第62話 報われない恋に縋りたい夜

 いつも飄々として自信に溢れている兵藤が、珍しく酔っていた。

 苦し気な表情を見て、京香の心も痛くなる。


 弱みを見せようとしない彼の心に降り積もった疲労を、私は気づいてあげられ無かったんだわ……

 

 兵藤と目が合った瞬間、京香は自分の不甲斐なさに落ち込んで思わず目を逸らしてしまった。


 私ったら、何のために傍にいるのだろう。


 兵藤さんを手伝いたくて、少しでも役に立ちたくて傍にいるのに、こんなにクタクタになるまで放って置いてしまった。

 自分が力不足なのは自覚している。

 それでも、ほんの少しでも彼の負担を軽くしてあげられたらと思っているのに。

 結局私にできることなんて何にも無いんだわ。


 せめて看病したい。京香は、このまま横に座り込んでしまいたい衝動に駆られていた。

 でも、そんな出過ぎた真似をしてはいけない。

 兵藤さんの心には忘れられない想い人がいるんだから……



 いつも明るい兵藤が、寂し気にため息をつく姿を見かけたことがあった。

 その切ない雰囲気は、声をかけるのをためらわせるほどだった。


 直観的に思った。

 兵藤さん、好きな女性ひとの事を考えている……

 

 胸の奥がぎゅんと疼いた。

 でも、 京香よりずっとずっと年上の兵藤に、そんな想い人がいないと思う方がおかしいのだと納得した。


 どんな女性なんだろう……


 気になって仕方がない。

 けれど、一介の社員の自分がそんなことを詮索するのは失礼だと自分を戒めた。


 テレビ出演が始まってからは、時々素敵なタレントさんと食事をすることもあるし、追っかけ取材の人に恋愛事情を書かれることもあった。

 でも、そのどれもが本当の事で無いと分かっていたし、その火消役こそが自分の広報としての役割でもあったから、真実は分かっている。


 でも、兵藤の心の中に住んでいる人のことまでは分からない。


 そんな見えない相手に嫉妬している自分に嫌気がさす。


 私のこんな気持ちは、決して気づかれてはいけないもの。


 時々とても苦しくなるけれど、想いを隠してでも傍に居たい気持ちが強いから、私は今日もあの人のところに行くのだ。



 京香にとって兵藤は、命の恩人のような人だった。

 自暴自棄になりかけていた自分を拾って、育ててくれた人。


 幼いころから絵を描くのが好きだった京香は、将来を漠然と絵を描いて生活していかれるようになったらいいなと考えていた。

 美大を卒業し、デザイン関係の仕事に就きたいと奮闘するも、就職氷河期と言う悪運とも重なって、思うように採用通知をもらうことができなかった。

 絶望し、自暴自棄になりかけた時、地元のパン屋のオープンニングスタッフ募集と言うチラシがポストに入っていた。

 普通、パン屋の販売員といったら、アルバイトが主流である。

 でもチラシには、正社員募集と書いてあった。


 この際なんでもいいわ!

 働くところが欲しい!


 京香は覚悟を決めて面接試験に臨んだ。


 初めて会った兵藤の印象は、落ち着いた大人の男性。

 自分よりもずっとずっと先を歩いている社会の先輩。

 

 緊張して面接の時のやり取りはよく覚えていない。

 定型的な質問ばかりだったと思う。


 でも、最後の一言が心にすっと入って来た。


「僕は、僕の作ったパンを食べた人に笑顔になって欲しいと思っているんです。そのためにお店をつくるつもりです。そんな僕のコンセプトに賛同いただけるようでしたら、是非お店のスタッフになって助けてください」


 手作りのパンに込められた思いを真っ直ぐに届けられた気がした。


 笑顔になってもらいたい……私が絵を描く理由と同じなのね。


 お店で見た兵藤のパンは、芸術品と呼ぶのにふさわしかった。

 見た目も美しく、味も美味しい。

 

 美を追求する気持ちは、絵もパンも同じなのだと改めて気づかされたのだった。



 そんなある日、お店の値段やお勧め情報のポップを描いてくれと頼まれた。


 美大出身と知る兵藤の心遣いに感謝すると共に、デザイン会社に勤めなければ絵に関る仕事に付けないと思っていた自分の浅はかさに気づいた。

 

 自分の絵の才能を生かせるところは、どこにでも転がっているのだ。

 それに気づいて生かせるかどうかは自分次第なのだと。


 兵藤さんのパンを一人でも多くの人に味わって欲しい。

 一人でも多くの人に笑顔になって欲しい。


 そんな思いを込めて描いたポップを見た兵藤が、感動したように言ってくれた。


「お客様のことを考えて描いてある。いいね。京香女史のそう言う『おもてなし』の心は大切だと思う。これからもよろしく頼むよ」


 その一言が、私をどれだけ救ってくれたかわからないわ。


 自分には何のとりえも無い。

 社会になんか必要とされていない。

 そんな絶望の淵から、ギリギリで救い上げてくれた言葉だった。

 

 その後も兵藤は、一つずつ京香にチャンスを提示してくれた。


「広報の仕事をしてくれないかな。君のセンスが必要なんだよ」

「マスコミ対応頼めるかな。君の誠実さが信頼関係を生んでくれそうだから」


 そんなふうに、一歩ずつ可能性を広げて育ててくれたのだった。


 兵藤さんは人を、仕事ができるかできないかで判断したりしない。

 この人は何が向いているのか、何を教えたら伸びるのか、常にそうやって人を育てようとしてくれる。

 だから私だけでなく、各店舗のスタッフたちもみんな成長して、安心して仕事を任せられるくらいに育ってきているのよ。


 いつの間にかそんな兵藤を手伝うことが、京香の生きがいとなっていた。


 けれど、手伝うことはできても、助けることはできない。

 大人の兵藤を見るにつけて、自分の幼さを感じてしまうのだ。 

 いつまでも追いつけない遠い遠い憧れの存在。

 こんな自分が、兵藤を恋い慕うなんて身の程知らずだと思っていた。


 でも、好きな気持ちを止めることなんてできないから、叶わぬ恋を秘め続ける日々となった。


 それでもいい。

 報われない想いでも構わない。

 傍にいられるだけで十分なんだから。

 邪魔しないように気を付けるから……せめて兵藤さんの隣にいたい。


 でも……本当は、このままでいいなんてこれっぽっちも思っていない。


 兵藤さんに気づいて欲しい。

 兵藤さんの心を閉めている想い人を追い出して、私だけを見て欲しい。

 一社員としてじゃ無くて、一人の女性として見て欲しい。

 


 水を飲む兵藤の横へ跪きながら、京香は醜い己の心におののいた。

 今すぐこの場から去らなければいけないと思った。


 でなければ、いつ自分の恋心が漏れ出すかわから無い。


 そんなことになったら、兵藤の傍に居ることすらできなくなってしまうだろう。

 そんなの耐えられない……

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