月光降り注ぐ夜にはあなたと
クララ
月光降り注ぐ夜にはあなたと
春の終わり、私たちは南の街に引っ越してきた。死んだパパの生まれた街。おばあちゃんが住んでいる街だ。
日差し降り注ぐ窓辺で私はオレンジジュースを飲む。深く濃くかぐわしい。まさに太陽の味。向かいで新聞を読んでいたママが言った。
「日光に当たるとダメな子がいるんですって。かわいそうね」
「ふーん」
適当に相槌を打ち、朝食を済ませた私はおばあちゃんのところへ出かけた。渡したいものがあるから来るようにと言われていたからだ。
「ルル。これよ。月光庭園」
それはおばあちゃんの庭の一番奥、生垣に囲まれた小さなスペースだった。
「?」
「月夜に歌う花園。真夜中が最高に綺麗なのよ」
そんな時間に誰が庭など見るというのだろうか。首をかしげる私におばあちゃんが囁いた。
「人魚よ」
南の街には海にまつわる話が多い。自分たちが人魚の末裔だと信じている人も。
「人魚なんて……」
「いるのよ、今だって」
「うそ」
「本当よ、鱗があるの。だけど人魚の頃とは違う。弱く頼りないもの、乾いちゃうといけないものになってしまったの」
「おばあちゃん、見たことがあるの?」
「ええ、一度だけ。その子が色々教えてくれたわ。だからこの庭を作ろうと思ったの。いつか招待できたらってね」
「招待?」
「そう、太陽の下では遊べないからね」
唐突に、朝の会話が蘇る。その子は確か、サーカス団の子で世界中を転々としているのだとママが言ったのだ。夜に一人、人知れず遊ぶのだと。もし彼が、おばあちゃんの言うように人魚なら、私は庭に招待したいと思った。
そのためにももっと花を植えようと、私はおばあちゃんと連れ立って市庁舎広場のマーケットへ苗を見に行った。おばあちゃん自慢の白つるバラを中心に花は増えつつあったけれど、まだまだ十分ではなかった。私たちは育苗園のブースで白い花を探して歩き、あれもこれもとワゴンに積んでいく。レジを待つ間、ふと脇にある花瓶に目がいった。
「わあ、綺麗」
「ああ、この花はね、月の涙、だよ。薄い花びらがまるで月光のようだろう? でも今年は不作でね、苗はないんだ。よかったらこれを持っていくかい?」
持ち帰った花を自分の部屋のテーブルに飾って眺める。透き通るような花びらが幾重にもなって波打っている。薄暗闇の中で、それは夢見るような美しさだった。
窓の外に膨らみ始めた月が昇ってきた。その光が一筋部屋に差し込んだ時、花びらが一枚、はらりと落ちた。音もなく、けれど途方もなく印象的な瞬間だった。そこから波紋のように、何かが広がってくるような気がしてならなかった。
翌日、私は一人ぶらぶらと街を歩いた。週末からこっち、ぐっと人が多くなった。観光客だ。夏のバカンスの始まり。広場には何枚もポスターが貼ってあった。
「あっ、移動遊園地!」
観光名所にもなっているアンティークの回転木馬。かつてそれを寄贈した一座がやってくるのだ。海辺の町の夏の風物詩、人気イベントだ。
ひとりぼっちの私のことを思ってだろう、ママがフリーパスを買ってくれた。出入り自由、見放題、遊び放題。私は嬉しくて、毎晩のように出かけた。
巨大なその移動遊園地にはやはりサーカステントもあった。もしかしたら、あの男の子がいるのではないだろうかと私は胸を高鳴らせる。だけど、何度行ってもそれらしい子には会わなかった。男の子はたくさんいたけれど、どの子も半袖のシャツからは日に焼けた肌がのぞいていた。そうじゃない……私は思うのだ。彼はきっと抜けるような白い肌で、そうこんな風に髪も瞳も白銀で……
「……いた!」
私は我が目を疑った。半月の明るい夜だった。色とりどりのライトに照らされた表側だけではなく、影になりがちなテント脇や屋台後ろまで、みんなみんな照らし出されている。その光の中を、まるで波をかき分けるかのようにゆったりと踊る姿があった。
バーレッスンだ。いつもなら鏡の前でやるだろうそれを、彼は一人月光の中で行なっている。そしてそれは……とんでもなく美しい光景だった。私は息を押し殺して見守った。
彼がくるりと回った。真ん中でボタンを一つ止めただけの大きめのシャツ。なんともけだるげなそれがするりと肩を滑った。首の後ろから背中一面。そこには青銀に光るうろこがあった。
「あっ!」
抑えきれず声が出る。しまったと口を押さえるけどもう遅い。彼は動きを止め、ゆっくりと振り返った。思い描いていた通りの白銀の目が私を見た。
「ごめんなさい、通りかかったのでつい……」
月光の精のような彼に完全に舞い上がってしまっていた。声が震えてしまう。
「本当、ごめんなさい。覗き見するつもりはなかったの」
「……僕が怖い?」
「え?」
「震えてる」
そう言われて我に返れば、確かに自分で自分を抱きしめていた。しかし怖いわけじゃない。興奮しすぎてどうしようもなかったのだ。
「違うわ。あなたが綺麗で驚いたの」
「綺麗? 気持ち悪いじゃなくて?」
「とんでもない。私、待っていたの。私の庭に招待する友達に会えるのを」
「庭に、招待?」
彼の戸惑いが伝わってくる。それはそうだろう。初対面でいきなりそんなことを言われても何が何だかわからない。でも引き下がる気はなかった。だから勇気を出していったのだ。
「明日もここにいる?」
「……多分」
「じゃあ、明日も来るわ。お話ししたいの。来てもいい?」
「……ああ、いいけど」
訝しがりつつも、彼は私のわがままを聞いてくれた。それから一週間、私はテント脇に足を運び、バーレッスンが終わった後の彼と話をした。
「私と一緒ね」
彼はお母さんがこの街の生まれだった。半分だけ海の香りがする仲間。
私の名前ルルは真珠という意味だ。南の海に憧れるママと、南の海をこよなく愛するパパが選んだ名前。だけど海を知らない私にはなんともピンとこなかった。この街に来てようやく何かが結びついてきたような気がしていた。
彼も一緒だろうか。この街に来て、自分にとって海の意味するものを感じられただろうか。彼の名前、アシュルとは幸せなものという意味だ。
「幸せねえ……日の光にさえ嫌われる僕が幸せ、皮肉だと思わないかい?」
「そうね、そうかもしれない。でも、誰よりも月に愛されていると思うわ」
「月かあ。だけどどんなに明るくても、やっぱり日の下みたいにはいかないよ。南の海辺にやってきても、僕は太陽からは遠いままだ」
「……大丈夫だよ、アシュル。私が輝く海に連れてってあげる」
「ルル?」
引っ越したばかりで心細かったことも、海への想いに複雑だったことも、幼い頃のパパとの思い出が消えてしまいそうで悲しいことも、みんなアシュルに話した。
彼も、私が想像もできないような今までのことを教えてくれた。初めて鱗ができた時の痛みや、太陽を諦めなくてはいけなくなった悔しさや、体質や家庭環境のせいで学校にもいけなかったこと、もちろん友達もいないこと。アシュルの切なさが伝わってきて泣きそうになってしまったけれど、続くサーカス団の話はまるでおとぎ話のようで、私はすっかり夢中になった。
「ルルがそんなに嬉しそうな顔をしてくれると、僕の人生もまんざらじゃないと思えてくるよ」
アシュルが白銀の目を細めて笑う。私はそっと手を伸ばし、大きくはだけたシャツの首元から見える鱗に触れた。シャリっと指先に感じる硬さと冷たさ。人魚だ。本当に人魚。おばあちゃんのいう通り、人魚はいたのだ。
そして……現代の人魚アシュルは月光の中を泳ぐように踊る。ヒレのように優雅に手足を動かして……ああ、なんて綺麗な人だろう。
「ねえ、鱗気持ち悪くない?」
「全然。大好きだよ、綺麗、とっても素敵」
そう言えば、喉の奥でアシュルが小さく笑った。誤解されてはいけないと、私は慌てて付け足した。
「鱗のことじゃないよ。鱗のあるアシュルが、大好きなの」
勢いよく言ってしまったものの、猛烈に恥ずかしくなって俯く。アシュルのちょっとハスキーな声が私を呼ぶけれど、ますます顔があげられない。
「ルルはずるいね。こんな時だけ恥ずかしがり屋だ」
拗ねた声にこれ以上のだんまりは無理だと顔を上げれば、思ってもみなかった距離に白銀の瞳を見た。見開いたままの目の中で世界が白になる。さっき触った鱗のようにひんやりとした何かが唇をかすめた。
それがアシュルの唇だと気づき、私は思わず後ずさる。全身の血が沸騰するかのようで、足元がおぼつかない。案の定よろめいた私をアシュルが支えてくれた。もう一度向き合えば、彼がそっと囁いた。
「今度は目をつぶっていてね。ルルのエメラルドグリーンの瞳は大好きだけど、やっぱり恥ずかしいや」
私はコクコクと頷いて目を閉じる。さっきよりも少しだけ温もりを感じる唇がそっと押し当てられる。二度目のキスはアシュルのまとう柑橘系の香りのように、私の胸を甘酸っぱさでいっぱいにした。
いよいよ満月も近づき、植えた花々の開花も秒読みだ。私は噴水の栓を開いた。水盤から下の八角形の水槽へと、無数の水滴が滴り落ちる。月光に輝くその出来栄えに満足し、私はアシュルを迎えに広場へと向かった。
「こっちよ、足元に気をつけて」
「え? ルル?」
庭の奥、木陰の扉に手をかけた私がランタンの火を消せばアシュルが驚いた声を上げる。頭上には煌々と満月が輝いていたけれど大きな木陰は完全に闇の中だ。
「大丈夫」
私はアシュルの手を握り、扉をそっと押した。その瞬間のアシュルの驚いた顔といったら……。
全てが見渡せた。水盤から落ちる雫の一滴一滴までもがくっきりと。空からは月光が惜しみなく降り注ぎ、地上では白花たちがその光を受け止めてさらにまばゆいものとする。テーブルも椅子も、噴水もブランコも。陽の下ではちょっとくすんで見えるような白たちがみな、息を吹き返したかのように華やいで見えた。そしてそこには潮騒が満ちていた。それは、光に満ちた白い花の海。
「信じられない……すごいよ、すごい!」
アシュルがくるくると月光の下で回った。白銀の髪が真っ白な肌が、まるで彼のために作られたかのような風景の中でひときわ美しさを放つ。その姿に私は見惚れた。と、噴水の周りを一回りしてきたアシュルが私をふわりと抱き上げ、そのまままた回り始めた。
「危ないよ、アシュル」
「大丈夫だよ。ルルは小さいから」
いつもなら口を尖らせて文句の一つも言うところだけれど、今日は自分の小ささが嬉しかった。こんな風にアシュルが抱いていてくれるなら、一緒に踊ってくれるなら、ずっとずっと小さいままでもいいんじゃないかとさえ思った。私たちは顔を見合わせてクスクスと笑った。
笑いながら一緒に水槽の淵に腰を下ろす。アシュルがそっと私の頬に左手を伸ばした。
「ルル、ありがとう。お礼がしたいな」
私は微笑んでそっと目をつぶる。ひんやりした柔らかさが唇に押し当てられた。やがてそれは温かさを増し、私たちがこの瞬間に生きていることを教えてくれる。水盤からの
夏の満月を皮切りに、移動遊園地はさらなる盛り上がりを見せる。営業時間は伸び、新しい企画が目白押しだ。アシュルも遊んでいられなくなる。しばらく夜のレッスンはできないと言われたけれど、私は毎日のようにテント脇に行った。もちろん彼はおらず、裏方に徹しているのだろう、イベント内にもその姿を見つけることはできなかった。
真夏の夜の宴はまさに熱狂の絶頂だった。けれどそれは、突然の終焉を迎えることになる。
嵐だ。夏の気まぐれな天候が、思いもよらぬ大きな変化を遂げた。海岸沿いでは避難勧告が出るかもしれないとテレビキャスターが声を張り上げる。私はおばあちゃんの庭へと走った。
暗くなる空の下、二人でできる限りのことをする。けれど庭をみんなしまいこむことはできない。花はきっと折れてしまうだろう。またアシュルと見ることを楽しみにしていたけれど仕方がない。それよりも……私は手早く花を切って小さなブーケにまとめ、休む間も無く広場に向かった。
思った以上の大騒ぎだった。街の人たちも応援にかけつけ、急ぎ移動の準備が始まっている。まずは動物たちを乗せたトレーラーが出発していく。右往左往する人たちの間を縫って、私は奥のサーカステントへと急ぐ。しかしテントはもうなかった。
「アシュル! アシュル!」
積み上げられたコンテナの間を走りながら私は叫んだ。トレーラーに乗り込もうとしている女の人を見つけて走る寄る。
「すいません! サーカス団の方ですか?」
「ええ」
「団にアシュルという男の子、いますよね?」
「……ええ」
「これ、渡して欲しいんです。ルルからだって」
「アシュルのお友達?」
「はい」
「そう、今年は来れなくてごめんね。北の街で静養中なの」
「え?」
「体調が悪くて。ちょっと厳しい夏だったから。でもこんなに素敵なブーケをもらったら、きっとすぐに元気になるわね。綺麗ね。月光を集めたみたい」
私は言葉がなかった。踊っていたのに? 話をいっぱいしたのに? 庭を見てくれたのに? 来て、ない……?
風が一段と強くなった。雨も降り始める。
「さあ、あなたも早くお家に戻って。ちゃんと渡しておくからね。ありがとう」
それから三日三晩、嵐は吹き荒れた。遠い昔からこの手の気まぐれと付き合ってきた街の人たちは準備も万端で、みな冷静にそれをやり過ごす。けれどいたるところに爪痕は残された。おばあちゃんの庭でも。自慢のつるバラは半分になってしまった。
「大丈夫。またやればいいんだよ。お友達を呼ぶ前でよかったね」
「え? だって、アシュル……」
「ん?」
私はぶんぶんと頭を振った。信じられない。おばあちゃんの中にもアシュルがいないなんて……全て夢だったんだろうか? 何が起きたのか釈然としないまま、とにかく花を見繕おうと、私は広場に出かけた。育苗園のおじさんに会い、無事だったことを喜び合う。
「月の涙、楽しみに待っていますね」
「ああ、ありがとう。そうそう、この間言いそびれたけれどあれには夢の力があるんだよ。未来を見せてくれるんだ。素敵な庭になること間違いなしさ」
その夜、私は一人空を見上げた。降り注ぐ月光、それはまるでアシュルのようで、優しく包み込まれる喜びを感じる。
次の夏、私たちは移動遊園地で出会うだろう。そして私は月の涙が咲き誇る庭に彼を招待する。甘く香る白い花たち。きらめく水しぶき。月光に満たされる時間。光の中を泳ぐように、きっとアシュルは鮮やかに踊るだろう。だから私は心込めて言うのだ。
「私の人魚さん、真夜中の月光庭園に、ようこそ」
月光降り注ぐ夜にはあなたと クララ @cciel
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