桜花の巫女
満天星
第1話 序
「兄ちゃん、早く帰ろうよ。もうすぐ夜になっちゃう。」
夕暮れのあぜ道を、二人の兄弟が歩いている。どちらもまだ幼く、弟はびくびくと周りの景色にに怯えていた。
「何だよお前。怖いのか?」
弟の手をひき、先を歩く兄は笑っていて相手にしない。
「だって、母ちゃんがこのへんには落武者がでるって言ってたよ。暗くなるとでるって。ねえ、早く帰ろうよ。」
「バカだなー、落武者なんて出るわけないだろ? もう戦は終わったんだか、ら……」
立ち止まり、弟の頭を撫でてやろうと振り向いた兄は言葉を失う。
「あァ……ァ、ああぁ」
何やらわけのわからないうめき声をあげながら、ずるずると這うような足取りでこちらに近づいてくる、あれは。
「で、でた!! 兄ちゃん、あれ! あれ!!」
すっかり興奮した弟は、あれを落武者だと思って指をさす。ほら、自分の言った通りだという気分なのかもしれない。
だが兄はーーあれを落武者だとは思えなかった。だって、明らかにあの出で立ちは異形のものだ。六尺をこえる人間はいるが、はたして九尺をこえる人間など、現実にいるのだろうか?
おまけに目深にかぶった笠からは、何か黒い液体がぼとぼととこぼれており、兄の背筋は粟立った。ーー間違いなく、あれは化け物のたぐいだ。生きている人間とは思えない。
「ゥ、……ァあああァァ」
化け物がこちらに気付き、唸り声をあげる。丸太のような腕が振り上げられた。
「に、逃げるぞ! 走れ、早く!!」
ようやく我に返った兄は、弟の手をひき懸命に走る。気がつけばあたりはすっかり闇に包まれていた。
(どうしてあんなものがいるんだ! 本当に落武者だとしても、今はもう出てくる時代じゃないぞ!!)
心の中で化け物への文句をわめきつつ、兄は走った。弟も自分も、とっくに息があがっていたが、あれに捕まれば命がないことを、本能的に覚っていた。
「兄ちゃん、足が痛いよ。もう走れないから、おれのことはおいてって、」
まだ五つの弟には、やはり辛いらしい。だが、ここで置いていけば弟がどんな目にあうか。兄はしゃがみこみ、弟を背負おうとした。
「おぶされ! 早く!」
だが弟は凍りついたように動かない。つられるように同じ方向へ兄が顔をむけると、
「つカ、まえ、たァァ」
ニヤリ、と鋭い牙が並んだ大きな口を開けて、化け物が
「あ、ああ、あ……」
ぽとり、と。歪んだ口元から落ちたのは、人の腕だった。あのこぼれていたものは、人の血だった。
「兄ちゃん、怖いよう!!」
怯えきった弟が兄にしがみつく。せめて弟だけでも逃がせないかと兄は立ち上がった。
「いいか、兄ちゃんが時間をかせぐから、お前は逃げろ。合図したら走れ、できるな?」
弟の肩に手を置き、兄が告げる。
「いやだ! 兄ちゃんもいっしょがいい!! じゃなきゃ逃げない!!」
だだっ子のように首を横にふる弟に、兄は叫ぶ。
「いいから逃げろ!! 兄ちゃんのことが心配なら、帰って大人を、」
最後まで言い終わるより先に、化け物の腕が振り下ろされる。小柄な兄は、枯れ葉のように宙を舞った。
「兄ちゃん! しっかりして!!」
顔中を涙でぐしゃぐしゃにしながら、弟が呼びかけてくる。辛うじて残っていた体力で、兄は弟の背中を押した。
「逃げろ……は、やく。」
全身が痛くて熱い。もうダメだと自分でもわかる。だからそのまま目を閉じようとしてーーふと、兄はしわがれた声で呟いた。
「神、様……どうか、弟、だけは」
届くはずなどないと、わかっていたのに、そう、願う。……届かない願いの、はずだった。なのに。
「ーーその願い、叶えよう。」
ちりん、と。涼やかな音色が響いた。
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