夏の夜

きひら◇もとむ

第1話

よりによって今日の仕事はトラブルばかり。

『なんでこんなに続くんだ』

もしも神様がいるなら直談判したいほど。


「そいじゃ、お先ー」


必要以上に大きな声で挨拶する。

時刻は22時半をまわっていた。


「こりゃ、家帰ってるヒマはねぇな。昼間に買っといて良かった」


ネクタイを緩めながら、リヤシートに置かれたバラの花束を見て独りごちる。


車を走らせ、国道沿いの牛丼屋で並盛と玉子を掻っ込む。駐車場の隅に置かれた自販機でミネラルウォーターを2つ買い、再び車に乗り込んだ。

日曜の夜、日付が変わろうかという時間は車通りも少ない。昼間の賑わいが嘘のように静かになった国道は、青信号の連続で僕を歓迎してくれてるようだ。


やがて大きな交差点に差し掛かる。

突き当りのT字路。ウインカーを出し、ステアリングホイールをゆっくりと右に旋回させる。パワーウィンドウを降ろすと、車内に潮の香りが流れ込んだ。


アクセルを踏む右足を少し緩めると、波音が聞こえてくる。

夏の夜、海沿いの国道は特別な時間を僕に与えてくれる。


『また来てくれたんだね』


「ん、あぁ、まぁな」


助手席の彼女が微笑んだ。


『どうもありがとう。会えて嬉しい』


その言葉に僕は照れ臭くなり、タバコに火をつけた。紫煙が潮風に流されてゆく。


『あれ? やめたんじゃなかったっけ?』


「ん、まぁな。大人にはいろいろと大人の事情ってやつがあるんだよ」


『ふぅーん。大変なんだね』


助手席の彼女は納得したようにシートに寄りかかった。


『あ、そうだ。私ね、ハタチになったんだよ』


助手席の彼女は嬉しそうに言う。


「あぁ、知ってる」


『ホントに?』


「忘れるはずないだろ」


僕はくわえタバコのまま答えた。


『そうなんだ……ありがと』


「あぁ。早いな、15年なんて……」


信号が赤に変わった。エンジンが止まり静寂が訪れる。波音が聴こえる。僕はすっかり短くなったタバコを揉み消した。


「でもな、お前の晴れ着姿見てみたかったよ。きっと綺麗だったろうな」


僕の言葉に彼女が俯く。


『……ゴメンね。……ごめんなさい』


「ばーか。お前が謝ることじゃないだろ」


『うん……でも……』


「気にするな。お前のせいじゃないよ」


『……』


「それよりもこうして会えるだけで俺は幸せだよ。ありがとな」


『……うん』


彼女は小さく頷いた。


「それから、コレ。二十歳のお祝い」


リアシートに隠しておいたバラの花束を手渡した。


『えっ、あ、ありがとう。とっても綺麗』


「俺も嬉しいよ。お前が花の似合う綺麗な女性になってくれて」


『でも、私には何もお返し出来ないよ』


「いらないよ。会えるだけで幸せなんだから」


『ううん、違うの。私からも何かを……。あ、じゃあこれを』


そう言うと、彼女は花束から一本抜き取って僕に差し出す。それは彼女のような清らかで優しい香りの白いバラだ。




夏の夜は短い。間もなくして空が明るくなってくるだろう。


『今日はどうもありがとう。もう行かなくちゃ』


彼女に言われ、僕は涙が溢れ出した。

我慢していたわけじゃない。再び別れるのが悲しいのだ。


『泣かないで。私まで泣きそうになっちゃうから……』


彼女の白い指が僕の涙を拭う。


『タバコは吸わないでね。野菜もちゃんとしっかり食べるんだよ。それから少しお腹が出てきたみたいだから運動もね』


僕は言葉にできず、泣きながら「うん」と子供のように頷いた。


『それから……、私の分も長生きしてね、おとうさん』




ザザー ザザー

波音が聴こえる

潮の香りが鼻をくすぐる

ジリジリと刺すような陽射しに目を覚ます


短い短い夏の夜

ひとときの邂逅


僕はペットボトルのキャップを外し、助手席に置かれていた一輪のバラを挿した。


それは彼女のように清らかに優しく僕に微笑むかのように咲いていた。

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