠のことだから否定はできないなと思う。もしかすると明日も一日連れ出されることを考えて、宿題だけでなく予習も進めておくべきかもしれない。そんなことを考えながら、勉強机へと向かった。
結局、数学と現国の宿題と、それから月曜日の英語の予習をしたところでタイムアップとなった。これ以上、家を出るのが遅れれば待ち合わせ時間に間に合わない。
「ちょっと出かけてくる」
リビングにいる両親に声を掛けると、蒼志は自宅を出た。
住宅街を自転車で抜け、市役所方面へと真っ直ぐに走る。市役所前の交差点で信号に引っかかった時、ポケットの中でスマートフォンが震えたのに気付いた。確認をすると、どうやら杏珠からメッセージが届いたようだった。
「『遅い!』って、まだ待ち合わせ時間の十五分も前だぞ」
時計が表示している時間は九時四十五分。信号に引っかかり続けたとしても五分前には余裕で待ち合わせ場所に着ける算段だった。だが、ゴタゴタ言ったところで到着してるものは仕方がない。『あと五分で着く。ごめん』とだけメッセージを送ると、青に変わった横断歩道を自転車で渡った。そのあとはタイミング良く信号に引っかからずに駅へと到着することができた。グリーンプラザ裏の穴場な自転車置き場に自転車をはめ込むと、駅へと向かう。エスカレーター横の階段を駆け上がると、高槻市のゆるキャラ『はにたん』の像の横に杏珠はいた。薄い水色のワンピースにカーディガンを羽織り、ポシェットを斜めがけにしている杏珠は周りの目を引いていた。全員が一律に同じ制服を着て学校にいると気付かないけれど、ああやって立っていると杏珠は可愛い部類に入る、のだと思う。今まで気付かなかったのか、と思われそうだけれど、制服を着ていたから、というだけではなく――。
「あー! 蒼志君! 遅いよ、やっときた!」
口を開けばああなのだ。可愛いとか可愛くないとかそれ以前の問題で、蒼志にとって杏珠はうるさくてお節介なクラスメイトでしかないのだ。
「さっきメッセージ送っただろ。あと五分で着くって。だいたい、杏珠が言った待ち合わせ時間まであと十分もあるんだ。早く着いた方だと思うんだけど」
「まあそうだけど、そこはほらデートで女の子を待たせちゃダメでしょ?」
「誰がデートだ。部活の課外、だろ?」
「デートだよ?」
まるで今日の天気を聞かれて「晴れだよ?」と快晴の空を見上げて言うぐらい当たり前のように杏珠は言う。だよ、と言われてもそんなつもりはない、が。
「あっそ。んじゃ、さっさと行こうか」
事もなげに杏珠の手を取り歩き出すことができるぐらいには、蒼志の感情は薄れていた。杏珠は少し驚いたような表情を浮かべたあと、小さく笑った。
「手、汗掻いてるけど?」
「……うるさい」
「本当は緊張してたりする?」
「……そういう杏珠こそ、さっきからこっちを見ないけど実は緊張してるんじゃないのか?」
蒼志の言葉に、杏珠は一瞬足を止めた。そしてぎこちなく蒼志を見上げると、照れたような笑みを浮かべた。
「えへへ、バレたか」
「……っ」
その表情が妙に可愛く見えて、思わず視線を逸らしてしまう。わかっていてやっているんじゃないかと疑いたくなるような、恥ずかしそうな照れ笑い。少しだけ鼓動が早くなったのを悟られないように蒼志は小さく息を吐いてから尋ねた。
「んで、今日は何処に行くんだ? 高槻駅で待ち合わせってことは西武……じゃなかった、阪急? それともアルプラザ?」
駅直結の百貨店とショッピングセンターの名前を挙げる。ちなみに、JRから直結なのに阪急百貨店、という謎の造りなのだが、数年前までこの百貨店は西武だったという地元民にとっても謎の仕様だ。買収やらなんやらあったらしいが、慣れ親しんだ『西武』の名前がつい出てしまうのは、その名前に愛着がある。と、いうだけではなく外観は看板が変わった以外ほぼ変わらず、中身も若干の入れ替えがあったとはいえ殆ど同じなのだ。間違えて呼んでしまっても仕方がないと許して欲しい。
そんな蒼志の問いかけに、杏珠はニッと笑った。
「ぶっぶー。そんなところに言っても写真なんて撮れないでしょ?」
「そんなところって、その言い方はどうなんだ」
「えー、だってどっちもデートって感じじゃないでしょ。せっかく駅まで来たんだからここは電車に乗ってお出かけしましょ」
「どこに」
「京都水族館」
ポシェットを開けて取り出したのは優待券と書かれた京都水族館のチケットだった。蒼志の分も含めて二枚用意されていた。
「お母さんから貰ったんだけど、期限が明日までなの。今日行くのと明日行くのだったらどっちがいい?」
「今日」
どっち、と聞かれなくてもここまで来ておいて「じゃあ明日で」とは言わない。何よりもここで明日と言えば「じゃあ今日は別のところに行こうか」となるのは目に見えている。それよりは、今日水族館を終わらせて明日は予習の続きに当てる方がいい。
「ふふ、なんだかんだで蒼志君も水族館楽しみなんでしょ」
「楽しみ、なんて感情はもうないよ」
「えー、でもさ心なしか表情が柔らかいよ?」
「は?」
言われて空いてる方の手で顔を押さえるが、柔らかい、の意味がわからない。一体今、自分はどんな表情をしているのか。ほんの少し気にはなったけれど、まあ別にどうでもよかった。
「気のせいじゃないか?」
「そうかなー? 絶対楽しそうだと思ったんだけどなー」
それ以上、杏珠も掘り下げることはなく、二人揃って切符を買うと改札へと向かった。ちなみにデート、ということもあり蒼志が二人分の切符を買った。そうしてほしいと言われたわけではなかったが、優待券を貰ったのだからこれぐらいは、と思ったのだ。
「わ、ありがとう。へえ、蒼志君以外とこういうの手慣れてるね?」
「んなことはない」
「そう? でも、蒼志君。モテるでしょ」
「……モテてたら、これが初デートとか言わないよ」
男女何人かで海に行った、とか男子二人女子二人でカラオケに行った、というのはデートには入らないだろう。入ったとしても何か言われるのも面倒なので全てデートではなかったことにしておかせてもらおう。
初デート、という響きにどこか居心地の悪さを覚えつつも、どうせ揶揄ってくるのだろうと思った杏珠が黙ったままなことに気付いた。
「杏珠?」
「……うん」
「顔、赤いけど」
蒼志の指摘に、杏珠は足を止めた。ちょうどホームに着いたところで、電車はどうやら新快速野洲行きが五分後に来るらしい。電光掲示板に表示された時刻を確認していると、「だって……」と蚊の鳴くような声が隣から聞こえそちらを向いた。
「杏珠?」
「や、だって! 蒼志君が思ってもみなかったこと言うから! え、あの、私が、初デートなの? ホントに? わ、え、えー。どうしよ、それならもっとなんかこう」
頬を通り越して耳まで赤くなった杏珠は、空いている右手だけでは足らず繋いでいる方の左手までわたわたと動かしている。こんなにもわかりやすく動揺する人がいるのかと思うと興味深くマジマジと見てしまう。
「……見すぎだよ、蒼志君」
「あまりにも動揺してるからつい」
「動揺するでしょ、そりゃ」
そんなものか、と思いつつも高二で初デート、というのは確かに遅いのかも知れないなと思う。心失病に罹っていなければきっと蒼志も周りと比べて焦ったり、悩んだりもしたのかもしれない。だが、発症したのが多感な時期に入る前の中一の夏なのだ。つい数か月前までランドセルを背負って走っていた蒼志にそんなことを考える時間はなかった。
「……ちなみに私も――」
「え?」
ちょうどホームに入ってきた電車の音で杏珠の声がかき消される。
「今、なんて言った?」
「……何も言ってないよ!」
開いた電車のドアから中に入りながら蒼志は問いかけるが、杏珠は頑なに口を開こうとはしない。
「『私も――』の続き、なんて言ったの?」
「そ、そこまで聞こえてたらわかるでしょ!」
「や、俺そういう心の機微とかよくわかんなくて」
「バカ!」
ちょうど一席だけ空いていた席に杏珠を座らせると、その向かいに蒼志は立った。「わかってるくせに……」とブツブツ言い続ける杏珠が妙に可愛くて、思わず口角が上がりそうになる。
……杏珠と一緒にいると、失ったはずの感情が、もう僅かしか残っていないはずの感情が、妙に呼び起こされる気がするのは、どうしてだろう。
不思議な気持ちを抱えてたまま、蒼志は流れゆく景色を見つめ続けた。
高槻から京都水族館まではJRを使って二十分ほどで最寄り駅である梅小路京都西駅まで着いた。あまり電車で来ることはなく、遠足でバスを使って来たのが最後かも知れない。
「久しぶりに来たよ」
「ホント? 私、三ヶ月前にも来たよ」
「え、何しに? デート?」
「バカ! ……イルカ見たくて来ただけだよ」
先程の話をぶり返す蒼志の肩を軽く叩くと杏珠は言う。イルカショーを見たくてわざわざここまで来るなんて余程イルカが好きなんだな、なんて思いながら、駅からの道のりを杏珠と並んで歩く。
「そんなにイルカショーが好きなら今日も見る?」
「うーん、どうしようかな」
わざわざ見に来たと言っていたわりには乗り気ではなさそうな杏珠の声。まあ気分が乗らない日もあるだろう。水族館に来たからと言って、イルカショーを必ず見なければならないわけではない。
「休日だから混んでるかもだしね」
「まあ、確かに」
それ以上は聞いて欲しくない、という雰囲気を感じた。楽しい、と思っているのもわかりやすいがこういうネガティブな感情がわかりやすいのも色々な感情が薄れてしまっている蒼志には有り難かった。
「まあイルカは置いておいてペンギンとか魚見ようよ。大きな水槽の前でジッと魚見てると気持ちが落ち着くよ」
「へえ、それは楽しみだ」
楽しみなんて感情はもうほぼないに等しいのに、何故か口からはすんなりと感情を表す言葉が出てくる。自分が本当にそう思っているのかはわからない。ただ、今までのその時どういう言葉を言えばいいか経験上わかっていて口から出た言葉、ではなく思わず口からついて出た言葉に、蒼志自身も意外な気分だった。
受付で優待券を出すと、海の生き物の写真がプリントされた入場券を手渡された。
「あ、いいなー。ペンギンだ! 可愛いー!」
蒼志が手に持ったチケットを覗き込みながら、杏珠は羨ましそうな声を上げた。
「杏珠は何だったの?」
「イワシ……」
差し出されたチケットには確かにイワシの群れの写真がプリントされていた。可愛いかどうか、と言われば微妙だろう。
少し考えたあと、蒼志は杏珠が手に持ったチケットを取った。
「え?」
そして戸惑う杏珠の手に自分のチケットを握らせる。
「え、待って。蒼志君?」
後ろから呼びかける杏珠の声を無視すると、そのまま真っ直ぐ入場ゲートへと向かった。慌てて杏珠が着いてくるけれど、気付かないフリをして入場ゲートに立つ女性へとチケットを差し出した。
「楽しんできて下さいね」
にこやかに言う女性に頭を下げると、チケットを受け取り中へと進む。入り口近くに展示されている川辺の生き物を見ていると、ようやく杏珠が追いついてきた。
「あの、これ」
「持っててよ。それで入場したのは杏珠なんだから」
「でも、蒼志君の……」
「俺のはこっち。なんならそこの入場ゲートのお姉さんに聞いてみる?」
蒼志の言葉に、杏珠はようやく観念したようにふにゃっとした笑みを浮かべた。
「ありがと」
「別に。俺、イワシ好きだし」
「そうなの?」
「イワシの梅煮とか美味いよ」
「……なんか、想像してた答えと違う」
もうっと頬を膨らませ、それからもう一度「ありがとう」と杏珠は呟いた。
久しぶりに来た水族館は思ったよりも楽しかった。海の生き物だけでなく、この辺りの川辺に住んでいる魚や深海の生き物など色々な魚たちがいた。そしてなにより。
「これ……いいな」
「でしょ」
杏珠の言っていた通り、大水槽はかなりの迫力だった。以前来たときはこんなにも惹かれる場所だとは思いもしなかった。少し離れたところにあるソファーに杏珠と二人並んで座り、ボーッと大水槽を見つめる。海とは違う、それでも広い水槽の中でたくさんの魚たちが泳いでいる。非現実的な青さに吸い込まれていくようで、ただひたすらこの場所で大水槽を見つめていたいとさえ思わされるほどだった。
「そろそろ、次に行く?」
杏珠がそう声をかけてきたのは、ソファーに座って十五分以上経ってからだった。ボーッと大水槽を見つめていた蒼志は一瞬反応が遅れて、杏珠に小さく笑われた。
「もう少し見てる?」
「あ、いや。うん、大丈夫。次に行こうか」
杏珠が差し出した手を取ると、次のコーナーへと向かう。杏珠が見たがっていたペンギンのコーナーを越え、やがてイルカショーのステージがある場所へとやってきた。隣を歩く杏珠をこっそりと見ると、何でもないフリをしているが少し表情が硬いことに気付いた。
「……あーあ、イルカショー凄く混んでるな」
「え?」
「これは見に行ってもたいして見られないし、つまらないだろうな。ってことで、パスしてもいい?」
蒼志の中に残る、なけなしの感情を必死に集めた――棒演技だった。杏珠は一瞬、ぽかんと口を開けて、それからふふっと笑った。
「蒼志君、演技下手くそすぎない?」
「……うるさい」
「でも、ありがとね」
「別に。混んでるのが嫌なだけだよ」
ジーンズのポケットに手を突っ込むと、蒼志は興味ないといった表情でイルカショーの場所を通り過ぎた。順路通りに外に出ると『今日の里山』と書かれた京都の原風景のような場所には、小さな子供達が足を浸けて遊ぶことのできる小川のようなスペースもあった。そこに置かれていたベンチに座ると、杏珠は「あのね」と口を開いた。
「前に、ここに一人で来たときね、おばあちゃんが余命半年だって言われたときだったの」
「……そうか」
「心に負荷が大きすぎて、大水槽の前では泣いちゃいそうだった。だからイルカショーをずっと見てたの。何回も何回も。歓声が上がってイルカが宙を舞う間だけは全部忘れられる気がしたんだよね」
杏珠はベンチに手をかけ顔を上げる。まるでそうしないと、涙が零れてしまうと言わんばかりに。
その時の思いがイルカショーに紐付いてしまっているのかもしれない、と蒼志は思う。だからこそ、イルカショーを見ることを心が拒んでしまうのだと。
こういうとき何と言えばいいのだろう。感情がもっときちんとあれば、寄り添うような言葉をかけることができるのだろうか。そんなことも蒼志にはもうわからない。そもそも記憶の中をどれだけ探したとしても、気持ちが沈んでいる女子、それも祖母の余命宣告を受けたというかなり重い状況で、何を言えばいいかなんて見つからない気がする。
結局、蒼志にできるのは隣に座っているだけだった。どれぐらいの時間が経っただろう。目の前の人工的に作られた小川で遊んでいた小さな子供が「そろそろ帰ろうか」と母親に連れられて帰って行く。
隣の杏珠に視線をやると、無言のまま水面を見つめている。それは水面を見ているようでいて瞳には映っていないように思える。蒼志はおもむろにポケットからスマートフォンを取り出すと杏珠に向けた。
カシャッという音が響き、驚いたように杏珠が蒼志の方を向いた。
「今、撮った?」
「……今日の一枚、まだだったからな」
「えー、言ってくれれば可愛い笑顔作ったのに。ねえ、もう一回撮ってよ」
「やだよ。一日一枚だろ?」
杏珠が取り上げようと手を伸ばしてくるが、それよりも先に蒼志は立ち上がりスマートフォンをポケットへと入れた。まだ不服そうにしていたけれど、さすがに蒼志のポケットに手を伸ばすことはしてこなかった。
立ち上がったついでに伸びをする。このあとどうするべきだろうか。デートだと言っていたから水族館も見終わったし帰るか。というのはさすがに怒るだろうか。かといって、二人で本当にデートをするような関係でもない。ついこの間まで、同じクラスというだけでろくに会話をしたこともなかったのだから。
不自然にならない程度にまだベンチに座る杏珠に視線を向ける。先程とは対象的に何が楽しいのか笑顔を浮かべている。
「……っ」
前を向いていた杏珠が、突然こちらを向いた。反射的に目を背けたが、それが余計に杏珠を見つめていたことを杏珠に知らしめてしまう。
「えっち」
「なっ」
「今、私のこと見てたでしょ? えっちな目で」
「見てない」
少なくともそんな邪な思いでなんて見ていないことは確かだ。ただ楽しそうにしているから少し安心しただけで、別に胸の膨らみがどうとか今日着ている服が制服よりも似合っているとかそんなことを考えたりは――。
「『そんな感情はもうない』でしょ?」
「え?」
「あれ? 違う? いつもならそう言うなって思ったんだけど」
「あ、いや。まあ、うん。そうだよ。俺にはもうそんな感情、ないからね」
蒼志が頬を掻きながら言うと、杏珠はホッとしたように笑った。
「よかったー、これでそんなこと考えてなかったとか言われたら、私がただの嫌な奴じゃんね」
「そんなこと考えてなかった」
「もう遅いですー」
いたずらっぽく笑うと、杏珠も立ち上がった。「行こうか」と言って歩き出す杏珠の後ろを蒼志もついていく。
『そんな感情はもうない』それはいつも蒼志が杏珠に言ってきた言葉だ。この数日だけでも何度も言った。正確にはもうないわけではないが。正直、都合のいい言葉として使っていることは否めない。それを見透かされたようで居心地が悪かった。
土産物屋を少し覗き、二人は水族館をあとにした。そのまま帰る、訳はなく。水族館を出てすぐのところにあるコンビニへと杏珠は入っていく。どうやらここで昼ご飯を調達するようだった。おにぎりや弁当が置かれた棚の前に立つ杏珠の横に並んだ。
「ねえ、おにぎりって何が好き?」
「好――」
「あ、訂正。何が好きだった? 感情を失う前は」
したり顔で笑う杏珠に舌打ちしたい気分になりながらも、蒼志は目の前の棚からツナマヨと書かれたおにぎりを手に取る。
「えー、ツナマヨ?」
「何、嫌いなの?」
眉をひそめ、あまりにも嫌そういう言うから、つい尋ねてしまう。杏珠は明太子のおにぎりを手に持ったカゴに入れながら首を振った。
「嫌いっていうか、ご飯にマヨネーズを和えるのがダメ。だってマヨネーズだよ?」
「食べたことは?」
「ない」
「食べず嫌いって子供じゃん」
せめて食べてから言えよ、と続けながら蒼志はあと二つほどおにぎりを入れた。ちなみに具材は梅と辛子高菜。杏珠も鮭のおにぎりを追加で入れながら「えー」と口を尖らせた。
「でもさ、なんかあるじゃん。どうしてもこれは無理! みたいなの。蒼志君はない?」
杏珠の質問に少し考えると、蒼志は口を開いた。
「ししゃも」
「え?」
「だから、ししゃも。それも子持ちのやつ」
「ししゃも美味しいじゃん」
そんなのは蒼志だってわかっている。現に子持ちではないししゃもは食べられるし好きなのだ。
「卵のあの……プチプチした感じが……」
「食べたの?」
「口にすら入れたくない」
「私と一緒じゃん」
「……まあ、そうかも」
蒼志は言葉に詰まる。人のことを言えないのだから自分も言うべきではなかったのかもしれない。ただニヤニヤと隣で笑う杏珠が妙に腹立たしくて、その手からカゴを奪うとレジへと向かう。
「あれ? 蒼志君、出してくれるの?」
「バーカ、割り勘だ」
「ちぇー。あ、待って。私、飲みものも買いたい」
おにぎりの棚の横にある温かい飲みもののコーナーから杏珠はホットのミルクティを取る。蒼志もついでにホットのお茶を入れた。
「おにぎり食べながらミルクティ飲むの?」
「意外と合うよ」
「えー。あ、いやでも小中の頃の給食はご飯に牛乳がついてたし合わないこともないのか……?」
ブツブツと呟く蒼志を杏珠は笑った。
「人の好みなんてそれぞれだよ」
「ん?」
「私が美味しいって思ったものを不味いって思う人もいるだろうし、逆に誰かが好きなものを私が嫌いだったりすることもある。そんなことにいちいち突っかかってたら誰かと一緒になんていられないし疲れちゃうよ」
杏珠の言うとおりかもしれない。多様性が叫ばれる今の世の中、好き嫌いなんてほんの些細なことに過ぎない。
そうだな、と返事をしながら今度こそレジへと向かった。支払いを分けてそれぞれで会計をすると、京都水族館前に広がる梅小路公園へと向かった。
「レジャーシート持ってきたらよかったなー」
「まあ、芝生だから大丈夫だろ」
スカート姿の杏珠はそのまま座ることに抵抗があったようだが、蒼志が芝生の上にあぐらをかいて座ると、諦めたように隣に座る。
「こういうとき、少女漫画じゃ彼氏がハンカチとか敷いてくれるんだけどなー」
「生憎と俺は彼氏じゃないし、そもそも現実の男子高校生にそんなことを期待しないでくれ。そんなことできるのは漫画とかドラマの中の男子だけだから」
男子高校生に『ハンカチを持ってますか?』とアンケートを採ったとして一体何割が持っていると答えるのだろう。蒼志は自信を持って持っていないと答えられる。
「まあそうだけどー。もし次の機会があればハンカチ持ってくることを私は強く希望します!」
「自分で持ってくるって選択肢はないのかよ」
「そんなことしたらお手洗いのあと手を洗ったら拭けなくなっちゃうじゃん」
「俺が拭けなくなる分にはいいの?」
「普段から持ってないってことは洗ったあと拭いてないってことでしょ?」
まあその通りなのだけれど。手を洗って、だいたい水しぶきを払って終わりだ。ジーンズで拭かなくなっただけ大人になったと思う。
「男子ってそういうところホント男子だよね」
「まあ男子だからな」
呆れるように言う杏珠の視線から逃げるように、蒼志は買ってきたおにぎりを出した。「私のも取って」という杏珠に明太子のおにぎりを手渡し、自分はツナマヨを手に取った。フィルムを剥がして齧り付く。マヨネーズの風味とツナの合わさった味が口の中に広がる。
おにぎりを食べる蒼志の顔を杏珠がジッと見つめてくる。まるで奇怪なものでも見るかのように。最初こそ無視していたけれど、二口目を頬張ろうとしたタイミングで諦めて杏珠の方を向いた。
「何」
「え?」
「え? じゃ、なくて。さっきからずっと見てるけど何?」
「バレてた?」
「や、そんだけ見てればバレるでしょ」
むしろあれでどうしてバレていないと思えたのか。ごまかそうとするかのように笑う杏珠にもう一度「何?」と蒼志は尋ねた。あれだけ見ていたのだ。何もないとは言わせない。
「美味しそうに食べてるけど美味しいのかなって」
「まあ美味しいから食べてるんだけどね」
「蒼志君が食べてるのを見てたら私も食べられる気がしてきた」
「そりゃどうも。今から行って買ってくる? 棚にまだ並んでたと思うし」
蒼志の提案に「一個食べきれるかどうか……」と不安そうな表情を浮かべたあと、何かを思いついたかのようにニッと笑った。凄く、嫌な予感がする。
「一口ちょうだ――」
「いやだ」
「そんな即答しなくても。ほら、一口食べて食べられたら次から買う。無理だったらやっぱり無理だなってわかるじゃん」
「いや、だからってなんで俺がそんなこと」
「なに? 照れてるの?」
「んなわけないだろ! 別におにぎりを食べさせるぐらいなんてこと……あ」
後悔先に立たず。いや、この場合は覆水盆に返らず、の方が正しいだろうか。反射的に言い返した蒼志の言葉に、杏珠はニンマリと先程よりも悪い笑みを浮かべた。しまったと思ったときにはもう遅い。おにぎりを持つ蒼志の手を握ると「食べていい?」と杏珠は上目遣いで尋ねた。駄目だ、なんて言われないとわかっている顔で。
「いいから、俺の手を持つな」
「えー、じゃあ食べさせてくれるの?」
「なんでだよ。ほら、一口食べて返してくれればいいから」
蒼志は反対の手で自分の右手を掴む杏珠の手を引き剥がすと、その手におにぎりを載せた。杏珠は「食べさせてくれないの?」とか「やっぱり照れてるんじゃん」とかからかうように言っていたが蒼志は聞こえないフリをして買ったお茶を手に取った。
杏珠はツナマヨのおにぎりを上から、斜めから、横からと色々な角度から見ている。ようやく決意を固めたのか、小さな口を開けておにぎりに齧り付こうとした。そんな杏珠を見ていると、どこか意地悪な気持ちがわき上がってくる。まだこんな感情残っていたのかと自分でも驚くけれど、まあいい。
「なあ」
「え?」
あと数センチでおにぎりが口に入る、というタイミングで蒼志は杏珠に言った。
「それ、間接キスだな」
「……へ? ……は、なっ!」
人間の表情というのはこんなにもわかりやすく変化するものなのか、と感心するほど杏珠の表情はコロコロと変わる。感情が殆どなくなった蒼志とは対象的に、杏珠は表情に、声色に感情が表れる。その表情が、何故か蒼志の感情まで呼び起こす。もうとっくに枯れ果てたと思っていたのに。
口角が上がりそうになるのを抑えると、蒼志は淡々とした口調で尋ねた。
「食べないの?」
「……食べるよ!」
あまり強く握りすぎないでほしい。蒼志が食べた部分からツナマヨがにゅっと出てきてしまっている。
杏珠は二度三度と目を瞬かせたあと、おにぎりに齧り付いた。目を閉じて咀嚼する。ツナマヨもこんな覚悟を決めて食べられることもなかなかないだろうな、なんて思っているとおにぎりを突き返された。
「ありがとう」
「どうだった?」
「……悪く、なかった」
素直に美味しかったと言えないのか、はたまた本当は苦手だったけれど蒼志に言うのを憚られて悪くなかったという表現を使ったのかはわからない。わからないけれど、どちらでもよかった。戻ってきたおにぎりを蒼志は当たり前のように口に運んだ。
「……ねえ」
「ん?」
一口食べた蒼志に、杏珠は仕返しとばかりに言った。
「間接キス、だよ」
吹き出しそうになるのを必死に堪えると、何食わぬ顔でお茶を飲み干す。美味しいはずのツナマヨは何故か上手く味を感じることができなかった。
昼ご飯を食べ終わり、このあとどうするかという話になった。京都駅に戻ったところでウインドウショッピングぐらいしかすることがない。せめて河原町の方であれば色々な店もあるけれど、京都駅に入っている店は高校生には少し背伸びしなければいけないような店が多かった。
と、いうか今日の目的が水族館であればこのまま駅に戻って解散でいいのではないだろうか。部活の課外活動だというのであれば蒼志の方は今日の写真を撮り終えている。
スカートへの恥じらいはどこへいったのか、隣で芝生に寝転がる杏珠にそう言うと「えー」と不服そうに返された。
「せっかく京都まで来たのに水族館だけで帰るの?」
「水族館が目的なんだからそりゃそうだろ」
「でも、ほら京都といえば観光地だし! そういうのは? あ、春だから桜もいいよね!」
「寺、見たいの? それに桜はとっくに散っただろ」
「……たしかに」
他の地域は知らないが、近年の関西では三月下旬に満開になった桜は入学式を待たずに散る。例に漏れず、今年も四月の第一週が終わる頃には高校近くの公園の桜は全て葉桜となっていた。
一か月、いや一ヶ月半早ければ桜が咲いていただろうけれど、それもまあ別に何が楽しいのやらという感じだ。桜が見たければ公園に行けばいい。わざわざ人の多い京都まで来る意味がわからない。
ただ来年の今頃はもう蒼志は生きていないわけで。そう思うと、一度ぐらい見に行っておいてもよかったのかもしれない。まあ、もう今さら言ったところで仕方ないのだけれど。
なんとなく蒼志も杏珠の隣に寝転がる。五月もそろそろ下旬だが、空はすでに夏のように晴れ渡っている。今年は暖かくなるのが早かったが、夏の訪れも早いのかも知れない。
あと三ヶ月。夏休みで皆がはしゃいでいる頃、蒼志の寿命は尽きる。三年以内、と言われてから早かったような意外ともったような不思議な感覚だ。
「桜かぁ」
「ん?」
「今年、見に行きそびれちゃったんだよね。バタバタしてたし」
三ヶ月前に祖母が余命半年と宣告されたと言っていたのを思い出す。それであれば今年は桜を見るどころではなかっただろう。
「来年、見に行けばいいだろ?」
蒼志と違って、杏珠には来年がある。もしかしたら祖母が亡くなっていて、とてもじゃないがそんな気分にはなれないかもしれない。だが、それならその翌年がある。塞いだ気持ちもきっといつかは晴れる。目の前に広がるこの青空のように。
未来のない蒼志とは違って、杏珠には来年も再来年も桜を見ることができるのだ。
「――でも」
「ん?」
杏珠の声に視線を向ける。杏珠は蒼志を見ることなく、青空を見つめ続けていた。
「一緒には行けないじゃん」
誰と、とは言わない。だから蒼志も誰と、とは聞かない。
「……まあ、そうだな」
「そうだよ」
青空を横切るように真っ白な飛行機雲が線を描く。まるで晴れ渡る未来などないのだと、蒼志達に告げるかのように。
結局、どこに行くこともなく蒼志と杏珠は高槻駅まで戻ってきた。行きとは違い、なんとなく重い思いを胸の奥に感じたまま。
自転車で来た蒼志とは違い、杏珠は親に車で迎えに来てもらうそうだ。「宝くじ売り場のところまで来てくれるの」という杏珠に「みんな絶対そこだよな」と蒼志が言うと少しだけ空気が和らいだ気がした。
「それじゃあ、また明日ね」
「は?」
聞き間違いだろうか。当たり前のように発せられたその言葉に、蒼志は思わず聞き返す。
「今、なんて言った?」
「また明日って。聞こえなかった?」
「や、聞こえたけど。聞こえたから聞き返してるんだけど。いや、明日って日曜日だよ? なんでさも当たり前に部活するつもりでいるの?」
「毎日写真撮るんだから明日も撮らなきゃでしょ?」
そんな『朝ご飯は毎日食べるでしょ?』みたいな空気を出されても。嫌だ、と思うわけではないが大手を振っていきたいかと言われるとそういう訳でもない。
「ちなみに明日はどこに行く予定なの」
人通りの多い改札前、蒼志達を避けていく人達が舌打ちするのが聞こえ慌てて端による。旅行のパンフレットが置かれているのが見えて『春の京都』『大阪からも行きやすい和歌山』『やっぱり琵琶湖が一番』という文字に気付かずにいてくれと祈る。さすがにそんなところまで付き合ってやる義理はない。
「んーとね」
手に持ったスマートフォンを見せ、スワイプでページを遷移させる。
「動物園と映画ならどっちがいい?」
表示されていたのは京都市動物園とアルプラザの映画の上映情報だった。また京都まで行くことを考えると、高槻市内にあるアルプラザに行く方が絶対に楽だ。例え、見せられた一覧に興味を引くような映画がやっていなかったとしても。
「映画」
「まあ蒼志君ならそういうかなって思ってた。じゃあ、どれ見たい?」
「そういう杏珠は? 見たい映画があるんじゃないのか?」
「うーん、そうだねー」
どちらがいい? と、選択肢に入れていたわりには特に見たいものがあったわけではないようで、暫くスワイプを続ける。ようやく「これかな」と見せて来たものは地球滅亡を救うヒーローのお話だった。こういうのを選ぶのか、と少し意外に思う。
「今、私がこれ選ぶの意外だなって思ったでしょ」
「まあね。どっちかっていうとこういうのの方が女子って好きそうだから」
スマートフォンの画面を指先で操作すると、流行りの恋愛映画の画面で指を止めた。余命幾ばくもない少年がヒロインの少女と出会って生きたいと思いながらも病気に抗うことはできず命を落とす。わかりやすいお涙頂戴だが、すでに見てきたというクラスメイトの女子達が声を揃えて「めっちゃ泣けた!」と言っていたので女子受けはいいようだ。
てっきり杏珠も好きだと思ったのだが。
「現実で辛いことがたくさんあるのに映画見てまで泣きたくないなって。それだったら地球滅亡からみんなを救うヒーローの話の方がスッキリしそうでしょ?」
「守り切れず滅亡するかもしれないぞ?」
「それはそれでスッキリするかも」
「どういうことだよ」
物騒な言葉におかしくなる。感情が面に出るわけではない。だが、自分の気持ちがちゃんと揺れ動いていることが意外だった。
「ま、俺特に今見たいのないからそれでいいよ」
「ホント? やった。じゃあ、座席だけ押さえちゃうね。チケットは明日引き換えだから、そうだなー。10時半開演だから10時にあそこのはにたん前集合ね」
あそこと言われ指差された場所には、朝と同じ格好で立つはにたんの像があった。結局、明日もまたあの場所で待ち合わせをしなければならないことに決まってしまった。
明日は予習に費やすつもりだったが、仕方がない。このあと帰ってから明日やる予定の分を少しして、残りは明日の朝、いつもの時間よりも一時間早く起きてしよう。
「じゃあ、明日の予定も決まったことだし帰ろうか」
さっさと歩き出す杏珠の後ろをついていく。
宝くじ売り場の入っているグリーンプラザ、その裏にある自転車置き場に自転車を止めた蒼志は、エスカレーターを降り杏珠と並んで歩く。そういえば親が迎えに来ると言っていたが、今日の水族館のチケットのお礼を言うべきなのでは、と考えていると杏珠は振り返った。
「じゃあね!」
「え?」
蒼志が何か言うよりも早く杏珠は駆けていく。その姿にあっけにとられていたが、小さくため息を吐いて杏珠が向かったのとは違う方向から自転車置き場へと向かった。
振り回されているな、と思うが別にどうでもいい。機械を操作してお金を支払うと自転車を取り出して帰り道を走る。
途中、脇道から飛び出してきた車に轢かれそうになり思いっきりクラクションを鳴らされた。そっちの不注意だろ、と怒るところなのかもしれないけれどどうでもよかった。
杏珠と一緒にいたときはわずかにあった感情の起伏が一人になると平坦に戻ってしまっていることに、まだ蒼志は気付かずにいた。
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