シャチと白黒日記

無頼 チャイ

黒板と白板

「だからさ、シャチのカッコイイところってあの大ジャンプなんだって!」


 手に持つチョークでシャチの絵を書いた。水しぶきと迫力を魅せるためたくさん曲線を付け足す。


『パンダみたいなサメが暴れてるみたい』


「えっ!?」


 黒板に浮き上がった文字を睨んで、書いたシャチをジッと観察した。


「いやどう見てもシャチだろ、っと」


 カツカツと音をたてながら黒板に反論の文章を書き込むと、さっきの字が消えて『はいはい』という文字が現れた。


「何だよ、結構気に入ってるんだぞ。この絵」


 確かに背ビレが尖ったりして変テコかもしれないけども。

 そんなことを思いながら描いたシャチの絵を見ていると、絵の横に『ねぇ』という文字が浮かび上がった。


『今日の嵐君の一日を教えてよ。日記書けないよ』


 そういえばそうだった、と今日の平凡な一日をカツカツと黒板に擦りつけた。



□■□■□


 この奇妙な関係が出来たのは一週間前。梅雨の時期だった。突然の雨に屋根のある建物を探して古びた学舎に忍びこんだのが始まりだった。

 教室に入り、濡れた制服を絞って雨が止むまでぼぉーっとしていた。退屈な時間がだんだんと嫌になっていき、ふと黒板に目をやった。チョークも置いてあったため落書きでもするかと教壇を登りチョークを持って絵を書いた。


『誰?』


 そんな字が、前振りや突拍子もなく浮かび上がったんだ。

 誰の字はしっかりとチョークの字で、触れば指先に粉がついた。

 元々書いてあったのかな、と考えてる間に『何これ?』と控えめに矢印が浮かんだ。


 ポルターなんちゃらか?


 気味悪さはあった、けど、丸みを帯びた字はどこか弱々しくて、そんな何かが必死に質問してると思うと、ほっとくのも悪い気がした。

 深呼吸を一つして、試合に出る選手のような気構えでチョークを持った。



 □□□□□


 一週間前。突然の雨に学生鞄を頭に構えて走っていた時、古ぼけた塾の扉が開いてることに気付いて飛び込んだ。

 狭い教室に辿り着いて、長机を椅子代わりに持っていたハンカチで顔を拭っていると、目の前のホワイトボードに突然大きなサメが浮かんだ。

 古ぼけた塾の印象も相まって、怪奇現象が起きた時「ひっ!」って悲鳴を上げた。

 とっさに逃げようとしたけど、そのサメが、幼い弟の書く落書きみたいに下手っぴで、見てるとだんだん線が足されて、いよいよ幼稚園児みたいな絵になった。

 怖さはあったけれど、その絵は怖がらせるというより遊んでる印象だったから、何となく、ホワイトボードにあったペンを取って、「誰?」と書いてみた。


 すると、落書きは急に止まった。

 その後に漂うしんとした静けさ。それが怖くて怖くてちっちゃく「何これ?」と話題を絵に振って落書きの主に質問をした。分かりやすく矢印も付けて。

 しかし、反応はない。


「……アハハ、だよね」


 一人でに絵が浮かぶなんてありえないよね。きっと雨粒がゴミと一緒に目に入ってそう見えたんだ。


「はぁ〜、良かったよ〜」


 と力んでいた全身からプシュ〜という効果音が付くくらい力が抜けた。


 「早くお風呂入らないと風邪ひくな〜……」


 『シャチだッ!!』


「うわっ!?」


 おっきな字がホワイトボードに浮かび上がった。

 でも何で……、


「あ、そっか。わたしが聞いたから」


 黒いインクで「何これ?」と書き残してある。そして、


『俺はあらし かえでだ!』


「……日本人?」


 無駄に大きな名前を見て、少しホッした。ひとりでに文字が浮かぶのは怖いけど、その先の相手が日本人で、弟と似たような絵を書く人だと分かった途端、何となく恐怖心が薄れていた。

 再び持ったマーカーペンは軽く、意識して文字を綺麗に書いた。


「わたしは海原うなばら かえでだよ。おんなじ名前だね」


 書き込んでから絵を見つめた。


「嵐君もシャチ好きなんだ」



 ■■■■■



 それから海原との交流が始まった。黒板越しにたくさんの言葉を交わす毎日が続いた。

 話していくうちにお互いが同じ町に住んでいて、同じ名前の学校に通ってることが分かって、より一層親しく話し合える仲になった。

 一万円札は諭吉で、信号歩道は緑と赤。朝の空は青で、夜の空は黒。

 そして、何より嬉しい共通点は、


「海原もシャチの夢追ってるんだな」


『うん。シャチ可愛いから、トレーナーになって一緒に泳ぎたいなって』


「俺も、あ!」


 俺、で白い欠片が砕け散った。黒板に『?』が浮かぶので、慌ててリュックからビニール袋を取出し、縛った口を開けてチョークを摘みだした。


「も」


『どうしたの?』


「チョークがなくなっちゃったんだ。もう大丈夫」


『そういえば、嵐君はチョークをどこから補充してるの?』


「教室。全員がいないときにビニール袋に詰め込んでる」


『買えば良いのに』


「チョークってどこに売ってるんだ。コンビニ?」


 若干の間。ため息を吐く海原の顔が浮かんだ。


「それよりさ、シャチと泳ぐんだろ。良いなぁー。実は俺もトレーナー目指してるんだけど泳げなくてさ。コツとか教えてよ」


 カツカツと黒板に書き終えるも、まだ文字は浮かび上がらない。数秒から数分の間が空くなんて珍しくはないけれど、でも、この時間が限りなく長く、無限に引き伸ばされたような感覚を常に感じている。

 ふと、教室から見える景色が気になった。今日は晴れていて空には雲一つない。遠く遠く、地平線の果てまで続く空と海。長く続く澄んだ青。どこまでも広大。どこまでも果てがない。天井の無い空と底の無い海。


「こんなにも似てるのに、こんなにも離れてるんだな」


 憂いに似た感情が、心にぽつりと降って消える。

 頭を振って黒板を見ると、いつの間にか新しい字が浮かび上がっていた。


『わたし達、同じところにいるんだよね?』


「……」


 何となく、感じていた感情の正体が分かった気がした。手に持ったチョークから粉が落ち、床に落ちきるその瞬間まで目が離せなかった。



 □□□□□


「……」


 唐突に質問したくなり書き起こした文字の意味が、インクの染みのように心に浸透した。

 同級生と変わらない他愛ない話し。同じ夢を持った友達。知れば知るほど楽しくて、嬉しくて。白板越しの友達が学校の友達と変わらない距離にいるように思えた。


「なんで泳ぎ教えてとか言うかな、わたしも泳げないよ」


 弟に言うような余裕な笑みを浮かべて言ってみた。けど、想像とは違って声が上手く出なくて、震えてるようだった。


「何で……」


 何で泳ぎのコツとか聞くかな。そんなの書いてもしっかり教えきれないよ。

 そう書けば良かったのに、ふと過ぎったホワイトボードの誰かと一緒に泳ぐ光景が、変に眩しかった。


 そっと伸ばした腕はホワイトボードに伸び、指先に滑らかな感触が伝わった。何の変哲もないホワイトボードなのが、一層胸の奥を締め付けた。


『いるよ』


「え……」


 返事が帰ってきた。続けて文字が浮かぶ。


『いるよ。こうやって話してるし毎日俺はチョークだらけの手だし』


 手形が浮かび上がった。その横に文字がまた浮かぶ。


『もう一週間以上話してるんだ。ほっぺだってつねった。痛かった。それでもお前の文字が浮かぶんだ。俺たち同じところにいるよ。まだ不安ならチョークの粉被って顔を押し当てたっていいぞ』


「嵐君……」


 手形は、とてもペンでは再現出来ないくらい精密で、時折浮かんでいた指先のスタンプはしっかりと輪郭を持って存在を証明していた。


 いるんだ。確かにいるんだ。


 白い板に浮かぶ黒い手形は、ちょっとだけ冷静になった頭で見ると少し怖い。けど、殴り書きから伝わる文章は黒い手形と同じくらいに暖かい。

 ありがとう。そう書こうとしたけど、手がいつの間にか震えていた。悟られたくないからこう書いた。


「顔は怖いから止めて」


 次に文句が来るんだろうな。くすっと笑った。


「あ、そうだ」


 良いことを思いついた。文句を受け流したら提案してみよう。

 予想通りの文句が浮かんで、手を押さえながらいつものようにからかった。



 ■□■□■


 「書けた?」


『書けた。消してもいいぞ』


 「うん」


 クリーナーを持って三秒ぐらい後、


 『待って』


「やっぱり」


 終業式も終わって、これから夏休みに突入する前日。いつものように集まって話しをしていた。お互いに出来るだけ今日の出来事を書き込んで、日記の左ページに書き写す。右のページはいつも寝る前に書くのが習慣になった。


『書いた』


「じゃあ消すね」


 そうしてわたしの一日を書いた文章を消した。


『ところでさ、シャチの模様が保護色って本当?』


「本当だよ。空から海から見ても、鳥も魚も分からないんだって」


『へぇー、じゃあこの黒板も保護色かもな』


「まっさか〜」


 白と黒。何であっちが黒板でこっちがホワイトボードなのか、疑問に思ったことはある。けど、それ以上にこうして話しが出来る関係そのものが謎なのだから分かりっこない。


『じゃあな。来月の十五日にまた話そう』


「すれ違っても。始業式には必ず話そうね」


 そうして、ペンをしまって塾を後にした。


■□■□■


「ただいま〜」


「お兄ちゃんおかえり〜、ねぇ教えてほしいことあるんだけどい〜い?」


「良いぞ〜何だ。勉強以外なら教えられるぞ」


 迎えてくれた小さな妹が玄関にいる俺の元に寄ってきて、キラキラ目を向けた。


「あのね、苗字ってもういっこあるの?」


「うん、そうだよ」


「じゃあ、あらしともう一個は?」


「確か、海原、だよ……」


「そうなんだ。ありがとう!」


 白い歯を見せて、お母さんお母さんと行ってリビングに走っていった。


「……海原?」


「楓、ご飯準備するの手伝って」


「は~い」


 凄く引っ掛かったが、これから夏休みだし、ゆっくり考えれば良いか。と疑問を投げた。

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