童謡

富升針清

第1話

「……おや?」


 街の電灯がチカチカと音もなく鳴いている真夜中に、シルクハットの男がふと足を止めた。

 視線の先には、髭の男がただどうしようもなく、項垂れたように、それでいて何か言いたげに、どうしようもない佇まいだけをカチカチと光が吐く瞬間だけ映し出される。

 それは、他の誰かの様に見えた。

 シルクハットの男は、ああと小さく声を切る。

 そういえば、あの男が死んだのも、こんな真夜中の暗闇だった。

 あの男はシルクハットの男と、そして髭の男の友人でもあった。

 名は何と、言ったかな?

 シルクハットの男は自慢の白く蓄えた顎の髭に無意識手を伸ばす。喉元まででかかる死んだ旧友の名前が、酷い異臭を放つ腐った血肉の様な気がした。

 髭の男はチカチカとついては消える電灯の下で、青白く生気のない顔をこちらに向けていた。いつもの様に、そこに騒がしさも明るさも豪快さもない。あるのは死人の様な静だけだった。

 ふと、シルクハットの男は旧友が彼の真似を好んでしていたことを思い出した。

 イタズラ好きで、どうしようもなく子供の様な男だった。

 よく髭の男の真似をしては、シルクハットの男を驚かせていたものだ。

 不意に湧き上がる懐かしい思い出に、シルクハットの男は息を吐く。


 あゝ、彼が僕に会いに来たのか。


 あんな暗闇の中、こんな真夜中の暗闇の中、一人で消えた男が昔の真似をして会いきにたとシルクハットの男は直感で感じ取る。

 悪魔の死は悲惨だ。人間の様に魂になるだけではない。悪魔の死は全てを消す。その悪魔が何もなかったの様に。何一つ残さない。記憶も、名前も、全て。

 だから、あの晩からあの旧友はシルクハットの男の中からも消えてしまった。今の今まで一度も思い出すことはなかった。どんな時をどれだけ共に過ごしても、消えてしまえば何もない。

 どんな悪意も。どんな悪事も。どんな、悪魔も。

 だけど、時折例外もある。

 悪魔なのだから。悪魔に規則も規律もルールも法則も、型に嵌めるという発想そのものが似つかわしくない。最も遠い言葉の一つだ。

 だから、時折例外のように思い出す。

 それは、まるで悪戯のように。不意に何気なく、こんな事もあった、こんな奴もいたなと、薄らと。

 例えば、溶けていくアイスを見ながらとか。

 例えば、靴の紐が緩んだ瞬間を見てしまった時とか。

 例えば、今の様にその旧友が会いに来てくれた時とか。

 思い出すのだ。死んだ悪魔を。

 彼は会いに来た。古い友人に会いに来た。

 死んだのに、会いに来た。

 シルクハットの男は、口を開く。


「久しいな、兄弟。会いたかったよ」


 名も思い出せぬ友に。

 髭の男の形をしたそれは、真っ白な顔がコマ送りの古い映画の様に横に動く。


「あいだ、がった?」


 覚束ない言葉。不安定な声。


「ああ、勿論。だって僕たちは友人ではないか。それで、君は何しに来たのかな?」


 友に会って、抱き合いたかった?

 今際の際に呟けなかった言葉をかけにきた?

 それとも。


「僕を殺しにでも来たのかい?」


 一緒に真夜中の向こう側に行こうと、手を差し伸べにでも来たのかい?

 この、寂しん坊めっ!


「わだじは、……わ、わ、わだ、わだじば……」


 髭の男の形をしたそれは、シルクハットの男に手を伸ばす。


「わ、わ、わ、わだじば……」


 そして……。


「よ、酔って鍵なぐじで、帰れないがら、泊めでぐざだざい……っ!」


 そういって、髭の男の形をした髭の男はサラサラと胃の中のものをぶち撒ける。


「……は?」


 と、言われる前にシルクハットの男は渾身の一撃で髭の男を殴り、走って自分の家に帰っていく。


「普通にただ恥ずかしいやつだぞ!? これっ!!」


 そう叫びながら。

 お化けなんてないさ、お化けなんて嘘さ。


おわり

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