よろしく遊び、たんとお食べ

北野かほり

第一話・猫のお嫁さん

第1話 出会ったのは猫の嫁

 まるで自分そのものだ、と犬山政は思った。

 軽すぎるボストンバックを肩にかけて見上げるのは、今時珍しい日本家屋。

 立派な門はあるが、塀は朽ちている部分が多く、右手のところは途中で壁はなくなり、庭が見えている。

 どうも途中で作るのをやめらしいが、手抜きではなく、車が庭に出入りしやすいようにあえて、らしい。家の横にシャッターが下ろされた倉庫の前には車が何度か通ったらしい轍のあとが色濃く残っている。

 それでもわざわざ門をくぐってなかにはいると、小さな庭には木々が好きに生い茂っている。

 緑の匂いは濃く、鼻孔をくすぐる。

 そんななかを数歩歩けば平屋――いやよく見れば二階建て。

 正面に硝子玄関、右手は倉庫という作りの建物は歴史を感じさると同時に無造作に改築のあとが見える。

「ぼろいな」

 ぼそりと政は呟き、弁護士から渡された茶封筒から鍵を取り出した。

 鍵を差し込んだ引き戸は、からからと音をたてて開いた。

 なかからは長く人の住んでいないカビと埃の匂いがした。ねっとりとした空気が肌を撫でる。

 電気などに関しては連絡をいれているので、生活するには問題ないはずだ。

 ここには生きているものの気配がまったくない。

 それはそうだ。ここは亡き祖父の残した家なのだから、今は住んでる者は誰もいない。

 わかっているが、政は躊躇いがちに口を開いた。

「……ただいま」

 ぽつりと、いつもの生真面目さからついて出た言葉に当然返事はない。それがまた政を苦しめた。

 大股で家のなかにあがる。

 玄関からすぐに出る廊下、右手にある戸を開くと畳部屋に出る。テーブルの置かれた居間となっていた。

 思ったよりもきれいなその部屋に政が目を細めていると、とてとてと、と何かが動く音が、聞こえた。気がした。

「?」

 空耳か。それとも

「とうとう、ストレスで精神もきたしたか?」

 思わず愚痴が漏れた。

 妻が会社の上司と不倫して、すったもんだの挙げ句に離婚が成立したのが約一か月前。

 会社も巻き込んでの離婚騒動は、妻に金は渡さなかったし、上司は左遷された。原因の二人は手に手をとって出ていった。その背を見て精も根も尽き果てた政に、同僚たちがたまりにたまった有給を消化してはどうかと助言をくれた。

 疲れ果てていた政は素直に従った。思ったよりもすんなりと長期の休みはとれた。そのタイミングで申し合わせたように遺産についての手紙がきたのだ。

 これもなにかの縁かと思い、鞄を一つだけ手にとって向かった――祖父の死ぬまで住んでいた松山だ。


 四国の島国のなかでも、山と海が隣接している松山。

 山とも、海とも近いかといえばそうでもなく、しかし遠くもない。非常に微妙な距離の土地に祖父母は暮らしていた。

 住み慣れた東京から飛行機に乗り、あらかじめ頼んでいたレンタカーに乗り込んで三十分ほど走らせると建物はまばらになり、田んぼがてんてんと続く風景が広がった。

 田舎というほどに田舎ではなく、けれど都会というにはなにもない、それが松山だ。

 民家がまばらになった山道を進んだ先、田んぼのなかにどーんとある家が祖父のものだ。

 祖父の葬式は、去年の暮れのこと。

 葬式には出たが、面倒事は父たちがしてくれたのでほぼノータッチだった。

 いや、正確には妻との離婚騒動で余裕がなく、気が回っていなかった。

 だからまさか、この家を自分に譲るという遺言があったとは驚きだ。

 祖父母とは小学一年生の夏休み以外は、ほぼ会っていなかった。

 東京と松山の距離は近いとは言えないし、祖母をなくして心配して何度も父が東京に呼んだが祖父はこの土地を離れたがらなかった。都会暮らしの政にも、松山は魅力がある場所に思えず、薄情なことだが、わざわざ時間を作って会うこともなかった。

 ただ遺書と一緒に達筆な文字で「お前がいいとさ」と書かれた意味がわからない手紙が残されていた。


 雨戸をあけて、空気をいれる。

 とてとてと何かの動く気配がした。もしかして、ネズミかと思ったがそれにしては音が大きい。まさか、空き家と知って住み着いた不届きものがいたのかと身構えた。

 これでも柔道の黒帯だ。生半可ものに負ける気はない。

 争い事は嫌いだし、関わりたいとも思わないが、自衛のためならいくらだってやってやる。――そんなことを思うのも疲れと自棄になった。

 居間には武器になるようなものはないので、ズボンのベルトを抜いて息を整えた。

 とてとてとて。

 軽やかな音が、止まる。

 そして

 戸がすすっと開いた。

 政は片腕を大きくあげようとしたとき

「おかえりなさいませ、旦那様!」

 出てきた黒いそれに政はぎくりとして、腕を止めた。

 真っ黒い毛、鮮やかな赤い着物とそれを覆う真っ白いかっぽう着――耳と尻尾――目の前に現れたのは二足歩行の黒猫。しかも着物を身に着け、さらにはかっぽう着。なぜ?

「……」

 理解が追い付かない政は停止したまま動けない。

「おまちしておりました。きょうはなににいたしましょうか」

「……」

「おふろですか? それとも、ごはんですか。やだ、わたしなんて。まだ婚礼をあけてもないのに、あ、けど、旦那様がいうのでしたらわたしはいつだって」

 尻尾をふって、体をくねくね。照れている。黒猫が

「……あなたは」

 政は腕をゆるゆると降ろして聞き返していた。

「ふにゃあ?」

「あなたは、一体」

「わたしは、あなたのお嫁さんですよ!」

 二足歩行の黒猫が嬉しそうに答えた。

 ああ、自分はとうとう正気をなくしたらしい

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