無口だったおじいさまの日記帳

相内充希

無口だったおじいさまの日記帳

 エブリン・ブアが十五歳の時、優しかった祖母が亡くなった。

 そして一年後の冬。

 エブリンが十六歳になって間もなく、祖母よりも二十も年上だった祖父が眠るように息を引き取った。雪が多い冬だった。


 この国では、死者の魂は春に旅立つと信じられている。それまでは、家族や友人など、縁のある人や場所を旅し、ゆっくりと死者の国へ旅立つ準備をするのだ。


 そして春の女神が訪れる花月。まもなく前の年に亡くなった者の魂を送る祭り、リヴィワールがはじまる――。




「お母様、それは何?」

 母が大事そうに胸に抱いている帳面を見て、エブリンは首を傾げた。

 祖父が紙の製造卸で財を成したため、家にノートや本があるのは珍しくない。だがエブリンの母は読み書きがあまり好きではない。それでも甘美な恋愛小説だけは好むためか、書斎にはその手の本がたくさんある。きっと祖母が買い集めてくれたのだろう。

 そんな母がノートを抱きしめている。しかもその目は涙で潤んでいるので、エブリンは唖然とした。

 祖母の葬儀の時も、祖父の葬儀の時も、気丈に振舞っていた母だ。

 普段ふわふわと砂糖菓子のような見た目と振る舞いをする女性なのに、ここぞという時は父よりも男前な母が涙を浮かべるなんて、いったい何があったのだ。


 そんなエブリンを見てクスっと笑った母は、目元を指で拭った。

「驚かせたみたいね。――ああ、これね。これはお父様、じゃない、あなたのおじいさまの日記よ」

「おじいさまの日記?」

 母が差し出した帳面は、光沢のある布張りのものだ。古くからうちで扱っている定番商品。祖父が作ったこの帳面が当たったため、ブア家は大きくなったともいえる。


 祖父は職人で、同時に商売人だ。働き者だけど無口で、見た目が大きくて怖い。亡くなる直前でさえ腰も曲がらず、エブリンの父よりもがっちりしていたくらい。

 そんな祖父に嫁いだ祖母が朗らかで可愛らしいので、当時を知っている人たちは、それはそれは驚き大騒ぎだったらしい。

 何せ何もかもが正反対だったのだから。


 だから日記が祖父のものと言われ、きっと中身は用件だけを箇条書きにしたつまらないものなのだろうと、瞬時にエブリンが考えたのも無理はないはずだ。祖父は仕事の話はできるけど、家族間での会話でさえ「うん」「ああ」「わかった」など、いつも一言。その分祖母がおしゃべりだったのでいいバランスだったのだろう。


 差し出された日記に手を伸ばそうともしない娘に、母はいたずらっ子のようにニヤリとした。

「びっくりしたでしょう? おじいちゃんの日記、三十八冊もあるのよ」

「うわぁ……」

 思わず引いたエブリンの顔に、今度こそ我慢できないという風に母が笑い転げる。


「あなたがこれを、どんな風に想像しているかわかる。私もそうだったもの。でも読んでみるといいわ。半分はリヴィワールで火の神にささげてしまうから」

 死者のものを火にくべ、死者と共に旅立たせるのだが、日記もそうらしい。

「半分なの?」

「そう、半分」

 そして帳面をエブリンに押し付けるように渡すと、「いいから読んでみなさい」と片目をつむって去って行ってしまった。

「あっ! ほかの日記はおじいさまの机に置いてあるから。あそこで読むといいわよ」

 振り返った母に、エブリンは仕方なく頷く。

「お母様から何か読めなんて言われたの、初めてだわ」


 呆然と母を見送り、エブリンは何か得体のしれないものを見るように、自分の手の中の帳面を見つめた。


 どうせ今日の用事は終わっている。午後はエルザでも誘って遠乗りでも行こうかと思ってたけれど、窓の外は少し雨の気配がする。おじいさまの部屋ならば、こんな日でも快適に過ごせるはずだ。

 小さい頃はよくお人形を持参して、祖父の部屋で遊んでいたことを思い出し、たまにはこんな日もいいだろうとエブリンは肩をすくめた。

「ささっと流し読みをすればいいか」



 祖父の部屋の大きなソファに落ち着き、ノートを広げるまでは確かにそう思っていた。日記は祖父らしい力強くも流麗な文字が並んでいる。机の上にどんとおかれたノートは見なかったことにして、適当なページを開いて読み始めたエブリンは、やがて時間を忘れ、むさぼるように祖父の日記を読んだ。


『愛しのエイリン』

 祖父の日記に一番多い言葉はたぶんこれだ。エイリンは亡くなった祖母の名だ。


『愛しのエイリン。

 私は今、クィームにいる。馬車の故障で足止めされたためだ。サーカまではまだ三日の距離だというのに。君と離れてまだ二日だというのに、もう二年は会っていないような気がする』


 エブリンが開いたページは、祖母と結婚したばかりのころのようだ。

 あの無口な祖父が!

 どれほど妻に会いたいか切々と書かれるその日記に、だんだんエブリンはそばで誰かがこれを語っているような錯覚に陥った。声が聞こえ、徐々に光景までもが浮かんでくる。


 エブリンはいったん日記を閉じると、日付を確認してもっと前のものを探し当てた。仕事を始めたばかりの、若者らしい祖父。失敗や希望に満ちたそれをさっと流し読みし、祖母と出会ったころの日記を見つけた。


『愛しのエイリン。

 君に初めて出会ったとき、私の心に初めて太陽の光が届いたような気がした。君の笑顔に温かく満たされ、同時に焼け付くように痛む心を、私は持て余した。

 だって私は君よりはるかに年寄りで、君にふさわしい若者はたくさんいる。

 ブリスなどは、病気の両親を看取った君を嫁き遅れなどと言っていたが、冗談だろう?

 私から見れば二十三歳なんて、まだまだ若い娘ではないか』

 ・

 ・

 ・

『愛しのエイリン。

 この日記の書き初めにこの言葉を添えるようになってから、もう一年になる。

 一年前に想像することなどできただろうか。君が私の花嫁になるなど。

 仕事ばかりで他に何もできない私に、君が寄り添ってくれるなど。

 胸が早鐘のように打つせいで眠れそうにもない。

 君の花嫁姿はさぞや美しいだろう。

 絶対に君を幸せにする。ああ、絶対だ』

 ・

 ・

 祖母を花嫁に迎えた祖父の日記には、やがて生まれた母のことも書かれるようになった。温かい言葉に、エブリンが知るはずのない赤ん坊だった母が見える。

 若い祖母に抱かれる母。祖父が抱くと、手足を広げ身をくねらせて泣くので淋しそうにする祖父。

 祖母がどれだけ愛されていたか。

 母がどれだけ愛されていたか。

 そのことに胸が熱くなる。

 途中から祖母にこの日記が見つかり、時々交換日記のようになっているが、やっぱり主になるのは祖父の手記だ。


 母が結婚するとき、父がブア家に入ってくれて嬉しかったこと。

 エブリンが生まれて、世界一の宝物が、さらに尊い宝物をこの世にもたらしたと喜んでくれたこと。エブリンという名前は母同様、祖母に由来した名前だということ。

 エブリンさえ覚えていないような、ささやかな出来事までもが色鮮やかに描かれていた。小さい頃のほのかな初恋までばれていて、思わず頬が熱くなる。


 無口な祖父は、日記の中ではおしゃべりだった。


 夕食もそこそこに切り上げ、夢中で日記を読んだ。

 父は不思議そうだったけど、母は小さく笑って「好きにさせて」と言った。

 その言葉を背中で聞いて、半分はなくなってしまうのだと思い出し、エブリンは胸が痛くなる。


 祖母が病に倒れ、あっという間になくなったときの苦悩。

 表にはそんな姿は全く見せなかったのに、こんなにも苦しんでいたことを初めて知った。

 おばあさまが亡くなって、一番悲しんだのは祖父だったと。そんな当たり前のことに、このとき初めて気づいた。

 祖父はこの日記を支えにして、表面上気丈にしてたのだ。




 翌朝。

 徹夜で日記を読んだエブリンが母に、

「どうしても全部残すわけにはいかないの?」

 と聞くと、母はしっかりと頷いた。

「それがおじいさまの望みだから。おじいさまはこの気持ちも一緒に持って、向こうで待っているおばあさまに会いに行くのよ」


 残してくれる半分の日記は、母が結婚した後のものだけ。

 それだけは母が祖父にねだったのだそうだ。自分が死んだら持っていくからと。


 それを聞いてエブリンは頭を強く殴られたような衝撃を受けたけれど、ぐっと涙をこらえて頷いた。母が少しうらやましかった。


「私、おじいさまみたいな方と結婚したいわ」

 きっぱりそう言ったエブリンに、母は少し驚いた顔をした後、にっこり笑って「そうね」と言った。そしてエブリンに身を寄せると内緒話のように声を小さくして、

「でもそれは、お父様には内緒にするのよ? 泣いてしまうから」

 などと言うので笑ってしまう。


 父が泣くところなんて想像もできないけれど――――でも、そうなのかもしれない。


 まもなくリヴィワールがはじまる。

 これからは自分も日記をつけようとエブリンは決めた。


 最初に何を書こう。祖父の日記にそっと挟んであった押し花のしおりを、こっそり抜いたことにしようか。幼かったエブリンが、祖父に初めて渡した小さなプレゼント。それをこんな風に大事に残してくれた、不器用で優しかった祖父のことを――――。

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