よろしく遊び、たんとお食べ

第4話 ごはんに味がある

　猫が思わず、という表情だったのに政はああと頷いて、ズボンのポケットから取り出したのは

「これです」

　ズボンのポケットにはいっていたカロリーメイト。

　栄養を補充し、ある程度の空腹感を満たしてくれる。

「万能ですよ」

「……」

「ぱさついたところはありますが、まぁ、それは妥協します。これを栄養ドリンクと一緒に、いたぁ」

　猫の右手――この場合は、前足か――ストレートパンチが政の頬にはいった。

「お前は馬鹿かぁ～～！　身体を壊しますよ！　もうもうもうぉ～。これは没収」

　素早く――さすが獣！　――箸と茶碗を持たされた。

「食べてください」

「野菜は嫌いですと」

「いいからお食べっ」

　仁王立ちした猫が尻尾を膨らませて怒鳴ってきた。たかだか猫なのに恐ろしい迫力だ。

「……」

「あなたは食べたら吐いちゃうとか倒れるあれるぎーとは違うんでしょ。食べられるんでしょ。この好き嫌い大王っ、お食べっ」

　抗議の視線にぷりぷりと怒った猫が言い返してきた。政は仕方なく箸を動かしてほかほかの白い米を口に運ぶ。

　ぷちぷちしていて、歯ごたえがある。そのくせ、噛めば噛むほどに甘く、臭みもあまり感じない。

　一口食べたら続いて二口、三口と食べていた。

　そのままの動きで野菜に箸を伸ばす。

　緑のものはピーマンかと思い避けて、丸く切られたにんじんを口にいれる。

　素揚げしたらしいそれに甘辛いたれは舌のうえで広がり、にんじんは柔らかく、口のなかで溶けていく。

　そのままかぼちゃ、きのこ……視線を感じる。

ジト目で猫が見ている。

　迷ってピーマンも食べる――しゃきしゃきしていた。

　味噌汁は白だしを使い、すっきりと甘い。具は大根だ。こちらは甘いのに少し辛く、ほくほくしている。

　食べ尽くして、からっぽの皿しか残らないテーブルの前で政は手を合わせた。

「……ご馳走様です」

「はい、はいっ、お粗末様ですっ」

　満足そうに猫がにこにこしているのに政は少しばかり負けた気分になった。

「今まで食べられなかったものが食べれたのは、たぶん、空腹だったんだと思います」

「むっ」

「この一週間、食べてなかったので、あ、いや……一ヶ月」

「え……はぁ？」

「離婚してから栄養ドリンクとたまにカロリーメイトを食べて過ごしていたので」

「……」

　無言で猫がのけぞっている。ここまでどん引きしたを態度ではっきり示されるのは面白い。

「味を感じました」

「味を、ですか」

　興味津々に猫が聞いてくるのに政は頷いた。

「味が、いまいちわからないんです。そのせいか、食べることが苦手で……今日は珍しく、味がしました。腹が減っていたうえ、あなたの不思議な呪いでもかかっていたんでしょう」

「失礼なっ。私、そんなことしてませんっ」

　猫が尻尾を激しくふって抗議する。こんなしゃべって仁王立ちする猫のどこに信用する要素があるのか。

　自分が腹一杯食べたことが、猫の利益に繋がるのかは不明だ。もしかしたら太らせて食べるつもりだろうか。

「それも、悪くないかもしれない」

「え？」

　つい、思ったままに口にした政に猫がきょとんとした顔で尻尾を伸ばしている。

「いえ。片付けを」

「わたしがします。お風呂わいてますよ」

　至れり尽くせり状態なのに政は一瞬、何か言おうとして思いとどまった。今日はこの猫のしたいようにさせておいたほうがいいのかもしれない。

「わかりました。風呂にはいってきます」

「はぁい」

　猫が嬉しそうな声をあげてくる。

　自分の世話なんてして楽しいのだろうか。いつも泣き出しそうな顔をしていた女性の顔が脳裏にちらついた。

　風呂はちょうどいい湯加減で、出ればちゃんとタオルと着替えも用意されている。着てみれば祖父のものらしい作務衣だった。袖を通せば、すーすーして着心地がよかった。

　居間に行くと片付けがされ、その奥の戸を開けてみると布団が敷いてある。疲れていたので、そのまま何も考えずに横になった。

「もう寝るんですか？」

　暗闇から声がしてくるのに目を閉じたまま答えた。

「……はい」

「そうですか」

「……先ほど言いましたが、俺は味覚が少し人よりもおかしいらしいです。味がわかりづらい。だから食べることは嫌いです」

「はぁ」

「あなたの作ったものは味があった」

「……私の、せいでしょうか」

　猫が、静かに聞いてくる。そんなもの、政だってわからない。

「あなたが側にいるから味があるのか、それとも、あなたが作ったから味がするのかは不明ですが、味がわかることは重要です」

「えっと」

「俺は、味がわかりたいんです」

「それはどうして」

「……」

　それを口にするのは、勇気が必要だった。

　けれど、しんしんと広がる闇にどんどん心が溶けていく。

「味がわからないから、俺は人を傷つけ、捨てられたんです」

　味がわからなくて何も食べたがらない政を相手に、母はあれこれと工夫してくれた。だが政はいやがり、食べようとしない。そのせいで母はノイローゼ状態に陥り、互いに距離を置いた。

　育ててくれたことに感謝しているし、ありがたいと思っているが、母はずっと政に申し訳なさそうな目を向けていた。

　口数の多くない父は傷ついた母をいつも支え、逆に我儘な政を疎ましい目で見ていた。

　独り立ちして、家を出たあとはひたすらに適当に食べていた。

　結婚して、妻も、同じように苦しめてしまった。

　弁当を残すと傷ついていた顔をしていた。自分はこういうものだし、食べることを強制しないでほしい。愛がないわけではないが、食卓は囲みたくない。妻はずっと食事を作り続けて――あるときを境に辞めてしまった。それはきっと彼女のなかの何かが壊れたのか。はたまた何かを捨ててしまったタイミングだったのだろう。

　だから不倫を知っても政は責める気にあまりならなかった。どこかで仕方がないという割り切りが出来ていた。

　あのとき、自分のことをいつも無言で見つめていた母の顔が妻とだぶった。