ヘッドハンティング

如月姫蝶

ヘッドハンティング

「きょうは まだ ほっさがでなくて うれしいです 二乃宮にのみやジュン」

 ジュンは、本日最初の日記を認めた。毎日複数回日記を綴り、署名すること。それが、彼女がこの研究所において、衣食住を保障されることと引き換えに負った義務だった。

 

 研究所のプレイルームには、体調の落ち着いた子供たちが出入りする。

 玩具や絵本が置いてあり、光の明滅を抑えたアニメの映像が流れている空間だ。

 研究所は医療機関を兼ねており、院内学級ならぬ所内学級の宿題を、何人かで額を突き合わせながら解く子供たちの姿もあった。

 ウサギのぬいぐるみを片手にぶら下げて、ジュンは、プレイルームへとやって来た。

 十三才にしては長身の少女だ。年齢が一桁の子供たちが多いプレイルームでは、自ずと目立つ。

 ジュンは、ふと振り向いた。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。


——我が苗床よ……——


 今度は、声が直接頭の中に響いた。

 それが、亡き義父の声に似ている気がして、ジュンは、心の底から凍えた。


 約一分後、三雲暁音みくもあかねは、プレイルームに到着した。ジュンが、床の上に仰向けに倒れ、全身をガタガタと痙攣させていた。

 プレイルームの他の子供たちは、大人しく遠巻きに眺めている。ここにいる子供たちは皆、何かしらの持病があるため、誰かが発作を起こすのには慣れっこであるし、やって来たボブヘアの若い女医も、見知った顔なのだ。

「おそらく重積状態へと移行するわ。前回と同じ点滴を用意して!」

 暁音は、傍らのナースへと顔を向けて指示した。

 ナースがなぜ、指示に従うのではなく、「ギャッ」と濁った悲鳴をあげたのか、暁音にはわからなかった。

 次の刹那、首筋に熱さと痛みが突き刺さるまでは……

 床に倒れて痙攣していたはずのジュンが、やおら上半身を起こして、暁音の首筋に噛み付いたのである。それはさながら、血に飢えた吸血鬼のようだった。


「三雲先生、こちらが血液検査の結果です。いやあ、特に異常が無くて良かった良かった!」

 数日後、暁音は、所長である大八木おおやぎと、彼のオフィスで対面した。大八木は、ジュンに噛まれて出血した暁音の労災を直接労い、見舞金を弾んでくれるという。

 あの日、ジュンは、暁音の首筋を噛んだ後、再び倒れて痙攣を再開した。発作が五分以上継続する重積状態に案の定陥ったものの、それを予期していた暁音の適切な処置により、落ち着いたのである。

 暁音を噛んだことは、発作の一環としての奇行だろうと判断された。

 ただ、噛んだ患者が何かしらの感染症を有していた場合、噛まれた側にうつすこともありうる。大八木は研究所長である以前に医師であるため、そのことを憂慮して、丁寧な検査を行なってくれたのだ。その結果が異常無しだったというわけだ。

「三雲先生、もしリフレッシュしたい気分なら、有給を活用して旅行にでも行ってらっしゃい。ただ、ジュンくんを恨むような真似だけはしないでほしい」

「はい。私も医師ですから、そのくらいはわきまえています」

 暁音は、大八木の揉み手せんばかりの笑顔を、少々気色悪く感じていた。ただ、ジュンのこと、もとい彼女の脳内に巣食うモノのことを、彼はそれほどまでに愛しているのだろうなと、自分を納得させた。


 ジュンがこの研究所に収容されたのは、脳腫瘍の摘出手術後、後遺症として痙攣発作を頻発するようになったためだ。

 脳腫瘍の摘出に至るまでには、前日譚がある。

 ジュンは、実母及びその再婚相手である義父に養育されていたが、十二才時に俗に言う二重人格の状態に陥った。折に触れて「ジャンヌ・ダルク」を名乗って居丈高にふるまうようになり、ついには母の再婚相手を刺殺したのである。ただし、ジュンの体内からは、義父による虐待の物証が発見された。

 そればかりか、脳内には大きな腫瘍が発見されたため、これを摘出したところ、第二の人格であったジャンヌ・ダルクは消滅したのである。

 ジュンの年齢が年齢で、また、事情が事情であるために、彼女は実母の元へ戻ることを許された。しかし、実母が引き取りを拒否して、大八木が勧めるまま、この研究所にジュンを引き渡したのだ。

 暁音は思う。拒否した女は、被害者から加害者へと転じた娘と、被害者である以前に加害者だった夫への感情を処理しきれなかったのだろうか?もちろん、毎日のように発作の重積状態に陥るような娘の介護が手に余っただけかもしれないが。


 この研究所は、人体に埋め込む補助脳を開発することを最終目標としている。怪我などで脳に損傷を負った人を機能的に助けることが第一の目的。大八木はさらには、認知症の患者向けに、人格を搭載した補助脳の開発を夢見ているらしい。認知症の患者を常時手助けするヘルパーの人格と能力を、その体内に埋め込んでしまおうというのだ。

 なかなかに冒涜的だと、暁音は思う。

 仮にそんなものの開発に成功したら、例えば、独裁者が兵士に埋め込もうとするんじゃなかろうか。

 一方で、再犯率の高そうな犯罪者になら埋め込んで、行動を制御してやりたいと、暁音でも思う。

 そして、大八木は、ジュンが日記にジャンヌ・ダルクと署名する時を待っている。

 つまり、彼女の脳内から全体の九十五パーセント以上が取り除かれてしまった腫瘍が、再びすくすくと大きくなるのを待ち望んでいる。

 彼は、特殊な脳腫瘍こそが第二の人格の基盤だったという仮説を立てており、じわじわと増大しつつあるそれを再び摘出して研究に役立てる日が来るまでは、ジュンを丸ごと手厚く飼育しているのだった。

 完全に逝ってしまっておいでだと、暁音は呆れている。

 ただし、大学病院に勤務していた暁音を、この研究所にヘッドハンティングしてくれたのは、大八木だ。そして、ここはやたらと待遇が良い職場であるため、暁音もすぐに辞めるつもりは無いのだった。


「ああ、魔王様……ついに自力で感染性を獲得なさるとは、さすがでございます!」

 大八木は、暁音が退出した後、独り、感涙に咽んだ。

 彼には、暁音には決して伝えなかった秘密がある。実は、ジュンの脳内にあった腫瘍細胞は、既にで変異して、唾液や血液を通じて他者へと感染する能力を獲得した。

 それが証拠に、暁音の血液から、順調に分裂増殖しているその細胞が検出されたのだ。

 大八木は、前世を異世界にて生きたのだ、魔王の右腕として。しかし、不老長寿の魔王にも死期が迫り、大八木が一足先に逝って主従の転生先を開拓することとなった。

 魔王ほどの大物の転生は、でやり遂げなければ、転生先の高位の存在に、まず確実に妨害される。そこで大八木は一計を案じたのだが、まずはこの世界に生きる人間の病巣として転生し、その体を乗っ取るという作戦は、ステルス過ぎて危うく大失敗するところだった。魔王の苗床にして宿主となったジュンと、先に人間の医師として転生した大八木が邂逅を果たす前に、魔王がうっかり単なる脳腫瘍として抹殺されかけたのだから。

 ジュンの行動をある程度制御できても、未だ運動能力を持たぬ肉塊に過ぎなかった魔王は、実に全体の九十五パーセント以上を摘出されたうえに、医療廃棄物として焼却されてしまった。まさにジャンヌ・ダルクのごとき憂き目である。

「大八木所長、その件については、我にも非があるのだ」

 いつの間にやら、暁音が戻って来ていた。明るい花柄のパンツルックで、大きなスーツケースなぞ携えて。声は彼女自身のものだが、話しているのは、間違い無く魔王だった。

 魔王は、早くも暁音の行動を制御することに成功したらしい。

「我は、然るべき力が蘇るまで、そして、そなたと再会するまでは、あの少女の体内で沈黙を貫くべきであった。しかし、我が苗床にして宿主たる少女が侮辱されることに我慢ならず、少女が知る英雄を名乗って、狼藉者を成敗してしまった。お陰で、そなたには苦労を掛けることになったな」

 魔王在中の暁音は、深々と一礼した。

「ジャンヌ・ダルク」は、転生が未だ中途半端だった魔王その人の人格だったのである。

「大八木よ、積もる話もあろうが、我は、このままそなたが勧めたままに、有給を使い果たす勢いで旅を楽しんでくる。今さら止めるでないぞ?」

「はい?」

「暁音の体と脳内の知識を用いたなら、日本国内を気ままに旅するくらいは楽勝のようじゃ。どうやらこの女はイケメンなるものとの出会いを切望しておるようでな。早速物色してまいる!」

「あの……なんでまた?」

 大八木が主君の意図を読めずにいると、魔王在中の暁音は、身悶えしながら頬を染めた。

「さすがに察しろ!暁音はなかなか賢く美しい。我が妃として所望したいところだが、一心同体のままでは、まさにままならぬであろう!ゆえに、イケメンの体を乗っ取り、この体を暁音に返却したうえで求婚する所存じゃ!」

 ちょっと魔王様、世界征服は初動が肝心なのですぞ!——と、大八木は諫言しようとしたのだが、暁音は、人間の女性にはあるまじき怒涛のスピードで、その場から立ち去ったのである。

「魔王様……今生では、そっち方面の初動がお速いということですか……」

 大八木の涙が感涙ではなくなった頃、なんと魔王は、ひょっこり暁音の顔を見せた。

「二つ言い忘れておったわ。

 一つ。我はもはやジュンの体には戻らぬし、あの少女の中の我が肉は死滅させる。あれは、どうあれ我が生母の役割を果たしてくれた。今後も厚遇するように。

 二つ。大八木よ、旅の土産は何が良い?」

 大八木は、主君の満面の笑顔に返答できぬまま、天を仰いだ。おそらくは敵対することになるであろう天の神々に、魔王の行く末を見守り給えと、矛盾を孕んだ祈りを捧げずにはいられなかった。

 


 

 

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