婚約者

 熱い、寒い、苦しい。

 香夜は熱に浮かされながら、何とかその苦しみに耐えていた。

 用意してもらった薬は飲んだ。あとは額を冷やしつつ熱が下がる様寝ているしかない。

(あれ? でも薬は誰が用意してくれたのだっけ? 額の手拭いも――っ)

 ふと疑問に思ったことを考えるが、頭痛に追いやられ思考は途絶えた。

 そのまま意識がはっきりしない状態で寝込んでいると、部屋に誰かが入って来る気配がした。

 その人は額の手拭いを替えると、優しく頭を撫でてくれる。

(誰だろう?)

 自分にそんな優しく接してくれる人などこの里にいただろうか?

 倒れる直前に見た燦人の優しい微笑みを思い浮かべるが、彼であるはずがない。

 大体にしてあれは夢か幻としか思えないのだ。……それに、撫でた手は女性のものだった。

(本当に、誰だろう?)

 思うが、頭痛で瞼が開けられない。その姿を見ることが叶わない。

 自分に優しくしてくれる女性などいただろうか?

(ああ、でも……)

 もっと小さい、両親が亡くなってすぐの頃。

 夜泣き疲れて眠る自分を撫でてくれた人がいた気がする。

 この手は、その人と同じような気がした……。


 三日ほど経ち、やっと熱は下がった。

 とはいえまだ咳や節々の痛みが残る。

 養母にはうつされても困るから布団から出るなと告げられた。

 ついでに、あの宴の後のことも聞かされる。

「全く、お前があのまま気を失ってしまうから燦人様は慌てるわ怒りを露わにするわ……。里の者達も騒然とするばかりでてんで使えやしないし」

 愚痴られてしまった。

 だがそんなことよりも、自分が日宮の若君である燦人の婚約者となっていることの方が驚きだった。

「とにかく燦人様はお前を選びました。今はしっかり病を治して嫁ぐ準備をなさい」

 そう告げて立ちあがろうとする養母を引き留める。

「あ、あの! 本当に私なのですか? あれは夢だったんじゃあ……」

 養母が嘘をつくとは思えないが、信じることも出来ずに聞いてしまう。

 案の定嫌そうに眉を寄せられたが、「事実ですよ」と簡潔に答えられてしまった。

「じじつ……」

 それでも信じられないでいると、襖の向こうから声が掛けられる。

「失礼、奥方どの。そろそろ良いだろうか?」

 襖越しのくぐもった状態でも分かるその声は燦人のものだ。

 内心えっ⁉ と驚く香夜だったが、こちらの様子など気にも留めず養母は彼に返事をしていた。

「はい、ようございます」

 そうして開いた襖の向こうには確かに気を失う前に近くで見た顔。

 少し申し訳なさそうな顔をしている彼は紛れもなく日宮の若君・燦人だった。

「ですが病み上がりですのでほどほどに。うつされてしまいます」

「少々話がしたいだけだ。それほど長居するつもりはない」

 そんなやり取りをした後、「失礼する」と断りの言葉を放ち燦人が部屋の中へ入って来る。後ろには炯が付き従っていた。

「では私は失礼させていただきます」

 しかも養母はそう言って出ていってしまうので、未だついていけていない香夜はどうしていいのか分からない。

「すまない、病み上がりだというのに……無理をさせるつもりはない。横になっていてくれ」

「え? いえ。そのようなこと――けほっ」

 そう咳をしてしまったのが悪かったのか、「いいから」とやや強引に寝かされてしまった。

 うつすつもりか? とでも言いそうな炯の無言の圧力が怖かったのも理由の一つだったが。

「すみません……」

 謝罪の言葉に「いや……」と声を掛け少し間を開けた燦人は、言葉を探るように話し始めた。

「その……貴女が寝ている間に里の者から貴女のことを聞いた」

 眉尻を下げ、悲しそうに揺れる目を見れば何を聞いたかは想像できる。

 呪われた子。穢れた娘。

 そんな言葉も聞いたのだろう。

(それで私のために悲しんでくれるなんて……優しい方なんだな)

 しばらく触れていなかった優しさに、僅かに心が温かくなるのを感じた。

「八年前何があったのかも……」

 そう言葉を告げられて、ああ、と力が抜ける。

 両親がいないことも聞いたのだろう。

 そして、流石に親のいない娘を嫁には出来ないと思ったのかもしれない。

 一応長が養父ではあるが、彼は自分を娘などと思ってはいないのだから。

 いいのだ。元々夢か幻かと思っていたことだ。

 ここは一思いにはっきり告げて欲しい。

 そう覚悟を決めて燦人の言葉を待っていると……。

「……辛い思いをしたね」

 労わるようにそう口にした燦人は優しく香夜の頭を撫でる。

 瞬間、凍らせ続けてきた心にある氷の壁に、ピキリとヒビが入った気がした。

「……え? あの……それだけ、ですか?」

「それだけ、とは?」

 不思議そうに聞き返される。

「その、親のいない娘など貴方のような方の妻には相応しくありません。しかも穢れた娘などと言われるような私なんて――」

 そこから先は口を開けなくなってしまった。

 燦人の指が、そっと香夜の唇を閉ざしてしまったから。

「自分を卑下する言葉を口にするものではないよ。それに私は貴女以外を妻にするつもりはない」

「え……?」

「すぐに気を失ってしまったから覚えていないのかな? 言っただろう? ずっと求めていた、と」

 言われて思い出す。

 そう言えばそんな言葉を聞いた気がする。

「八年前からずっと求めていたんだ。やっと会えた。もう離すつもりはない」

「っ⁉」

 語る燦人の瞳に確かに自分を求める熱を感じて、どうしていいか分からなくなる。

 誰かに優しくされることすらなかったというのに、異性にこのような眼差しで見つめられたことなど無い。

 心臓がドクドクと早くなって、全身が熱くなってきた。

「ん? 顔が赤くなってきたね? すまない、また熱が上がってきてしまったかな?」

 香夜の唇から指を離し、心配そうに燦人は眉を下げる。

 そんな優しい彼に心配を掛けたくなくて、香夜は戸惑いながらも口を開いた。

「い、いえ……。その、これは熱が上がったのではなくて……。殿方にそんな風に見つめられたことが無いので……その……」

 恥ずかしいのです、と最後は消え入るように口にする。

 すると燦人は黙り込んでしまった。

 呆れられてしまったのだろうかと思いそろそろと彼の表情を伺い見た香夜は、そのまま息を止めることとなる。

 その美しい顔には、困ったような、でもとても嬉しそうな笑みが浮かべられていたのだから。

 しかも何故かその目には少し意地悪そうな色も浮かんでいる。

「そうか……参ったな」

 形の良い唇が、確かな熱を込めて続きを口にした。

「そんなことを聞いては、付け入りたくなってしまうな」

「っ! っ? っ⁉」

 この方は一体何を言っているのだろう。

(付け入るって何? え? どういう意味の言葉だっけ⁉)

 もはや言葉の意味すら分からなくなってきた。

「……燦人様」

 その様子を今まで黙って見ていた炯が、するりと入り込むように言葉を発する。

「このままでは本当に熱が上がってしまわれそうです。そろそろお暇いたしましょう」

「ん? ああ、そうだね」

 炯の言葉に同意した燦人は、名残惜しそうに香夜を見ると「では、また明日様子を見に来るよ」と言い残し部屋を出て襖を閉じた。

 姿が見えなくなったことでほっと息をつく香夜だったが、襖の向こうから僅かに声が聞こえて耳をそばだてる。

「炯、困った……」

 燦人のものと思われる言葉に、やはり何か思うところがあったのではないかと心に壁を作る。

 やはり自分が婚約者では困ることがあるのだろう。

 覚悟を決めて言葉の続きを待っていると……。

「私の婚約者が思っていた以上に可愛すぎる」

「っ⁉」

 作ったばかりの心の壁がぶち壊されるほどの衝撃的な言葉に、香夜はまた熱が上がってくるのを感じた。

 あまりにも気恥ずかしくて、誰も見ていないのに布団を頭から被ってしまう。

「はぁ……良かったですね」

 襖の向こうから、炯の呆れたような声が聞こえた。

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