あのにます

【1話・鏡の世界の交差点(前編)】/あのにます

当作品「あのにます」は、「ゆびきたす」の続編として2016年~2017年に連載されていたものです。


当時公開されていた本文の一部に加筆修正を行っています。(2022.04)


 私が彼女の手首を掴んだ時、それがあまりにも細いので、指の隙間からすり抜けていってしまいそうで。


 だから咄嗟に指先に力を込めた。


 それでも彼女の白い肌が、まるで絹の様であったから。手の隙間から簡単に滑りぬけていった。


 当の彼女は、驚いて私の方を振り向いた。


 そして私はその時初めて彼女の顔を真正面から、そして間近で見たのだ。


 長い黒髪の少女だった。


 街灯の光を受けて輝きを返す細く艶やかな髪。


 切り揃えられた前髪から覗く円らな瞳は、所在無さげに私の顔を見つめ返した。


 その視線が細かく揺れて、不安そうな心情が見て取れた。


 中学生位であろうか。柔らかな曲線を描く頬にそれくらいの幼さを感じる。


 決して成熟していない、その年齢らしい不安定な肉付き。小さく整った鼻筋や大きな瞳は、まるで人形を思わせる。陶磁器で作られているかのようだった。


 だからか、彼女に掛ける言葉を、その手を掴もうとした時の言葉を見失ってしまう。


 そんな私の顔、おそらく酷く間の抜けていたであろう、を見て少女は私より先に口を開いた。


 私の顔をまじまじと見つめて、大きく開いた目と口で彼女はこう言った。


「私、あなたのファンです」






 ♦あのにます♦






 十月半ば、夜の空気は夏の名残を無くしつつある。夏の風はあんなにも重たく、まとわりつくようだったのに、いつしか心地の良い冷たい秋の風に変わっていた。


 駅前の喧騒が追い立てられるように何処かへ消えていく。足早に流れていった人だかりが、終電から降りてきた乗客達である私は遅れて気が付いた。彼らが帰路を急ぐのに得心が行く。


 私、「秋穂戸 杏-あいおと あんず-」は随分と長い間、駅前のベンチに腰掛けてしまっていた。


 少し酔いを醒ますつもりだったのだが、気付けば随分と長居してしまった。


 立ち上がろうとすると、こめかみの辺りが痛む。大学のゼミの飲み会で、慣れない日本酒を呑み過ぎたせいだろう。


 これはまだしばらく動けそうにない。


 もう少しだけ、と私はベンチに腰掛け直す。


 気を紛らわそうとスマートフォンで「Twitter」のアプリを開く。


 「呟き」と呼ばれる短文をユーザー同士が投稿し合う交流ツール、所謂SNSである。取り留めない話題や会話の羅列を流し読みしている中、画面を撫でる指先を止める。


 とある一人のユーザーの「呟き」だった。


 ネット上で活動をしていた「アオト」というアマチュア歌手の活動再開を望む内容であった。


 二行足らずの短い書き込み。次の呟きでは、もう別の歌手についての話題に変わっている。


 そのユーザーについて、私は詳しく知らない。過去の発話履歴を眺めていても今まで、その「アオト」という歌手についてそのユーザーが語っていたことも無かった。


 ただ、取り留め無い話題の一つでしかないのだろう。


 私は指先を滑らしてアプリを閉じる。急に、酔いが醒めた気がして顔を上げた。


 疎らになってきた駅前の人混みの中で、一人の少女の姿が目に付いた。


 彼女は周囲を見渡しては俯き、そしてまた周囲に落ち着きなく視線を向けている。人を探している様子に見えた。こんな時間に誰かと待ち合わせているのだろうか、と訝しむ。


 彼女が未成年、というよりも中学生くらいに見えたのが気になって私は目を凝らす。


 髪留めで前髪を除けたロングヘアの小柄な少女。


 色は白く、遠目でも分かる整った目鼻立ちが目を引く。


 背の低さもあって、顔立ちはかなり幼く見えた。中学生、下手すれば小学生に見えなくもない。


 紺色のプリーツスカートに、丈が短めのトレンチコートといった出で立ちで、制服姿であるように見えた。足下はスニーカーであった。


 暫く彼女は駅の方を眺めていたが、何か意を決した様に歩き出した。


 帰るのだろうか、と私はつい彼女の事を目で追っていた。私の予想に反して、彼女はスーツを着た中年の男性に話しかけた。


 父親の帰りを待っていた、という風には見えない。その男性は少女に声をかけられるまで、彼女の事を知っているような素振りを見せなかった。


 妙な気がして、私はそれを眺めていた。少し話し込んでいた少女と男性であったが、男性が頷いて歩き出す。


 それに少し遅れてから、付いていくようにして少女が歩き出した。


 頭痛が一層酷くなって、私は舌打ちした。目の前で起きた光景が、酷く歪なものであるような気がした。この時間帯に知り合い同士ではない少女と男性が、何処かへ向かおうとしている光景に、一つの可能性しか思い付かせなかった。


 どうしてか私はそれを追いかけるように立ち上がってしまう。


 別に見知らぬ彼女が一晩の過ちを代価にお金を得ようとも私には関係が無い。


 それを、その行為を、正論をかざして咎める程、自分が出来た人間であるとっも思っていない。


 私とは関係の無い別の世界のことで、存在を知っていても実感することはなく。それに触れる必要もなく、その世界で生きている人間に毛ほどの興味ない。


 ただ、今に限っては、「そういう」行為に酷く苛立った。まだひどく酔っている、とも思った。


 その二人が歩いていくのを追いかける。居酒屋の客引きの間をすり抜ける。


 駅前の通りを外れ、住宅街の方へ歩いていく二人の後ろ姿に私は追い付いた。


 追い付いて、それでどうすれば良いのか何も考えていなかった私はそこで立ち止まる。


 肺がアルコール混じりの荒い呼気を吐き出して、私は咳き込む。


 そこで、前を行く二人が私の事に気が付いた。


 驚いて、慌てて、そうして振り向いた二人ともが緊張した様に見えた。


 私の顔を見て慌ただしく踵を返す二人を、何と呼び止めたものかと、私は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。


 咄嗟に手首を掴んだものの、どうしていいか分からない私の目に、少女の驚いた表情が映る。


 少女は何かに気が付いた様子で、少し大きな声で言う。


「私、あなたのファンです」


 その突然の言葉が、この状況にはあまりにも不釣り合いで。


 私は何と答えたものか、と一瞬悩む。


 その言葉が、どういう意味なのかも私には判断が付かなかった。


 しかし、それよりもまず言うべき言葉があるのを思い出す。口を開けば、思ったより大きな声がアルコール混じりに出た。


「オジさん。都の条例で処罰されますよ」


 私の言葉に男性の顔は、文字通り青ざめた。私が言葉を続ける前に、彼は慌てて走りさっていく。そっちが誘ってきたんだ、と捨て台詞を吐かれた。


 追いかける気がそもそもあるわけでもなく、その背中が路地裏の影に消えるまで眺めていた。


 置き去りにされた少女はきょとんとした表情で私の顔を見ていた。


 説教の一つでも、小言の一言でも、こぼれそうになって止めた。


 この子に、何を言ってやれば良いのか分からない。


 そんな私の手を少女は握ってくる。予想外の行動に動揺していると少女は言葉を続ける。


「あの、アオトさんですよね」


 その名前を聞いて私は言葉に詰まる。


「いや、私は」


「私、アオトさんの大ファンなんです。CDも持ってます」


 私の否定の言葉を気にも留めず、彼女は興奮気味に早口で続けた。


 このタイミングで、この場所で、その名前を呼ばれるとは思っても居なかった。


 私は少し躊躇って、しかし誤魔化すことも出来そうもなく。


 彼女が私の顔と、その「アオト」という名前を知っていた偶然に動揺を隠せなかった。


 「アオト」。そのハンドルネームは私の名字を捩って名付けた。音楽活動をする為の名前だった。


 大学に入学してから三年ほど、アマチュアの歌手活動をしてきた。ネットの動画投稿サイトや即売会等で何度か作品を発表していた。大がかりなものではない。


 目の前の彼女が私を知っていることが、奇跡であると感じる程度には。


 ファンという存在に、正直喜びもした。気恥ずかしくなって、目線を逸らす。しかし、それよりも、この状況に似合う言葉を探す。


「それは、その、応援してくれて、ありがとう。いや、でも、そうじゃなくてさ。君、何しようとしていたの」


 私の言葉に、急に彼女は口を閉じ大人しくなる。


 聞くまでもないが、とも思った。黙り込んだ彼女の言葉を待つ。


 彼女の手荷物はスクールバック一つで、軽装であった。


 やはり中学生であろうか、と思った。スクールバッグにはシワも型崩れも取り付けたキーホルダーの一つもなく、綺麗に使っているのが分かる。


 スカートの丈は膝まであるし、化粧をしている様にも見えない。


 何というか、私が抱いている援助交際をしている女学生のイメージとは大きくかけ離れている気がした。


 彼女は、言い訳めいた言葉を呟く。


「泊まる所が無いんです」


「家出なら帰りなよ。家の人が心配してるよ」


 諭しながらも、これ以上の関与は厄介事を招くだろう、と思った。


 中途半端に首を突っ込んだ。一瞬の衝動による安易な行動で。


 だから、それを貫き通すだけの決意もない。私は速やかにこの場を立ち去ろうと背を向けるも、腕を強く掴まれる。


 振り返ると、思い詰めた表情で少女は言う。


「……あの、アオトさんが私の事買ってくれませんか」


「あのさ、私はさ」


「そうじゃなきゃ、泊めてくれる人をまた探しに行きます」

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