虫十無

夜の中

 ねえ。

 声がした。見えないけれど、きっと人がいる。そう思ってすぐに打ち消す。だって私は声を出していない。それなのに何があるかわからないところで話しかけるような声の出し方をするだろうか。

 私を見つけて食おうとするものがいて、私を声でおびき寄せようとしている。そんな想像が頭に浮かんで慌てて打ち消した。そんなことを考えなくてもここは怖いのに。


 真夜中、外を歩いていた。月は見当たらない夜だった。こんな時間に帰るつもりじゃなかった。暗い道、それでも真夜中だって街灯はついている、真っ暗じゃない。そのはずだったのに、気付いたら真っ暗闇だった。何かがあったわけじゃない、街灯が消えるようなこともきっとない。それなのにいつの間にか真っ暗だった。

 足音は聞こえない。足元はしっかりした感覚があるのにさっきまでアスファルトと靴の間で鳴っていた音がしない。

 恐る恐る手を伸ばしてみる。前も後も右も左も何もない。上にも何もなくて、下にだけ私の立つ地面がある。けれど、それはあるというだけで何の情報も伝えてこない。

 どこに行くこともできずしゃがみこんで膝を抱える。意味がわからない。どうしてこんなことになったのだろう。何もわからない。


「ねえ」

 もう一度、声が聞こえる。さっきより近いように思える。確かに人の、女性の声に聞こえる。けれど人なはずがない。見つかりたくない。身を小さくする。

「ねえ、そこにいるんでしょう? 音が聞こえるもの」

 また声が聞こえる。私には聞こえないほど小さい音が、いや、息もしているし心臓も動いているから音がするのも当たり前かもしれない。

「ああ、怖いのね。何も見えないから」

 カチッと音がする。数歩先でライターの明かりがともる。声から想像できる範囲の人がそこにいる。

「わたし、もう目がほとんど見えないの。ずっとここにいるから、退化したみたいになってるの。でもその分よく聞こえるの」

 何も聞いていないのにその人は話す。

「何人も、何人もここに来たわ。みんな同じだからいつもこういう風に言うようにしているの。大丈夫よ、わたしは敵じゃない」

 怖いとは思っていても、やっぱり心細かったんだろう。私の身体は勝手に動いて彼女の方に向かった。


「そう、わたしはずっとここにいるの。ここがどこなのかはよくわからないけれど、きっと大きな仕組みの一部なのだと思う。たまに誰かに会ってもみんなすぐにいなくなっちゃうの」

 この人の声は心地いい。一人ではないことの証明の一つ。もう一つは繋いだこの手。触れているだけで安心できる。

「どれくらい時間が経ったのかわからないの。ずっとこの暗闇でしょう。このライターはしばらく前にいなくなってしまった人からもらったの。それまではずっと暗闇だけ」

 ここがどこか、出られるのか、そういったことは全くわからないのに、その不安を忘れてしまいそうになる。この暗さでは眠くなってしまう。それはそうだろう。私は疲れ切って帰る途中だった。

「ここで生き残るにはただ一つ、覚悟があればいい」

 同じ調子で続く彼女の声に合わせるように地面が揺れる。私はバランスをとれない。繋いでいたはずの手はどこかへ行ってしまって、私が掴まれるところはない。

他人ひとを蹴落としてでも足場を確保して生き残ろうとする覚悟」

 彼女の声はもう遠い。

 さいごに聞こえたのはドプンという私が液体に落ちる音。

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