第60話 片恋に押しつぶされた夜
都内から一時間半ほどのところにある小さな町。
小高い住宅街の一角に佇む、純日本家屋の喫茶店。
味噌汁に合うパンと言うコンセプトのパンを提供するために開いた、海の見える木が香るお店。
こんなところまで、わざわざ来てくれるお客様がいるのか、きっと試行錯誤が続くと思うけれど、それでもチャレンジしたかった。
食べてもらいたい人がいる。
だから心を込めて作る。
そんな原点に返ったパンづくり。
今までだって、そうやって一つ一つのパンを作ってきたつもりだ。
でも、店が大きくなり、店舗数が増えると、大量に作らなければ採算が取れない。当然、定番やマニュアル通りにこなすことが大切になってくる。それ自体は良いことなのだが、初心の頃のワクワクしたような気持ちが薄れてきているのも、また事実だったのだ。
だから、今回は自分へのチャレンジだった。
いや、久しぶりのチャレンジと言う方が正しいだろうな。
思えばチャレンジばかりの人生だったようにも思う。
パン職人を極めたい……そう思った兵藤は十代の終わりに一人渡仏した。
語学も中途半端で、コネも実力も足りない東洋の少年が、そんなに簡単に受け入れられるわけも無い。頭を下げて頼み込み、下働きから初めて何年もかけて認めてもらい、技術を教えてもらったのだった。
三十歳にして帰国後は、自分の店を軌道に乗せるために突っ走ってきた。
もちろん、平坦な道では無かった。
売り上げが伸び悩んで、借金が膨らんで焦った日もある。食品を扱うので、衛生面の管理は常に気を張っていなければならない。
店舗が増えれば社員も増えて、教育指導も必要になってきた。
そんな積み重ねは、兵藤を一介のパン屋の店主から事業主へ、実業家へと押し上げてくれた。
そしてマスコミにも取り上げられて、取材やテレビ番組に呼ばれるようになり人気を得ることもできた。
はた目から見れば、成功者といえるだろう。
自分でも、良くここまでがんばったなと嬉しい気持ちになる。
だが、そのために失った物もあった。
平凡な生活だ。
億の金が動くような商売の話では無く、マスコミに追いかけられるような生活でも無く、愛する人と慎ましく生活したい。
だから今回の出店に合わせて、都内生活から郊外での生活、今までの怒涛のような忙しい生活から、自分のプライベートも大切にするような生活に切り替えていきたいと思っていた。
新店舗の近くに家を建てたのも、そんな気持ちの表れからだった。
それほど大きくは無いけれど、居心地の良い空間を作り、庭もそこそこの広さがある。終の棲家として、いいのじゃないかと密かに思っている。
後は、一緒に過ごしてくれる人に、想いを告げるだけなのだ。
それだけなのに……
普段は強気で話術も巧み、バリバリと仕事をこなしている兵藤だったが、なぜか恋になると臆病だった。
トラウマがあるとかでは無い。
単に今まで仕事一筋で、わき目もふらず突っ走ってきただけだ。
だから、仕事が恋人とインタビューでは答えていたし、それは事実でもあった。
でも、本当は……
いつも横に居て支えてくれる女性に、告白するのが怖かっただけなのかもしれない。
四十過ぎの拗らせ男なんて、彼女はどう思うだろう。
俺のことなんて、単なる上司としてしか見ていないことは分かっているつもりだ。
告白して離れられてしまうくらいなら、仕事で繋がっているだけでいい。
上司と部下だとしても、ずっと寄り添ってもらえたら、それだけで充分だと思い込もうとしていた。
でも、他の男に笑いかける彼女を見る度、苦しくなる。
それが営業スマイルだと分かっていてもだ。
告白しよう。
でも、そのせいで彼女が会社に居づらくなってしまったら申し訳ない。
積み上げたキャリアを捨てるのは辛いだろう。
いや、もうそんな事ばかり考えて、自分の気持ちに蓋をするのはやめたい。
もしも、それで彼女を傷つけてしまったとしても、この想いを伝えたい。
いや、やっぱりそんなわがままが許される訳が無い。
悶々と繰り返される葛藤……
いつもは酔わない酒で、酔ってしまった。
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