桜の並木道

Jack Torrance

桜の並木道

ワシントンDCを流れるポトマック川。


今年もナショナル チェリー ブロッサム フェスティヴァルの時期が訪れた。


凍てつく冬を乗り越えて虫や草花も目眩く季節の到来とともに新たな命を宿していく。


ポトマック川沿いを彩る桜の並木道。


穏やかな春のそよ風が満開になった桜の花弁をそっと舞い散らす。


ピンクに染まった華麗な花弁が生き急ぐように桜吹雪と散っていくその刹那。


車椅子に乗っている齢70と思わしき老女とその車椅子を押している息子と思われる男性。


エミリーとシンセリティーのジャクスン親子だった。


車椅子のエミリーは痩せ衰えて衰弱しきっているものの意識は明瞭であった。


シンセリティーが舞い散る桜の花弁を観ながら感嘆する。


エミリーにやさしく語り掛ける。


「母さん、奇麗だね。まるでミュージカルの千秋楽のようだよ」


「ああ、そうだね。私は、もう桜は観れないと想っていたよ」


エミリーは感慨深げにぽつりと漏らした。


去年の桜の開花の時期にエミリーは身体の不調を訴えて病院を受診した。


様々な検査をした結果悪性の腫瘍が見つかった。


検査の結果を聞きに息子のシンセリティーと病院に行った。


余命一年と宣告された。


エミリーにとって予期せぬ出来事だった。


今まで息子に頼る事もなく自立した生活を送っていた。


体調不良を訴えるまでは元気に暮らしていたエミリーだったので降って湧いたような凶報だった。


病院の帰りにエミリーとシンセリティーは、この桜の並木道を二人で歩いて帰った。


その時には桜は散り始めて枝木の花弁ももう見頃を終わっていた。


「母さん、大丈夫かい?」


母を慮り何と声を掛けていいのか戸惑うシンセリティー。


エミリーは息子に不安な想いを気取られぬように気丈に言い張った。


「来年はもうこの美しい桜は観れないかも知れないね。桜ってのは儚いもんだね。パッと咲いてパッと散ってしまう。人間ってのも桜の散り際同様、人生の幕を下ろす時の去り際ってのが肝心かもしんないね」


エミリーが落胆しながらも己の宿命を受け止めたように言い放った。


シンセリティーは母親の心境と抗えようのない現実に己の無力さを痛感した。


「母さんは僕や周囲の人達の為に身を削って費やして頑張り過ぎたんだよ。残された時間はどれくらいかは天のみぞ知るって事なのかも知れないけど自分の為に残された時間を生きて欲しい。僕は母さんと残された時間を一日でも多く悔いの無いように生きるつもりだよ」


シンセリティーの頬に涙が伝う。


母との思い出が空に浮かんでは弾けるシャボン玉のように次々と脳裏に思い出される。


楽しい思い出。


辛かった思い出。


悲しい思い出。


止めどなく溢れる思いが横溢する。


「馬鹿な子だね。明日、死ぬって訳じゃないんだから泣くのはおよし。ありがとうね。そういって言ってくれて」


あの二人で帰った日から一年。


エミリーは辛い治療に耐えながらちびたロウソクかも知れないがその灯火を絶やさぬように生を全うしていた。


桜を見上げながら穏やかに微笑むエミリーの表情に木漏れ日が射し込む。


飛び交う小鳥の囀りがハミングしている。


「桜ってのは散り際は切ないけれども春の訪れを告げてくれて散った後も萌ゆる新緑を繁茂させて人々に活力を与えてくれる葉桜を見せてくれていいもんだねえ」


「母さん、寒くないかい?」


シンセリティーが膝掛けとショールのずれを直してあげる。


ショルダーバッグから魔法瓶を取り出して温かいアールグレイを注いでエミリーに渡す。


「母さん、これ飲んで」


「ありがとう、あんたは子どもの頃からよく機転が利く子だねえ」


アールグレイのベルガモットの香りと満開の桜に癒やされながら暫し闘病の辛さを忘れるエミリー。


桜を見上げながらエミリーが言った。


「シンセリティー、誰か良い娘はいないのかい。私が死んだ後にあんたを支えてくれて家を切り盛りしてくれる素敵な女性が。男の独り身だと栄養とか考えずに食事をするもんだからね。そっちの方が私は心配だよ」


「大丈夫だよ、母さん、ちゃんと考えて今でもやっているよ。ごめんよ、母さん。僕が早く結婚してれば子供も産まれて賑やかになったんだろうけどね。ごめんね、母さんに孫の顔も見せてあげれなくて」


「あんたの事を大事に想ってくれる良い人とめぐり逢って幸せになるんだよ」


「母さん、体に障るといけないからそろそろ病院に帰ろうか」


「ああ、そうだね。あんたとこうやって美しい桜が拝めてもう思い残す事も無いよ。ありがとう、シンセリティー」


半月後。


エミリーはシンセリティーに看取られながら安らかに天に旅立った。


病室の窓から見える沈丁花の樹木が甘い香りを風に乗せて運んでいた。


シンセリティーは気丈に母を見送り父の隣の墓石に埋葬した。


告別式の帰りに最期にエミリーと観た桜の並木道に立ち寄った。


葉桜が見事に生い茂りまた新たな息吹を樹木に吹き込んでいた。


エミリーの肉体はもうこの世に存在しないが母の温もりと精神、そして掛け替えのない思いではずっとずっと心の中で色褪せること無く生き続けていくんだとシンセリティーは繁茂する葉桜を見上げながら想った…

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桜の並木道 Jack Torrance @John-D

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