第14話

「たしかに美しいお顔だとは思いますけれど、でも殿方でしょう? やはり殿方に王太子妃は荷が重いお役目だと思うのですけれど」


 わたしに似た黒色の髪に碧眼の姫君が、つり目がちな目をさらに吊り上げてわたしを見ていらっしゃる。投げかけられた言葉にどうお答えすればいいのかわからず、わたしは少しだけ笑みを浮かべながら内心どうしようかと困惑していた。


(こちら側に散歩に来るべきではなかったかな)


 よい天気だからと散歩に出たまではよかった。ところが途中から少し気分が悪くなり、ガーデンチェアで休もうと思って外廊下から庭へと出たところで、目の前の姫君に呼び止められた。ちょうど貴賓館が近くにあるため姫君も散歩の途中だったのだろう。

 姫君は王妃様と縁戚関係にある隣国の大公殿下のご息女で、ウィラクリフ殿下のお妃候補のお一人だったと聞いている。お妃候補でなくなったいまも王城内の貴賓館に留まり、そのまま留学されているのだという。


「別に殿方の伴侶がいらっしゃっても構わないのです。ただ、やはり公の場では正式なお妃が必要だと、きっと皆思っているはずですわ」


 以前からずっと思っていることを指摘され、「そうかもしれません」と答える。


「あら、ご自分でもわかっていらっしゃるのね。それなら、あなたからそのことを王太子殿下にお話すべきじゃなくて?」

「いえ、王家の大事なことにわたしが口を挟むのは、さすがに……」

「まぁ、やっぱり新しい妃を迎える気はないんじゃないの。嫌な方ね」

「そういうわけでは、」


 これは困った。どうお返事をしても気分を害される気がする。それでもわたしが王家の事情に関わることなどできないため、ほかに答えようがなかった。

 たしかに王太子妃の地位ではあるけれど生家は底辺の貧乏貴族で、社交界での立場もほぼないに等しい。そういう家柄の妃が王家のほかの妃について何か口にするのは分不相応であり許されないことだ。


「あなた、エルラーン殿下に認めていただいたからって、それで自惚れているんじゃなくって? たしかに大国の後ろ盾代わりにはなるでしょうけれど、その程度のことで大きな顔はしないほうがよろしくてよ」

「そんなことは決して……」

「本当に王太子殿下はお気の毒だわ。何があったのかは存じ上げないけれど、いくらお顔が綺麗とはいっても殿方を娶らなくてはいけないなんて、おかわいそう」


 少し離れたところで、姫君の侍女たちが「姫様!」と慌てたように口にする。それでもご息女は口を閉じようとはしなかった。

 こういった出来事は今回が初めてではない。婚約者として王太子宮に移ってきた当初は、王太子宮を出ればあちこちでこういう言葉を投げかけられた。遠巻きに言われることもあれば、お妃候補だという方々に取り囲まれてよくない噂話を聞かされることもあった。


(その程度のことは別にいいんだけれど)


 元々噂話やわたし自身への言葉に興味はなく気にすることもない。王太子宮に住むにあたって、そういった言葉は甘んじて受け入れようと覚悟もしていた。しかし、そういった噂話を殿下に知られたくないとは思った。わたしのせいで殿下まで悪く言われているような気がして、お耳に入れたくないと思ったのだ。


(一人だったのが幸いしたな)


 こういう出来事が起きるたびにそう思う。もし侍女たちを連れていたら、彼女たちからメリアンの耳に入り、いずれは殿下の知るところになっていただろう。


(殿下を煩わせることだけは避けなくては)


 なかにはひどい内容を聞くこともあったけれど、大方の意見はわたしが考えていることと同じだ。だから反論する気もない。

 第三王子殿下を養子にお迎えする話も、本当にいいのだろうかといまだに考えることがある。そのたびにリラ様はお笑いになり、何も気にすることはないのだと殿下と同じことをおっしゃるがやはり気になっていた。


(そういえば、こうして直接何か言われるのは久しぶりだな)


 王太子妃候補の方々はいつの間にか王城をお出になったようで、王太子宮に一番近い場所に建つ貴賓館も随分と人が少なくなったと聞いている。すっかり静かになったこともあって、こうして貴賓館の近くを歩いていたことに気づくのが遅れてしまったくらいだ。


「とにかく、早く正式な王太子妃を迎えられるべきだわ」


 姫君の言葉を、ただじっと聞く。それしかいまのわたしにできることはない。そう思いながら見ていた姫君の顔が、一瞬ぐにゃりと歪んだように見えた。手足がわずかに痺れているような感覚までしてくる。


(最後まで聞くべきなんだろうけど……)


 治まっていた気分の悪さがぶり返してきた。このままでは何か粗相をしてしまうかもしれない。早く立ち去らねばと焦り始めたとき、意外な方の声が聞こえてきた。


「高貴な姫君が、他国の王家のことをあれこれ言うのはお行儀が悪いのではないかしら」

「……リラ様」

「ご機嫌よう、エルニース様」


 聞こえてきた声は、五日前にお会いしたばかりのリラ様のものだった。そういえばと、この近くの庭園はリラ様のお気に入りだったことを思い出す。


「何やら騒がしいと思って来てみれば、大公様の姫君でしたのね」

「これはリラ様、ご機嫌麗しく存じます」

「あら、あまり麗しくなくってよ」


 にこりと微笑みながらそうお答えになったリラ様の声は、たしかにいつもと違って少し固いように聞こえる。


「いかに大公様の姫君とはいえ、他国の内情に口を出されるのはいかがかと思うのですけれど」

「そのような大それたことではございませんわ。ただ王太子殿下には正式な、女性の王太子妃が必要ではとお話していただけですの。それに、この方も賛成してくださって……」

「それが干渉だと申しますのよ。我が国のことも王太子殿下のことも、もちろん王太子妃のことも国王陛下がお決めになられること。違うかしら?」

「それはごもっともなことですわ。ですから、この方から王太子殿下にお話されて、陛下とご相談のうえ新しいお妃をと……」

「口を慎みなさいませ」


 いつになく強い口調に、わたしのほうが驚いて体が強張ってしまった。


(もしかして、よくない状況なのでは……)


 そう思ったものの、わたしが口を挟んでよい内容ではない。そうなると、ただお二人を見守ることしかできなかった。


「王太子妃に関しては、もう随分と前にすべて決まったこと。王太子殿下からも直接お話があったはずです」

「それは……ですが、」

「あなた様がこの国に留まっていられるのは、陛下が大公様のお気持ちを汲んでのこと。そこには王妃様だけでなく王太子殿下の口添えもあったと聞いています。そんな殿下のお気持ちを無下になさるおつもりかしら」

「そんなことは……! わたくしはただ、この国を、王太子殿下を思って、」

「殿下のことを思っているのならば、内政干渉と疑われる言動は慎まれたほうがよろしくてよ。なにせ我が国の王太子は、それはそれはお優しくも恐ろしいお方ですから」

「わたくしはただ、」

「それにお忘れかもしれないけれど、わたくし、陛下の第三夫人ですのよ。そして次の王太子の母でもありますわ」


 リラ様が深い微笑みを浮かべられる。それを見た姫君は途端に真っ青な顔になり、少し離れた場所に控えていた侍女たちが慌てたように近づいた。そのまま姫君たちは貴賓館のほうへと足早に去っていく。

 あまりの素早さに挨拶をすることもできなかった。結局わたしはお二人の間を取り成すことさえできなかったのだと情けなくなる。眉尻を下げるわたしにリラ様がにっこりと微笑まれた。


「女というものは恐ろしいものですわ。エルニース様はもっとお気をつけになられたほうがよろしいですわね」

「それは……はい、ありがとうございます」

「殿方が女性に弱いのは昔からのこと、仕方がないことかもしれませんけれど。それにエルニース様はお優しい方ですし、貴族同士の探り合いも苦手でいらっしゃいますものね?」


「ふふふ」と笑われて何も答えることができない。

 本当に何もかもがリラ様のおっしゃるとおりだ。このままでは駄目だとわかっているけれど、こういうことは学んでどうにかなるものでもない。かといって、いまの立場で社交界に行き経験を積むというのも気が引ける。


(やっぱり王城内を歩き回るのはやめよう)


 はじめは一人になりたい気持ちと、早くこの環境に慣れたくて始めた散歩だった。そのうち体を動かす目的が加わり、庭園や植物を見るのも楽しくよい気晴らしにもなった。

 しかし、このままではいつか殿下に迷惑をおかけしてしまうに違いないい。それなら王太子宮の中でできることを探したほうがいい。


「今回のことも王太子殿下のお耳にすぐに入るのでしょうけれど……。それよりエルニース様、少しお顔の色がよくないように見えますわ。もしかして、ご気分が優れないのではなくて?」

「えぇ、朝はなんともなかったんですが、歩いているうちに少し気分が悪くなって」

「まぁ、食あたりかしら。いつもと違うものを口にされたのでは?」

「変わった物は食べていないと思います。散歩の途中で果実水を飲みはしましたが……」

「果実水? 散歩の途中で?」


 リラ様がわずかに眉をひそめていらっしゃる。いけないことだっただろうかと思いながら、事の経緯をお話しすることにした。


「はい。ちょうどよいガーデンチェアを見つけて、そこで休憩がてら本を読んでいたんです。そうしたら庭師がわざわざ持ってきてくれて」

「それは南の庭園かしら?」

「いえ、それより西側の……ちょうど秋薔薇が見頃の、」

「西側、ということは貴賓館のそばですわね……。それで、ご気分は?」

「そこまでひどくはないので、大丈夫だと思います。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。王太子宮も近いですし、帰って休むことにします」

「そうね、それがいいですわ。エルニース様が体調を崩されでもしたら、王太子殿下が悲しまれますもの」

「そう、ですね。気をつけます」

「えぇ、十分にお気をつけになって。エルニース様のお体ひとつで、この国は大きく変わってしまうのですから」

「え……?」


 リラ様のおっしゃった意味がわからず首を傾げるわたしに、「侍女に送らせますわ」と言葉が続く。


「いえ、そこまでしていただかなくても大丈夫ですから」

「遠慮なさらないで。リドニスもエルニース様にお会いするのを楽しみにしているのですから、早くよくなってくださいませね」


 優しいお言葉と同時に微笑まれたら、断ることはできなかった。

 こうしてリラ様の侍女に伴われて部屋に戻ると、それを見たキルトが顔を真っ青にしてメリアンを呼びに行った。そうしてメリアンとともに着替えだの薬だのと大騒ぎになってしまう。さらに驚いたのは、執務中であるはずの殿下まで部屋にやって来たことだった。


(やっぱり王城内を歩き回るのはやめよう)


 改めてそう決意した。


 当初、わたしは吐き気や目眩をただの疲れだと思っていた。ところが体調は思っていたよりもよくなかったらしく、一日目は夕食を口にすることができなかった。そのまま翌日の夕食まで水すら飲むことが困難で、殿下をはじめメリアンやキルトにも随分と心配をかけてしまった。


(あれはなんだったんだろう)


 これまで大きな病にかかったことがないわたしには、あの状態が病気だったのかどうかさえわからないままでいた。

 昨日は朝から食事を取ることができた。今朝もしっかり食事をし、こうして三日ぶりに庭に出て薔薇の香りを楽しみながら本を読むこともできている。

 ふと、いつも見かける庭師がいないことに気がついた。どこかで作業をしているのだろうかと周りを見渡すけれど、どこにも馴染みの顔はない。

 最初にこのガーデンチェアを見つけたとき声をかけてくれた庭師は、それ以来ここに来るたびに果実水を用意してくれる親切な男だった。果実水を飲みながらの会話は興味深いものばかりで、本では得られない知識をいくつも教えてもらった。


(それも今日で最後だから、これまでのお礼を言いたかったんだけれど)


 キョロキョロと辺りを見ていると、キルトの伴侶でありハルトウィード殿下の近衛兵でもあるハリスの姿が目に入った。


「ハリス」

「これはエルニース様、このようなところで読書ですか?」

「散歩の休憩に少しだけ。でも、これも今日で終わりにしようと思って」

「それがよろしいかもしれませんね。今回のことでは、王太子殿下も我らも肝を冷やしました」

「あの……すみません」


 まさか、ハリスにまで話が届いていたとは……。申し訳なく思い謝罪をすると、「キルトは心配のあまり体重が減ったと言っていましたね」と言われ、ますます申し訳なくなる。


「といっても、リンゴ一つ分ほどのようでしたが」


 ニヤリと笑うハリスの表情に、気遣いからの冗談だということがわかった。少し笑ってから「キルトにも謝っておきます」と答えると、ハリスが「伴侶へのお心遣い感謝します」と腰を下ろし地面に片膝をつく。


「あの、ここは中庭ですし、畏まった作法は必要ありませんから」

「お気になさいませんように」

「でも……どうか、ベンチに座ってください」


 そう伝えると、ハリスが再びニヤリとした笑みを浮かべた。


「それはやめておきましょう。エルニース様の隣に座ったとあっては、殿下にどんな嫌味を聞かされるかわかりませんので」

「ウィラクリフ殿下が嫌味を? まさか……」


 穏やかで優しい殿下からは想像できず少し戸惑う。


「エルニース様はご存知ないかもしれませんが、殿下はそれはもう口が達者でいらっしゃるので聞かされるほうは大変なのです」


 大袈裟に眉尻を下げ右手を胸に当てる仕草に、思わずプッと吹き出してしまった。いまのもわたしを気遣っての冗談だったに違いない。キルトと言い、この夫夫ふうふの雰囲気や気遣いは堅苦しくなく心地よかった。


「それよりも、どなたかお探しのご様子でしたが」

「あ、はい。少し前に顔見知りになった庭師が見当たらないなと思って」

「庭師……。もしや、果実水を用意していた男ですか?」

「はい。知っているんですか?」


 わたしの問いかけに少し考えるような素振りを見せたハリスは、「まぁいいか」と言って口を開いた。


「その男ならば三日前、殿下に処分されました」

「処分?」


 思ってもみなかった言葉に驚いてしまう。


「あの、ウィラクリフ殿下にですか?」

「はい。二重の罪を犯した咎で」

「二重の罪……」


 そのような大それたことをするような男には見えなかった。変に畏まることがなく、学舎に通っていた頃のように話せる気持ちのよい相手だった。そい思っていただけに罪を犯したという内容に言葉を失う。


「いったい何をしたんですか?」

「エルニース様のお耳に入れるような内容ではありませんので、どうかご容赦を。ただ、決して触れてはならない殿下の逆鱗に触れてしまったのです」

「逆鱗……?」

「傷つけてはならない掌中の珠に近づいただけでなく、やいばを向けたのですから仕方ありません。これで不穏な輩もおとなしくなるでしょうから、ご安心ください」

「……もしかして、わたしに関わることですか?」


 問いかければ、少し細い眼がさらに細くなった。先ほどまでの人懐っこい雰囲気が消え、代わりに恐ろしさのようなものを感じる。鋭い眼差しに背筋がピンと伸びるような気持ちになり、思わず本を握る手に力が入ってしまった。


「これ以上口が滑っては、また隊長殿から『お喋り夫夫ふうふが』と叱られかねませんね。そうそう、キルトは昔からよく喋る男だったのですが、エルニース様にご迷惑をおかけしてはいませんか?」

「え? あ、キルト、ですか? いえ、お喋りというか、人付き合いが得意でないわたしには、キルトくらい話してくれるほうがありがたいと思っています」

「そうですか、それはよかった。いや、伴侶が仕えている主人に褒められるというのは、なかなかどうしてうれしいものです」


 再び戻った人懐っこい笑みのおかげか、奇妙な緊張感がすぅっと消える。尋ねたいことはいろいろあったものの、またあの緊張感に包まれるかもしれないと思うと口にできそうにない。


「さて、そろそろ王太子宮へお戻りになられたほうがいいでしょう。あぁほら、キルトの下の兄が迎えに来ましたよ」

「あぁ、ハリスか。エルニース様、殿下が心配されます、どうかお戻りを」


 急ぎ足でやって来た近衛兵の胸元を見ると王太子付きの印がついていた。キルトの下の兄と聞いて顔を見れば、たしかにどこか似通っている部分がある。


「すみません。体調も戻ったので、ちょっと外の空気を吸いたいと思って」


 たとえキルトの兄であっても、王太子付きの近衛兵に王太子妃を迎えにいく役目はないはずだ。わたしは「すみません」と謝りながら慌てて立ち上がった。


「ははは、相変わらず王太子殿下は心配性でいらっしゃるようだ。これでは昔と変わらないな。あの頃もこうして二人で忙しくしていたのが懐かしい」

「ハリス、笑い事じゃ済まなくなるところだったんだぞ」

「サリウス、そう睨むな。それに今回のことは結果的によい方向に向かったのかもしれないぞ? まぁ、誰にとってのよい方向かは別としてだが」

「ハリス!」


 キルトの兄だというサリウスが、立ち上がったハリスをギロリと睨んでいる。もしや喧嘩が始まるのではないかと心配したが、ハリスが人懐っこい笑みを浮かべたことで言い争いではないのだとわかりホッとした。


「それではエルニース様、わたしはこれで失礼します」

「すみません、任務の邪魔をしてしまったようで」

「お気になさらず。これも広い意味では任務の一つですので」


 笑顔で去って行くハリスを見送り、迎えに来たサリウスに連れられて王太子宮へと戻った。道すがらサリウスにも庭師のことを訊ねてみたけれど、ハリス同様に殿下の命令で処分されたのだということしか聞くことはできなかった。


(もしかしてキルトなら知っているだろうか)


 そう思い、入浴のときにキルトにも訊ねてみた。


「庭師ですか? あー、あのことか」

「何か知っている?」

「詳しくはわからないですけど、旦那様からちょっとだけ聞いてますよ」

「殿下が直接処分されたと聞いたんだけれど……」

「みたいですねー。まぁエルニース様に勝手に近づいて仲良くなっちゃったりしたら、庭師どころか大抵の貴族だって処分されますけどね」

「え……?」


 とんでもない言葉が聞こえたような気がした。慌ててキルトを見たけれど、キルトのほうは表情を変えることなく話を続けている。


「それに、庭師はラティーナ様に懐柔されてたみたいですからねー。身元がちゃんとしていたから近衛兵も油断していたんじゃないかって話ですけど、仕方ないですよねー。そういや果実水が決定打になったって聞きましたよー」

「ラティーナ様って大公様の、果実水が、なに、って、ひゃっ!」


 薄く柔らかい湯着を着せられたかと思えば急に抱え上げられ悲鳴が漏れてしまった。そのまま湯がたっぷり入った甕に足から入れられてしまう。

 浴場の床には、口の広い大きな甕が上半分ほど出た状態で埋め込まれていた。中にはたっぷりのお湯と見たことのない薬草らしきもの、それに色とりどりの花が浮かんでいる。以前はなかったものだから、寝込んでいた三日の間に用意したものだろう。


「今夜からしばらくは、この湯甕に浸かっていただきますからねー。これ、海を渡った異国のお風呂らしいんですけどね。薬草を入れて、こうして肩まで浸かると体内の毒素が抜けるそうですよ」

「毒素って、ぅわ!」

「湯甕も薬草も、それにこの花も、全部殿下がエルニース様のためにって用意されたんですよ? いやぁ、愛されてますねー」


 湯に入れられたことに驚き慌てて立ち上がろうとした。しかしキルトに肩をグッと押され、再び甕の中に戻されてしまう。

 甕はとても大きく窮屈には感じない。中の湯も煮立っているわけではなく、ちょうどよい温度ではあった。


(だけど、なんというか……スープの具になったような気がする)


 そういえば異国の本に、どこかの国ではこうしてお湯に体を浸ける入浴法があると書いてあった気がする。もしかして、これがそうなのだろうか。


(……もしかして、わたしが体調を崩したからわざわざこれを?)


 わたしのために、たった三日で殿下が用意してくださったということに体の熱がフッと上がった気がした。鼓動が少し早くなり、口元が少しずつ緩んでいく。殿下に心配をかけたくないと思いつつ、こうして気遣ってくださることがうれしくてたまらなかった。


「早く万全の体調に戻るといいですね。旦那様も兄たちも心配してましたよー」

「そうだ、サリウスには結局部屋まで送ってもらってしまったな。それにハリスも任務の途中だっただろうに、わたしに付き合わせてしまったみたいで」

「あはは、旦那様は好きでウロウロしているからいいんですよ。サリウス兄だって任務ですからね。それに二人は昔っから任務で関わることが多かったんです」


 そういえば、ハリスが「昔も二人で任務を」というようなことを言っていた気がする。


「二人は昔から一緒の任務を? ……あれ? でもハリスはハルトウィード殿下の近衛兵だったんだよね?」

「ハルトウィード殿下の近衛兵に就く前の少しの間、旦那様はサリウス兄と同じ王太子直属の騎士団にいたんです。だからエルニース様の護衛というか監視というか、そういう任務に就いてたみたいなんですよねー。馬車での事故があってから、殿下はすっかり心配性になってしまわれたみたいで」

「事故って、ええと、わたしの護衛っていったい、」


 思わず甕から上半身を出してキルトを見ると、すぐに肩をググッと押されてしまった。


「はいはい、ちゃんと肩まで浸かってくださいねー」

「わたしの護衛って、どういうこと?」

「俺の想像ですけど、たぶんそうだと思うんですよねー。それにあんな図体のでかい二人が市中の学舎に出入りするなんて、それだけで怖いじゃないですか。護衛としては効果抜群だと思いますけど、周囲にはいい迷惑だったんじゃないですかねー」

「え? もしかして二人が学舎に来てたってこと?」

「はい。エルニース様はお気づきじゃなかったかもしれませんけどね。ま、不用意に近づこうとする輩を排除して回っていただけなんで、気づきようがなかったかもしれませんけど。いやー、あの二人に睨まれたら誰だって近づかなくなりますってねー」

「それはどういう、って、うわっ!」


 いろいろ訊きたいのに、今度は脇の下に手を入れられて一気に体を引き上げられた。あまりのことに呆気に取られている間に湯着を取られ、柔らかな布で全身を拭われる。そうしてあっという間に夜着を着せられてしまった。


(たしかにキルトはそれなりの体格だとは思うけど……)


 そうだとしても、子どものように扱われるのはどうなんだろうか。あまりの出来事に衝撃をうけている間に寝室に到着してしまっていた。そのままいつもどおりメリアンの手入れが始まりキルトが退室してしまう。


(あとでまたキルトに訊いてみよう)


 そう思っていたのに、テーブルの上に砂漠の国の本があるのが目に入った途端に頭の中が本のことでいっぱいになってしまった。


(殿下が取り寄せてくださったのだろうな)


 手入れが終わり、そっと本を手に取る。

 この本について話をしたのは十日ほど前だ。王太子宮の蔵書にないと聞いたときには残念に思ったものの、ほかにも本はたくさんあるから「いつか読めるといいな」という程度に考えていた。その証拠に本を見るまですっかり忘れていたくらいだ。それなのに、殿下はこうしてわざわざ取り寄せてくださった。

 口元がだらしなく緩んでいく。気がつけば夢中になって本を読み進めていた。そのうち湯のおかげがすっかり眠くなり、殿下をお待ちすることなく眠りについてしまった。

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