第63話 真実に気づいた夜
京香は早々に帰るべきだと思って立ち上がりかけたが、水を飲む兵藤の苦しそうな表情を見て、ネクタイを緩めたらいいのにと思ってしまった。
そのまま立ち去り難くなる。
遠慮がちに手を伸ばし、一度ためらうように手を引き戻したが、最後は意を決したように兵藤の首元のネクタイに手を掛けた。
「あの……失礼します。緩めたほうが楽になると思うので」
兵藤の目が驚きに見開かれた。
その視線を避けるように俯きながら、結び目を緩めていく。
早くしなければと焦ったが、指先が震えて思ったより時間がかかってしまった。
ワイシャツの第一ボタンを外し終わって、素早くひっこめようとした手を兵藤が捉えた。
びくりとした京香が、申し訳なさそうな顔になる。
「すみません、出過ぎたことを」
「いや、楽になったよ。ありがとう」
「そうですか。そう言っていただけて安心しました。明日もありますからね。早く寝て体調回復させてください。私はこれで失礼します」
そう言って立ち上がりかけた京香の手を離すことなく、兵藤は言った。
「泊まっていけばいいよ。部屋は余っているんだし」
「いえ、終電がまだありますから、大丈夫です。お気遣いありがとうございました」
「遅いから危ないよ。女性が一人で帰るのは」
「大丈夫ですよ。でもそう言っていただけて嬉しいです」
京香はぎこちない笑顔を張り付けながら握られている手をそっと引き抜くと、帰り支度を始めて玄関へ向かった。
兵藤はその後ろ姿を悲し気に見送っていた。
勇気を振り絞って手を取った。
さり気なく泊まる様に声も掛けた。
それでも京香は帰ると言う。
やはり京香に想いを届けるのは無理なのかもしれない……
諦めようとした瞬間、沸き起こる衝動に突き動かされた。
本当にこれでいいのか?
俺はベストを尽くしたのか?
さり気なくなんて、逃げている場合か!
きっと今ここで手放したら、二度とチャンスは無いだろう!
兵藤は弾かれたように後を追った。
玄関で靴を履こうとしている京香を、寸でのところで引き留め抱きしめた。
これで全てが壊れてしまったとしても、もういいんだ。
この想いを伝えずにはいられないのだから……
京香の戸惑いを感じながらも、細い体が折れそうになるくらいぎゅっと抱きしめた。
「どうして君は、いつもそうやってするりと帰ってしまうんだ。引き留めたくても引き留める隙すら与えずに、そそくさと帰ってしまう……もう、君を見送るのは嫌だ」
「え」
酒気の帯びた吐息がかかり、京香はくらくらとした。酔いが伝染してくるようだ。
兵藤さんは何を言っているのだろう?
まるで私を帰したくないみたいなことを言っているわ。
そのまま兵藤の言葉に酔ってしまいたかった。
何もかも忘れて、彼の腕に身を任せてしまいたかった。
でも、それではきっと彼は明日の朝後悔するに違いない!
京香は必死になって理性を保とうとした。
兵藤さん、こんなにも疲れ切っていたのね。
だから、心が弱くなっているのだわ。
でも、兵藤さんに余計な負い目を持たせてはいけない。
ここは私が引き留めなければ!
「酔っていらっしゃいますね。それではお部屋までお送りしますから」
だがそんな京香の言葉が耳に入らないように、兵藤の力が強まる。
「違う! 俺は酔ってなんかいない。酔っているとしたら、それは君にだ」
そう言いながら、京香の体をぐっと壁に押し付けた。
京香の瞳に混乱の色が走る。
私に酔っている? それは一体どう言う意味……
いつも紳士的な兵藤が、強引に覆いかぶさって来た。
熱を帯びた兵藤の体が、京香の肌にも熱を伝える。
感覚が蕩けていくようだった。
そんな……こんなことって……
京香の手から力無くバッグが滑り落ちた。
兵藤の唇は甘かった。
始めは軽いタッチを繰り返し、次第に京香の中へと忍びこんで来る。
押し寄せる情熱に包まれながら、この瞬間をどれほど待ち望んでいただろうと胸を震わせた。
これは夢?
夢でもいいわ。このまま覚めないで……
が、どうしても拭い去れない疑念が頭を過る。
兵藤さん、誰を想って私を抱くの?
そう思った瞬間、京香の頬を一筋の涙が零れ落ちた。
「ダメ? 泣くほど嫌なのか?」
絶望にあえぐように兵藤が尋ねた。
無我夢中で左右に首を振る京香。
「ダメじゃないです。でも……分からないんです。兵藤さんには好きな人がいらしたんじゃないですか? その方の代わりは嫌なんです……ごめんなさい。私、本当にあなたが好きなんです。だから……」
京香はもう自分の気持ちを繕うだけの気力が残っていなかった。
もう、何もかもぶちまけてしまいたい―――
「あなたに忘れられない人がいるのは分かっています。でも、私はあなたが好きなんです! ずっと、ずっと好きだったの……」
京香は子供のように泣きながら想いを吐きだした。
その言葉に、兵藤の酔いが吹っ飛んだ。
「な、んてことだ! すまない、そんな誤解をさせていたなんて……他に好きな人なんていないよ。いるわけないんだ!」
兵藤は動揺で麻痺した思考を必死に働かせて、京香の心を掴もうと藻掻いた。
京香が俺の事を好きだと言ってくれた!
でも、俺に別の好きな人がいると思っているらしい。
なんでそんな誤解が生まれたんだ?
顔を覆って泣く京香の両手を広げて瞳を覗き込みながら、兵藤もありったけの想いをぶちまけた。
「俺が好きなのは、京香、君だけだ。ずっとずっと……出会った時からこの十年、ずっと君だけを追っていた」
涙で潤む京香の瞳に微かな希望が宿った。
「本当に?」
「ああ、ずっと君だけを見つめていたんだよ」
「でも、切なげにため息をついていたわ」
「それは君を思ってついていたんだよ」
「私に気を使ってそんな優しいことを言ってくれているだけでしょ」
「そんなことあるわけないだろう! 俺は君が他の誰かに微笑む度に嫉妬で狂いそうになっていたと言うのに」
京香の瞳から、今度は安堵の涙が溢れ出した。
「こんな嬉しいことが起こるなんて……」
兵藤はもう一度京香を抱きしめると、愛おし気にその髪にキスを落とした。
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