第31話 これでも怒っているの

 酒場の奥に通じる扉からソナマナンが現れたとき、クルシェは安堵の息を吐いた。


「遅かったすね、ソナマナン。何かあったんすか?」

「ちょっと面倒な相手がね。そっちも大変だったみたいじゃない」


 ソナマナンはクルシェに目を向ける。


 クルシェの額から右頬にかけて一筋の血が線のように流れている。ウィロウの一撃がクルシェの頭皮を浅く裂いていたのだ。

 以前、ソウイチとの一件があってから手巾を持ち歩くようになったクルシェが鮮血を拭き取る。


「これは大した傷ではないから平気よ。だけれど敵は九紫美とハチロウだけだと思っていたのに、まだ強いのがいたなんて。誤算だったわ」


 遠くで横たわるウィロウをみやってクルシェが言った。


「でも、今頃は酒場の店主がクオンに連絡を入れているはずよ」

「予定では、ハチロウか九紫美が私達を始末しに来るのよね。ま、ここの用心棒が全

滅したことを知れば、嫌でも二人のどちらかを寄越すしかないわ」


 ソナマナンが黒髪を指ですいた。いつもなら光沢のあるそれは埃やら何かの破片で汚れている。煩わしげに髪を払って椅子に腰かけた。


「でもさ、その二人はべらぼうに強いんでしょ? 危なくなったらどうすんだよ」

「大丈夫よ。裏口があるし、そっちには誰もいないから。あ、でも、つまずかないように注意しないと」

「何につまずくんだよ……」


 仕事柄、死体は見慣れていると言っても平気なわけではないらしく、ソウイチは死体の少ない端っこに移動しようとした。が、その服の裾を掴んだクルシェがソウイチの動きを阻む。


「な、何だよ」

「私の傍から離れないで」

「きゃー、ヒューヒュー」


 口笛を吹いていたソナマナンの横の壁にクルシェの手から飛んだ刃物が突き立ち、ソナマナンが首を竦めた。


「いつ敵が来るともしれないもの。ソウイチを守れる保証もできないし、離れられたら困るの。分かった?」

「ああ、分かったよ」


 一応は彼のことを気遣ってくれているらしく、ソウイチは素直に頷いた。


 クルシェはソウイチを連れて酒場の真ん中近く、表口と裏口が見渡せる場所に陣取った。敵が現れればすぐに対応できる位置だ。


 壁際に座るソナマナンは遮蔽物が近くにあり、酒場の入り口から見えづらい。ソナマナンだって何も考えずに座っているわけではないのだ。


 クルシェは注意深く扉を見守っていた。ふと入り口から目を離し、また戻したとき、そこに黒い人影が佇んでいた。


 思考を省略して肉体が反応した。

 クルシェがソウイチに体当たりして、二人がもつれ込むように円卓の影に倒れた。それと同時に銃声を纏った朱線が二人を追って円卓に食らいつく。


「え、何? 何なの⁉」


 銃声で初めて異変に気付いたソナマナンが床に伏せて頭を抱える。


 クルシェが円卓から顔を出すと、夜の闇が人間の姿を借りて具現化したような、本当に暗い女性が立っている。その手に持つ拳銃が溜息のように紫煙を吐いていた。


「あら、おとなしくしていた方がいいわよ。苦しむ時間が伸びるだけ」


 その外見に相応の沈んだ声音がクルシェに放たれた。


「あなたが九紫美?」

「ええ」


 これから殺す相手に興味もないのか、最小限の言葉で九紫美が答えた。


 九紫美が立つ横の表口が開き、新たな人物が現れた。

 浅葱色の瞳と黒い頭髪の優男。

 もう一人、クルシェと同等の小柄な体格で、ソバカスのある素朴な顔立ちの女性だった。


「クオン。なぜ車から出てきたの」

「そう言うなよ、九紫美。俺がいたって邪魔にはならないだろう」

「それは、そうだけれど」


 九紫美は困ったように眉を寄せると、瞬時にそれを打ち消してエンパを見やった。


「エンパ、若頭をお守りするのよ」

「了解っす」


 エンパは機関銃を構えてクオンの前に移動したが、酒場の一画に倒れ伏すウィロウを目にして激情を露わにした。


「ウィロウ! クソ! あたしの舎弟を、よくもやりやがって……!」

「そこにいなさい。殺すのは私がやるわ」

「……は、はい」


 エンパをその場に留めると、九紫美はクルシェに歩み寄ってきた。急ぐこともない自然な歩き方だ。


「ソウイチ、ここに隠れていて」

「お、おう」


 クルシェは円卓から飛び出すと、即座に二本の短剣を投擲する。


 それに対して九紫美は動じずに狙いを定めて刃物を撃ち落とした。仮に当たっても何の意味もないが、その程度の攻撃は魔力に頼るまでもないという示威でもある。


 クルシェが愛刀の死期視を提げて九紫美に突撃する。九紫美の拳銃が吐き出した銃弾の間隙を縫ってクルシェが疾走した。


 クルシェの左手から放たれた刃が文字通り九紫美の胸を貫いた。だが、その刃先は彼女の肉体を素通りして背後の空間を走っていく。


 前もってリヒャルトから聞いていた九紫美の魔力を知っていたこともあり、クルシェは面食らうこともなく九紫美の懐に入った。右手の短刀を振るって九紫美の首筋や腹部を薙ぎ払うも手応えは無い。


 連続するクルシェの斬撃は水を切るように九紫美の身体を通り抜けるだけだった。


 九紫美は余裕を持ってクルシェを照準し、引き金に当てた指に力を加える。続けざまに火箭が宙を焼いたが、クルシェの柔肌が傷つくことは無かった。


 お互いに無傷であっても、面に焦燥の色が濃いクルシェと、必殺の一撃を狙いすます九紫美とではその意味合いが大きく異なる。


 九紫美の魔力、〈逆照さかてらし〉は自身の肉体を影のように実体の無いものにし、あらゆる物体を透過できる能力だ。

 銃弾だろうが刃物だろうが、九紫美を傷つけられるものはこの世に存在しない。


〈逆照らし〉の適用範囲は自身の『影』である。彼女の衣服や手にする拳銃なども九紫美の影に含まれるため、彼女の肉体同様に透過能力が適用される。

 しかも、拳銃から放たれた弾丸は『影』から分離していることで、実体として敵を殺傷できる。


 九紫美の『逆照らし』があれば、彼女を害することができる者などいるはずがない。これまで幾人も名の有る人物が九紫美に屈したのも当然である。


 クルシェには、九紫美を殺害する手段が存在しないのだ。その逆に、九紫美は防御を考えることなくクルシェを攻撃できる。


「あなたでは、私は殺せないわ。お分かり? 小娘」


 どれだけ攻撃を積み重ねても通用しないクルシェは後方に飛び退くと、刃を顔の前に構えて息を吐いた。肩が上下しているのは疲労だけのせいではないだろう。


「聞いた通り厄介な魔力ね。あなたに教えてほしいことがあるの」

「何かしら?」

「あなたが殺した人間に、フリードは含まれているの?」


 九紫美が小首を傾げて問い返す。


「心当たりが多くて、名前だけ聞いても分からないわね。どういう人なの」

「半年くらい前、サクラノ街二丁目の裏通りで死んだ、三十代後半の大男よ」

「ああ……」


 九紫美は薄ら笑って朱唇を開いた。


「あの木偶の坊がそうだというなら、確かに殺したわ」

「……そう」


 養父であるフリードを殺害した張本人が判明したにも関わらず、クルシェの表情は静かだった。


「そのフリードという男、あなたに関係があるの?」

「……私の父親よ」

「あら……」


 ゆっくりとクルシェは左手に投擲用の刃を持ち、まだ戦意を衰えさせない光彩を放つ茶色の瞳で九紫美を見据えた。


「私の答えを聞いて怒るのかと思ったけど、随分と冷静なのね」


 クルシェが短刀を投げ打った。切っ先は九紫美の眉間を貫通して遥か後方の壁に突き立ち、クオンが背筋を冷やしたように顔を向けた。


「これでも怒っているの」


 九紫美の長髪がたなびいたとき、すでにクルシェは九紫美とすれ違いざまに短刀を振るっていた。

 九紫美の魔力がなければ首の半ばまで切断されていたはずの、強烈な斬撃はやはり空を切っている。


 攻撃が無効化されていることに頓着することもなく、クルシェは刃に憤怒を宿らせて攻勢をかけ続ける。

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