「キッチンにさよならを・下」
例の女性は連絡した翌日には店まで引き取りに来た。私が新品の調理器具を並べて見せると驚いた表情でそれを眺めていた。私が言われるがまま持ち帰ってきた調理器具の一式であるが、これで最低限は揃っているらしい。ショーケースの上に並んだ銀色の器具を何度も見つめ直し、彼女は納得した様子で頷いた。
「多分、大丈夫だと思います」
彼女はそう言ってから、何か思案している様に見えた。暫しの間があって、躊躇いがちに口を開く。
「良ければ、一緒にいかがでしょうか」
「え?」
「その、料理を」
その突然の申し出に少し悩んでから私は頷いた。
約束の日になって彼女を訪問する。彼女の家は広い庭のある戸建て住宅であり、そこで何かしらの準備が進んでいた。彼女はジーンズと黒のシャツという飾らない出で立ちで、その手には目の粗い白の手袋をはめている。金属製の長い棒を持っていて庭に置かれている土の壺らしきものの中に突っ込んではかき回していた。壺の中では黒い塊が静かに燃えていて、その上に焦げ付いた金網を乗せている。
「昔はキッチンというものが家にあって、料理の出来るスペースがあったというのですが。私の家にはそれがないので」
彼女は此処で食材に火を通すつもりらしい。
料理を屋外で行うという事実に私は少々目眩がした。しかし料理屋で見た光景と言葉を思い出す。加熱するので大丈夫だろうと信じたい。
この壺は、七輪と呼ばれる道具らしい。中で燃えているのは炭化した木材、所謂炭と呼ばれる物だ。これを用いる事により熱効率が非常に良くなるとの事だった。
骨董品として売れるだろう代物を、何故彼女が持っているのかが気になった。彼女にそう問いかけると、そもそも料理をしてみようと思った切っ掛けがこの七輪なのだと言う。
「倉庫から出てきた祖母の遺品なのですが、使い方も知らないまま捨ててしまうのは何故か寂しくて。それに料理という文化を知りたかったんです」
七輪を覗き込むと独特の匂いが目に染みた。炭の内側から赤色が漏れだしていて、微かな熱を感じる。これで火の用意は出来たらしい。飲食店の時とは随分様子が違う。
食材の準備をするという事で家の中に招かれた。リビングのテーブルの上に木の板が敷いてあり、その上には私が持ち帰ってきた調理器具の一つである包丁が置いてあった。調理専用の大振りの刃物の事である。
テーブルの上には他にもステンレス製のボールだとかトングだとかが並ぶ。殺菌用のアルコールスプレーをテーブルの隅々まで吹きかけて、彼女は気合を入れるように一つ頷いた。
テーブルの隅には未加工の野菜と生の魚が置いてあった。フードセンターから送られてくる加工済みの料理とは全く違う臭いがする。生臭さ、と呼ぶべきその臭いに顔が歪まない様に我慢をした。生の魚がテーブルの上に横たわっている光景は、なかなかに強烈で、私は目を合わせないようにしながら疑問を口にする。
「食材はどうやって手に入れたんですか」
「親戚に農場を経営している方がいまして、野菜は譲ってもらいました。魚もです。本当は自分で用意すべきだったのでしょうが」
「それは難しいと思います」
「でも、それでは料理というものを全て理解出来ていないのではないかと思って」
彼女が言いたい意味は分かった。これが過程を知るための儀式めいたものだとするならば。欠けているものが幾つもある。料理という行為に、いや食べると言う行為に、関わるその全てを知るべきではないかと彼女はきっと思っている。
けれでも、と私は首を横に振る。その言葉は確かに正しいけれども、と。
「きっとそれだけで十分です」
多分、そうであろうとするだけで価値がある事もあるのだろう。
あの料理屋の女将と比べると遥かにぎこちない手付きで彼女は包丁を動かし始めた。素人目に見ても危うく見える。危険な行為だと思ったが、しかし数十年前までは誰もが行っていた行為なのだ。私達はそのリスクを負う必要すら無くなった時代に生きている。
野菜を一口大に切ると、銀色の串にそれらを刺し通していく。その行程は私も手伝った。問題は魚だった。ヤマメという手の平程の大きさの川魚であったが、これを捌くのに苦戦する。腹の部分に包丁を差し入れて身体を開くという行為に、私のみならず彼女も顔をしかめていた。腹から掻き出した血の混じった内臓に、彼女が手を止めてしまって。私は意を決して彼女と交替した。
手に触れる柔らかで水気の含んだ感触。それを我慢しながら内臓を取り除く。彼女から教わった方法通りに、串を魚の口から通して身を貫いていく。身が柔らかくて上手く串が通らなかった。既に死んでいるのだと分かっていても、その魚の目を見ないようについ視線を背けてしまう。
一連の作業が終わっても掌には、あの柔らかな感触が消えなくて、私は何度も手を握り締めた。作業を肩代わりした事について、彼女は何度も私にお礼を言う。
殆どの食材に串を通し終わると、それを持って庭の七輪へ向かう。七輪の適した使い方として串に通して食材に火を通すのが良いらしい。全部串焼きにしてしまったのは味気なかったかもしれない、と焼き始めた後に彼女は言う。
そうは言っても私には他の選択肢が分からない。熱に煽られて串に通した魚の身から水滴が垂れた。彼女はそれを真剣に眺めている。
「何を作ろうか、何が出来るのか。そんな事を悩んだのも初めてでした」
彼女の言葉に私はただ頷いた。
フードセンターから送られてくる食事のメニューは全て決まっている。選択肢など無いし、無いと感じた事すら無かった。
毎日、適切な量が、適切な内容が、適切に送られてくるのが当たり前だった。けれども、きっとその裏には私の知らない工程が幾つもあって。其処に至るまで様々な歴史があって。私はそれをどう評価すべきか知らない。それが価値ある成果なのか、私は知らない。それ以外の世界を、それ以前の世界を、知らないのだから。あの老人の言葉を、あの老人達の選択肢を信じる他ないのだ。
けれども、それがいつしか呪いに変わってしまわない様に、私達は知る必要がある。掌を何度も握り締め直しながら、その感触を確かめながら、私はそう思う。
「焼けてきましたね」
魚の皮が黒く焦げ付き始めて、その身から透明な汁が溢れ出す。先程までの姿とは打って変わって、その瞳は白濁して色を喪う。水分が抜けて萎縮し始めていた。横に並べていた野菜も徐々に色が変化していく。表面が炙られて軽く焦げると以前嗅いだ事のある匂いが周囲に充満しだす。
「初めてですから、上手くいったか分かりませんけれど」
彼女が言い訳の様にそう言ってから、恐る恐るといった様子で串を手に取った。私もそれに倣う。
この社会から消えていく物。私達が土台にしてきた物。私は、それに価値を見出せる人間だろうか。
そして、これは、どんな味がするだろうか。
「いただきます」
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