火鬼の若君

 養母の用意してくれた着物は奇跡的に無事だった。

 裾などの端くらいは濡れてしまったかも知れないと思っていただけに、良かったと息をつく。

 しかも着物は養母が自分にと選んだとは思えぬほど上質のものだった。

 白鼠しろねずの色無地といった素朴なものだったが、黒地の帯には白い艶やかな花が刺繍されている。

 この八年袖を通したことのない上物に、本当に良いのだろうかと不安がよぎる。

 だが濡れてしまった髪も拭かなければならなかったし、本当に時間がない。

 不安や迷いを押し込めて、とにかく着替えて集合場所へ向かった。

「何をしていたんだ⁉ お前が最後だぞ⁉ 私の言葉を家の者が一番に守らなくてどうする!」

 急ぎはしたものの、本当に間際の時刻になってしまった。

 そのため他の里の者達はすでに集合済み。香夜が最後となってしまい、予測していた通り長に怒鳴りつけられるという状況におちいる。

 野太く力強い声に怒鳴られるとそれだけでびくりと肩が震えた。

 周囲の者はまたかとわずらわしそうに眉を顰めるのみ。

 もしくは、鈴華達のようにクスクスと笑いを忍ばせる者だけだった。

 分かっている。

 疎まれている自分の味方は、この里にはいないのだということは。

「全く、どうせ遅れるならそのみすぼらしい髪も隠してくれば良かったものを。とにかくもうかの若君はご到着なされる。お前はせいぜい人の陰に立ち目立たぬようにするのだ」

「はい……」

 幸か不幸か、時間がないことが理由でお叱りは早々に終わった。

 その事に安堵の息を吐きつつ、人垣の奥へと向かう。

 香夜が通ろうとした場所は道が開かれる。

 穢れた娘という声も聞こえた。

 そんな娘に僅かでも触れたくないのだろう。

 里の者達の態度は香夜の心を更に凍らせる。

 これだから皆がいる所へは極力行きたくないのだ。

 厳しくても手は上げない養母に仕事を言い付けられ、黙々と一人で仕事をしていた方がどんなに気が楽か。

 日宮の若君が来なければこのようなことをしなくても良かった。

 そう思うと、どうしても考えてしまう。

(もう来るならさっさと来て、早く帰ってくれないかな……)

 と。


 日宮の若君は自動車でやってきた。

 閉ざされた月鬼の里ではほとんどの者が見たことがなく、物珍しさで一時騒然となりかける。

「静まれ! うろたえたところを見られては侮られるぞ!」

 だが、長の一喝でぴたりとざわめきが止まる。閉ざされた里故に、長の言葉は絶対でもあった。

 自動車が停まり、先に十代前半といった少年が降りてくる。

 日宮の若君は二十歳だと聞いたから、お付きの者か何かだろう。

 少年は長がいる側の後部座席のドアを開けると、深く頭を下げた。

 そこからおもむろに出てきた人物が日宮の若君。この国で最高の力を持つ火鬼の一族の次期当主だ。

 優美な物腰とその美貌に、里の者すべてが息を呑む。

 鬼は基本的に皆美しい顔立ちをしているが、彼は別格と言って良かった。

 遠くからでも分かる玉のような美しい肌。スッと切れ長な目は黒い瞳を冷たい印象に導くが、柔らかそうな微笑みがその印象を和らげてくれる。

 光が当たると少し赤く見える黒髪は清潔そうに整えられていて、全体的に洗練さを見せつけた。

 若君の佳麗かれいさに、長ですら一時言葉を失う。

「大勢での出迎え、感謝します。私が日宮の次期当主、日宮燦人あきとです。この度は我が一族の願いを聞き届けてくださり、ありがとうございます」

 力も権力も燦人の方が上なのだが、相手が一族の長ということもあってか少しへりくだった言い方をしていた。

 ただ、それでも彼の威容いようは変わりなかったが。

「あ、ああ……。いえ、その願いはこちらとて望ましいもの。歓迎いたします、燦人どの」

 燦人の威厳と美しさに飲まれていた長だったが、長としての矜持を取り戻したのかすぐに立ち直っていた。

 その場で簡単に養母と鈴華を紹介する長に、燦人も供の者を紹介する。お付きの者である少年はけいというらしい。

「ご滞在中は私がお世話を任されております。さあ、まずはご案内いたしますね」

 紹介が終わるや否や、鈴華があからさまな喜色を浮かべてそう言った。

 腕を取るといった無礼は働かなかったが、確実に距離が近い。その様子に周囲の者の方が慌てた。

 特に長は、跡取り娘である鈴華が嫁に選ばれてしまうのではないかと冷や冷やしている様子だ。

 燦人は舞を見てから決めると言っていたのだから、少なくとも鈴華が舞わなければ選ばれることはないだろうに。

 燦人が所望した舞は月鬼の女なら誰もが教えられる伝統的なもの。蔑まれつつも、香夜ですらきちんと教えられた。

 その舞は月鬼の力の一端を垣間見せる。

 満月の夜舞台で舞うことで、舞台に描かれた紋様が光を放つのだ。

 年の瀬の満月の日に、毎年一番力のある娘が舞っているから香夜もその美しい様子を見たことはある。

 以前は養母が勤めていたその役割は、ここ数年で鈴華に代替わりしていた。

 そういう仕組みなのだから、まずは舞台で舞わなければ選ばれることすらないだろう。

(まあ、結界を張ることすら出来ない私には無縁の話よね)

 先導する鈴華に付いて行くように去って行く燦人を見送りながら、香夜は無感情にそう思った。

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