第6話

 王太子殿下の婚約者候補だと発表されてから半月後、わたしは“婚約者候補”から正式な“婚約者”となった。


(わたしのほかにも殿下には何人もの王太子妃候補の姫君がいらっしゃったはずだけど……)


 それなのに最初に婚約者となったのがわたしだった。まさかこんなに早く物事が進むと思っていなかったため心底驚き言葉もでなかった。ところが殿下は「遅すぎるくらいだ」とため息をつかれ、「いや、待っている時間も有意義だったかな」と微笑む。

 正式な王太子殿下の婚約者となるため、すぐさま婚約式を執り行うことが決まった。ハルトウィード殿下のときには王城の意向で行われなかったけれど、さすがに王太子の婚約者ともなれば相手が男であっても行わないわけにはいかないのだろう。

 そういうこともあり、わたしは再びお妃教育を受けることになった。いまだに「王太子妃」と聞くと不安や戸惑いはあるものの、以前ほど怖いとは思っていない。それはおそらく殿下と何度も話をしてきたからに違いなかった。

 殿下はいつも「わたし自身を見てほしい」とおっしゃった。「王太子の婚約者ではなく、ウィラクリフという一人の男の婚約者だと思ってほしい」ともおっしゃっている。


(だから……というわけではないんだろうけれど)


 婚約の話を聞いた当初よりも「王太子妃」という言葉を変に意識することがなったように思う。さすがにお妃教育と聞くと身が引き締まる思いにはなるけれど、逃げ出したいとは思わない。それよりも、ウィラクリフ殿下に恥をかかせるようなことになってはいけないと思う気持ちのほうが強くなっていた。

 お妃教育の話を聞いてから五日後、家庭教師と会うことになった。ウィラクリフ殿下と一緒にやって来たその人を見たわたしは、思わず目を見開いてしまった。


「あなたは……」


 殿下の後ろに立っていたのは、ハルトウィード殿下のときにお妃教育をしてくれていたリードベル教授だった。


「ご無沙汰しています。本日より再びよろしくお願いいたします」

「わたしのほうこそ、あの、よろしくお願いします」


 婚約破棄される直前まで教わっていた人に再び教わるというのは、なんとも言えない奇妙な感じがする。ちらりと見た相手のほうは何も思っていないのか、以前と変わらない様子でわたしを見ている。


「リードベル教授は宮廷作法に詳しいだけでなく、我が国の歴史や外交にも造詣が深い。またダンスや乗馬など全般にわたって教えることができる貴重な方でもある。王太子妃の家庭教師として、これ以上の適任者はいないと思っている」


 殿下の説明に、なるほどと納得した。以前、学問や行儀作法以外も一人で教えてくださっていたのはそういう人物だったからだ。普通はそれぞれ別の教師がつくのだろうけれど、その必要を感じなかったことを思い出す。


(あのように優秀な教授なら、王太子妃としての指導もなんなくこなしそうだな)


 その分厳しい方ではあるけれど、殿下のためと思えば気持ちも奮い立つ。


「ハルトのことを思い出すかもしれないけれど、少しだけ辛抱してほしい」

「わたしは構いません」


 随分前からハルトウィード殿下を思い出すことはなくなったから……とは、さすがに言えない。

 こうしてお妃教育が再開されることになり、わたしはリードベル教授の授業を再び受けることになった。

 翌日からさっそくお妃教育が始まった。初日は作法を中心におさらいし、翌日から歴史や政治といった学問を中心に学び直している。そうして今日はダンスを復習することになっていた。


「ダンスもお忘れでなかったようで何よりです」

「ありがとう、ございます」


 しっかりと叩き込まれたダンスは、ありがたいことに二月ふたつき以上間が空いても忘れたりしなかったらしい。しかし体力のほうは別だったようで、少し息が上がってしまったのを情けなく思う。


「足のほうは大丈夫ですか?」

「はい、いつもの靴なので」


 ハルトウィード殿下とのダンスでは、念のために女性用の靴を履くようにと言われていた。そのためダンスを習い始めた当初は靴に慣れることができず、血豆が潰れて出血することが何度もあった。あまりの痛さに湯を使うのをためらったくらいだ。

 しかしウィラクリフ殿下は「そんな無理をする必要はない」とおっしゃり、普段の靴のままダンスを習っている。おかげで足を痛めることもなく、泣きそうなほどだった痛みもいまとなっては懐かしい思い出になった。


「作法もダンスも、よく覚えていらっしゃるようで安心いたしました」

「昔から覚えることは苦手でなかったので、それが幸いしたのだと思います」


 体を動かすことは苦手でも勉学や知識を得ることが好きだったおかげか、以前習ったことはおおよそ覚えていた。これまで何度か教授の授業を受けているけれど、すべておさらいをしているような状態に近い。

 そういうこともあって、わたしは次のことを学びたいと思うようになっていた。


(それに、婚約式までそんなに時間があるわけではないし)


 婚約式を終えれば、わたしは正式に王太子殿下の婚約者という立場になる。周囲もそういう目で見るようになるだろう。

 たとえばわたしが由緒ある家柄の姫君で、そういう類いの教育を受けていればまだ安心できたのかもしれない。しかしわたしは底辺の貴族で、そもそも男だから淑女の教育を受けたこともない。そんなわたしが王太子妃になるには、もっと学ばなくてはいけないことがあるはずだ。


(きちんと学んでおかなければ殿下に恥をかかせてしまう)


 それが何よりも嫌だった。殿下に恥をかかせないためにも、王太子妃としての行儀作法だけでも完璧にしておきたい。そのためにも早く次のことを学んでおきたかった。


「あの、少しよろしいでしょうか?」

「なんでしょう」

「以前教わったことは、おおよそ覚えていると思います」

「えぇ、大変すばらしいことだと思いますよ」


 リードベル教授の眼鏡がキラリと光ったような気がした。金髪をきっちりと束ねた姿は父上と同じくらいの年齢に見えるけれど、実際の年はよくわからない。厳しい表情に慣れてきたものの、年配の教授に意見をするには多少の勇気が必要だった。


「そろそろ……王太子妃としての教育を受け始めたほうがいいのではと思っているのですが、どうでしょうか……?」

「……」


 そう口にした途端、教授の動きが止まったように見えた。


(言うべきことではなかったのかもしれない)


 もしくは、そんなことが言えるほどの状態に達していなかったということだろうか。


(それでは、婚約式までに行儀作法を習得できないかもしれないということだ)


 そのことで殿下に迷惑をかけてしまうかもしれない。恥をかかせてしまう可能性もある。優秀で誉れ高い殿下の名前に、わたしが最初の傷をつけてしまうことになる。


(やはり、わたしが王太子妃になるなんて無謀だったんだ)


 前向きだった気持ちが少しずつ不安へと変わっていく。


「あの……出過ぎたことを口にしました」

「あぁいえ、わたしのほうこそ失礼しました。少々、考え事をしてしまいまして」


 縁のない眼鏡をクイッと押し上げた教授が、じっとわたしを見る。


「エルニース様は、すでにおおよその王太子妃の教育は終えられています。ですから、いまは覚えていらっしゃるかの確認で十分かと思いますよ」

「え……?」

「以前お教えしていた内容は王太子妃の教育と何ら変わりないものです。追加でいくつか学んでいただくことはありますが、それも問題ないでしょう。エルニース様の覚えのよさには、ウィラクリフ殿下も大変満足されていらっしゃいます」


 一体どういうことだろう。以前はハルトウィード殿下のお妃になるための教育を受けていたはずなのに、あれが王太子妃の教育だったとはどういうことだろうか。そう思いながら「なるほど」と感じた。


(たしかに、そう言われたら納得できる内容だ)


 以前受けていたお妃教育は、それはもう大変なものだった。学舎で教授たちと意見を交わしていたときよりも余程難しく、多くの時間を費やさなくてはいけなかった。だからハルトウィード殿下に衣装をお返しするときに、やるせない気持ちになったりもした。


(でも、どうして王太子妃の教育を……?)


 第二王子の伴侶になるはずだった自分が、なぜ王太子妃の教育を受けていたのだろうか。わたしが疑問を抱いているとわかったのか、教授が付け加えるように話を続けた。


「もともとお妃教育というものに大きな違いはありません。先だって第三王子殿下がご誕生したとはいえ、王位継承者は王子殿下お二人しかいらっしゃいませんでしたからね」

「なるほど」


 もしものときのためにということならば納得できる。


「それに、いずれ王太子妃の教育が必要になるということでしたし、殿下より直々に相談を受けておりましたので、最初から王太子妃としての教育をしていました」

「殿下からの相談、ですか……? あの、最初からというのは……?」


 教授はわたしの質問に答えることなく、テーブルに置いてあった何冊かの本を手にした。


「次回は隣国について復習しましょう。以前お渡ししたこれらの本は、まだお持ちですか?」

「はい、すべて揃っています」

「では、次は本をお持ちください。ここ十年の外交に関して確認しますので、読み返すことも忘れないように」

「はい」


 気になることは多々あったけれど、これ以上訊ねても教授が答えてくれないことは雰囲気でわかった。おそらく、わたしの知り得ない王城との取り決めに関わることなのだろう。それなら無理に訊ねたりするべきではない。

 こうして王太子妃になるためのお妃教育のほとんどは復習という形になり、滞りなく進められることになった。


 ウィラクリフ殿下の訪問がなく教授の授業もないこの日、昼食後に殿下が手配してくださった仕立て屋がやって来た。挨拶のときに聞いた名前で、すぐにハルトウィード殿下に賜った衣装を仕立てていた老舗の仕立て屋だということがわかった。直接会うことはなかったものの、相手もわたしの名前には聞き覚えがあるはずだ。


(やっぱり多少は気まずいかな)


 そう思っていたけれど、教授のときと同じで先方はまったく気にしていないように見える。それにホッとしつつ、手際のよい作業風景に少しばかり見入ってしまった。


(そういえば、こうして直接採寸や生地当てをするのは初めてだ)


 ハルトウィード殿下のときには、似通った体型の人用に仕立てられた衣装が届くだけだった。そのため、中には袖を通すまでもなく大きさが合わないと思われるものも混ざっていた。

 わたし自身も自分専用に仕立てた服は着ていない。そこまでの余裕が我が家にはないからだ。そのため殿下に賜った衣装も侍女に頼めばいつものように調整できただろう。しかし、そうまでして着たいと思う衣装は残念ながらなかった。


(ハルトウィード殿下がお選びになる衣装は、どれも煌びやかすぎるんだ)


 それに比べると、ウィラクリフ殿下が選ばれる生地は派手には見えない。しかし大変高価なものだということは、わたしにも想像できた。

 これまでは、殿下がいらっしゃるときに生地を見せていただくだけだった。それを持っている服に合わせて仕立て屋で仕立て、完成したものをこちらで調整した。今回もてっきりそうするものだとばかり思っていた。

 ところが、きちんと採寸して一から仕立てるのだと聞いて驚いた。「本当はもっと早くに採寸する予定だったんだけれどね」とは殿下のお言葉で、遅くなったのはできるだけまとめて採寸と生地当てを行うためだと言われて目眩がした。なんてもったいないことをと殿下に訴えはしたものの「これは普通のことだよ」と微笑まれ、「すでに仕立て屋を呼んであるからね」と言われてはどうしようもない。


「次は、お目の色に合わせた淡い灰青色の生地を合わせていただきましょうかね。それから、こちらの少し紫がかった白と、全体に刺繍が入ったこちらの生地でも礼服を仕立てるようにと承っておりますから、こちらの生地当てもさせていただきますよ」

「はい……」


 すでに殿下からは三着分の生地を見せていただいている。ということは三着もの高価な服を賜るということだ。それなのに、さらに三着分の生地当てもするのだという。しかも、そのうち二着は礼服だという話だ。


(たしか以前、純白と薄紅色、それに淡い空色の生地をご覧になりながら「これも礼服にしよう」とおっしゃっていたような……)


 殿下のお言葉が真実なら、あちらも礼服に仕立てるということなのだろう。


「あの、殿下からすでに礼服の手配をしたと伺っているのですが」

「えぇ、承ってございますよ」


 恰幅かっぷくのよい夫人が、お針子や荷物運びの使用人たちにあれこれ指示しながらそう答える。


「それで、また二着も礼服をと言うのは……」

「あと数着、別の色で仕立てるようにと承ってございますよ。まだ生地が全部揃っておりませんので、近いうちにもう一度お伺いさせていただくことになりますね」

「え……?」


 さらに礼服を作るという話に驚いた。王太子妃になるとはいえ、そんなにたくさんの礼服が必要だとは思えない。そうなると多くの礼服が無駄になってしまう。


「そんなにたくさんは、必要ないのではと思うのですが」

「一番お似合いのものを選びたいのだとおっしゃられていましたから、思いつくすべての生地でお作りになるのでございましょうねぇ。それにわたくしどもの品は作り替えることも可能でございますからね。必要でなくなったぶんはすべて、普段お使いになる服に作り替えるようにとも承っておりますよ」


 ということは、礼服の数だけ賜り物の服が増えるということになる。それはさすがに無駄遣いのしすぎではないだろうか。

 そもそもわたしにはご令嬢方のように着飾る趣味はない。殿下の伴侶となっても男である自分には表の仕事はないだろうし、王族らしい服もあまり必要ないはずだ。


(……あれ? 作り替えることができる?)


 夫人の言葉が引っかかった。


(ハルトウィード殿下からの賜り物も、すべてこちらの仕立屋のものだったはず)


 ということは、あれらの衣装を仕立て直せばよかったのではないだろうか。わざわざ一から仕立てるよりも手間がかからないだろうし、そのほうが余計なお金もかからない。


「あの、ハルトウィード殿下から賜った服を作り替えたほうが、手間がなくてよかったのではないですか?」


 わたしの質問に夫人が動きを止め、しばらくこちらを見てからにこりと笑った。


「それは男心をご存知ないお言葉ですよ。殿方というものは庶民であろうと貴族であろうと、よその男に贈られた服を着せたがったりはしません。たとえ仕立て直したとしても嫌がるものでございますよ」

「そういうものですか?」

「そういうものでございますね」


 よくわからないけれど、老舗の仕立て屋が言うのならそういうものなのだろう。それでも自分にはもったいないと思わざるを得ない。


「生地の取り寄せに少しばかり時間と手間を頂戴しますけれど、一級品を扱えるのは仕立て屋としても嬉しい限りでございますからね。とくに花嫁衣装は腕の見せどころですから、わたくしどもも楽しみにしているんでございますよ」

「花嫁衣装、ですか?」

「王太子妃になられるんですから、たとえ男性用の礼服であっても、花嫁衣装として精一杯作らせていただきますよ」


 今回仕立てる礼服の中から婚約式と婚礼式に使うものを選ぶということなら、たしかに花嫁衣装のようなものだ。


(花嫁衣装か……)


 花嫁衣装と聞くと戸惑いもあるけれど、見た目だけでいえば普通の男性用礼服と大差ない。そのことに少しだけホッとした。

 ハルトウィード殿下のときに用意された婚約式の礼服は、女性らしいふわふわとした部分が多かった。これを自分が着るのかと思うと頭が痛くなったのを思い出す。しかしウィラクリフ殿下に見せていただいた生地はどれも落ち着いた雰囲気で、今回の生地も一般的な礼服に見えるだろう。


(見た目はそうだとしても、金額は一体……)


 そのことを考えると別の意味で頭が痛くなった。


「それに随分と前から生地のことは承っておりましたから、遠い異国のものも問題なく間に合いますよ」

「え……?」


(随分前からというのは……?)


 どういうことか訊ねようとしたけれど、夫人に「次の生地を当てますよ」と言われ、体をくるりと反転させられてしまった。


「あとは靴でございますね。こちらは長年付き合いのある靴職人を連れて参りますから、次は足の型取りと革合わせもいたしましょうかね」

「え? あの、靴も作るんですか?」


 驚いて振り返りながら問いかけると、当然だと言わんばかりに頷かれた。


「もちろんでございますとも。靴も一式揃えたいと殿下から承っておりますからね」


 体に当てられている生地を見て、きっと靴に使う革もこの生地のように高価なものに違いないと予想した。


(これでは、本当に無駄遣いになってしまう)


 これまで服も靴も仕立屋に頼んだことのないわたしは、途方に暮れそうになった。

 その後、殿下にこれ以上は服も靴も必要ないと訴えてはみたものの、「これはわたしの楽しみでもあるんだよ?」と微笑まれてしまい、結局断ることはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る