花と狼

かたなり

第1話 冬、花を抱く男

 むかしむかし、あるところに、とてもやさしく賢いオオカミがいた。


オオカミは自分が山で一番強いことを知っていた。知っていたから、自分が山を守ろうと思った。


冬を越せないリスの代わりに木の実を集めてきてやった。ときに弱い小さな動物を執拗にいじめるキツネたちをボコボコにしたりもした。山を駆けまわって理不尽を解決できるよう努力した。

その結果、自分の力には限界があることが分かった。


生きる以上、争いというのは避けられないらしい。オオカミは賢く、でもそれは耐えがたい事実だった。


オオカミには小さいころ、長老から聞いた話があった。曰はく、山の外には人間という二本足の生き物がいて、彼らはどんな動物よりも強いそうだ。長老がまだ若かった時、彼らは山で暴れていたクマを倒し、それを誇るでもなく去っていったという。それに何より、そんなに強いのに、彼らは群れで生活するのだという。


オオカミは人間というものに憧れた。それだけの力があれば、山の動物みんなに言うことを聞かせて、支配することも可能だろう。現に、オオカミの親たちはそうしてきた。そうしてきて、やがてオオカミは独りになった。だからそれは間違っているのだろう。人間というのは山を荒らしまわったりしないのだ。自分の力に驕ったりしない、高潔な生き物なのだろう。


オオカミは願った。人間になりたいと願った。きっと、きっと彼らは争ったりしないのだ。




 冬のある日、オオカミは大きな音を聞いた。地鳴りのような、それにしては一瞬の音だった。向かった先には見たことのない二本足の生き物が複数匹と、彼らの前でうずくまるもう一匹の生き物がいた。

なんだ、なにをしてやがる!オオカミは吠えた。


誰かが、わあ、オオカミだ、と言った。集団はあとずさりして逃げ出した。

うずくまる生き物は、脇腹から血を流していた。近づくと悲鳴を上げる。

「お、おい、来るな!やめろ、お、俺なんか食べてもおいしくないぞ!」

言葉はわからないが、きっと俺なんか食べてもおいしくないぞ、みたいなことを言っているんだろう、オオカミは思いながら意に介さず近づいた。動けるなら大丈夫だ。とりあえずここじゃ雨風は防げないだろう。どこかに先導してやる必要がある。もう一歩近づくと、そいつは思いがけない行動に出た。わき目も降らずに、地面を掘り始めたのだ。


その時オオカミは気づいた。

彼はさっきからずっと左腕に抱えたものを守っているのだと。蓑を被せるようにして抱えている、それはなんだ。オオカミは男の左に回り込み、もう一度吠えた。

「な……なんだよ!これは、これは放さないからな。お前みたいな獣にはわからない、とても大事なものなんだ。」

左腕に抱えているのは、植物の苗だった。

急に、こちらを見る目が芯の通ったものになる。先ほどまでとは別人のようだ。

「ここなんだ、ここじゃないと、きっとこの花は咲かないんだ!!!」

男が何を言っているのかオオカミにはわからなかったが、なにか、大切なことなのだとわかった。


わかったから、オオカミは吠えた。俺はお前を傷つけるつもりはないのだと、伝えるために吠えた。




 オオカミが吠えたのは三度目だった。

男は死を覚悟していた。目の前の獣は恐ろしく、傷は痛むし、山は雪が止むことなく降り続けている。でも自分が死ぬ前に、苗を地面に植えなければならなかった。男はそのために逃げてきたのだ。何としてでも、この花を咲かせよう。男にとって花は救いであり、希望であり、彼のすべてだった。


少しでも深く穴を掘る。苗を植えられるだけの空間を。と、横から鼻づらが突っ込まれた。なぜ?オオカミも穴を掘るのか、いやいやどうして。しかしオオカミは明らかにこの作業を手伝っていた。

「おまえ、手を貸してくれるのか?」

オオカミは答えず、ただ前足で地面を掻いた。

「ありがたい、もう少しだ。そう、これくらいの深さがあれば、……っしょっと…。」

抱えた苗を地面に置く。黒い地肌が見えた。両の手のひらほどの大きさの穴に、そっと植える。土をかけなおす。

ひととおりの作業が済むと、どっと疲れが出た。小屋まで戻らなければ。やっとの思いで立ち上がり、ふらふらと歩き出した。先導するようにオオカミがついて来る。

「ほら、あっちの明かりが灯ってるほうだ。」

雪が舞う中でも、目を凝らせばここからでも見えるほどの位置に、ぼんやりと光が見える。撃たれた脇腹を押さえて足を引きずる。致命傷ではないが、身体を動かすのは至難の業だった。徐々に雪も強くなっているようだった。貧血か、視界が暗転する。

「……くっそ」

そこで男は、意識を失った──


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