アレバコ王
カストゥロの一行は、テージョを渡河して北へ向かったカルタゴ軍と別れ、河の流れに逆らい東進した。途中の街や村では小麦や果物、干肉を中心に余剰の食糧に加え、収穫前の穀物まで買い付けながら進んだ。敢えて交易の品に変えなかった大量の銀が役立っている。この時代のイベリア半島では銀の兌換性が非常に高い。どこでも喜んで食糧と交換してもらえた。また、カディルで仕込んだ数少ないアフリカやオリエント産の贅沢品が部族の有力者を喜ばせ、食糧買い付けを捗らせた。それでもやはり五万人分の食料調達に手持ちの銀では不足した。カラスカは輸送隊の隊長に二人の隊員を付け、カストゥロへ向かわせた。イスパル(現セリビア)まで戻り、ペルケス河(現グアダルキビル川)を遡れば、実はカストゥロはそれほど遠くはない。銀をさらに補充し、大量の兵糧を運ぶための人足を連れてくる役目を託した。
「これでようやく半分に達しましたな」
今終えた取引を帳簿に記したペッロの報告に、
「軍にいる時には、食事は当たり前のものだと思っていたけれど、それを用意するのがこんなに大変だとは思わなかったよ」
「我々が交易の旅で持参する食料なんて比べ物になりません」
「五万人ですから」
「それって、我がカストゥロ族全員より多いですよね」
カストゥロに行く輸送隊の隊長たちを見送っていた商隊の隊員たちも会話に入ってきた。
「これでもし戦争に負けたら、この食糧調達で使った銀を含め、かかった費用は回収できない。そういう意味でも戦争も交易みたいなものだね」
そのカラスカの発言に、
「戦争と交易が同じって、どういうこと」
少し間をおいてイルティラケルが尋ねた。自分でも少し考えてみたが、その共通点がよく分からなかった。
「わざわざ遠くまで出かけて行っても、失敗すれば、銀を大量に使うだけで大損するところとか」
「交易は目利きさえ間違えなければ、損することはありませんぞ」
万事周到に進めるペッロには戦争の方がずっと恐ろしい。
「でも、途中で賊に襲われたり、船なら時化で沈んだりする危険があるじゃないか」
「なるほど、そういった不運は戦に負けてしまうのに似てるかもしれませんな」
「運の要素ももちろんあるけれど、戦争でどの相手と、いつ、どう戦うかは、商売の目利きにも似てると思うんだ」
「逆に、商売の目利きには、仕入れる品だけでなく、護衛をどれだけつけるか、どの道や船を選ぶかなども含まれるということですな。我らもその手の情報は酒場で土地の奴らに酒をご馳走したりして集めますから。特にあまり馴染みのない街や地域に来た時には念入りに」
昨晩もそういう名目でたっぷり酒を飲んだ隊員たちがにやにやしている。ペッロが話を続ける。
「負け知らずのハンニバル様は戦の目利きがよいということですか」
カラスカが答える前に、
「目利きなんてものが戦争にあるんですか。どっちが強いか弱いかだけじゃないですか」
再び他の隊員が口を挟んできた。
「ハンニバル様は斥候を数多く放つんだよ」
カラスカがその問いには直接答えず、まるで関係ないような話を切り出す。
「先代のハズドルバル様の時よりもですか」
「そう、ずっと多いよ。平時でも戦闘中でもとにかく情報をできるだけ多く集めている。そのお陰で正確な状況判断ができ、敵に勝つための作戦を立てられ、誤らずに決定を下すことができるんだ」
「目利きというか、計画や判断にはより多くの情報が必要という点も交易と戦争で共通しているんだね」
カラスカの言わんとすることが掴めてきたイルティラケルである。
「投資が大きいだけに、戦に勝てば、交易よりもずっと大きな利益が上がりますな」
ペッロの関心は儲けの大きさのようだ。
「街ごと略奪できますからね」
隊員の一人がうらやましそうに言葉を添える。
「兵士の一番の楽しみだよ」
ハズドルバルに従い、占拠した街の略奪を一度経験したことがあるカラスカが答える。ちなみに、カラスカが今使っているのはその時手に入れた剣である。
「略奪といえば、前の戦争ではカルタゴに勝ったローマ人でさえケルト人にローマを落とされ、略奪を受けたことがありましたな」
「たしか、二百年くらい前の話でしたね」
そういった他国の興亡に詳しい古参の隊員が記憶を探りながら、ペッロの持ち出した昔話に合いの手を入れた。
「北の地方で凶作になれば、食糧が豊富な南方に下りてくるのはしょうがないですね」
「襲われる方はたまらないぞ」
「まだ帰ってくれるだけましじゃないか」
「そのまま棲みついてしまうこともあるからな」
「あ、これから向かうところがまさにピレネーの山々を超えてイベリアの地に根を下ろしたやつらだった」
商隊の隊員たちが次々と加わり、会話が盛り上がる。先代ゾルダの頃にはなかったカラスカ商隊ならではの特徴である。
「まあ、それがなければ、おれも生まれてないけれどね」
「そうか、レガーニャ様もケルト人か」
「それを言ったら、わしらとて初めからカストゥロの辺りに住んでいたのか、アフリカから渡ってきたのか、知れたもんじゃないぞ」
そんな会話を弾ませながら、カストゥロの一行は高原が続く一帯に分け入っていく。後にケルティベリアン(イベリア化したケルト人)と呼ばれることになる、北から侵入してきたケルト部族が定住した肥沃な土地である。
ケルティベリアンの大族アレバコ族の王は在位十年を超え、当初は温める暇さえなかった玉座に、最近はどっかりと腰を据え、威厳も増したと評判である。
王に即位後、周辺部族との争いだけでなく、ピレネーの山々を超え、ケルトの本拠地に遠征することもしばしばあり、壮年期に差し掛かったばかりのアレバコの王はすでに歴戦の強者(つわもの)としてイベリア半島北部では知らぬ者がなかった。
しかし、王はそんな評価にまったく満足していない。彼があこがれたのは、世界の果てまで軍を引き連れ、あらゆる民族を打ち負かしたアレクサンダー大王である。大王は成人してすぐにマケドニアの王位を継ぎ、破竹の勢いで当時の先進地域であるギリシアポリス諸都市、ついで大帝国ペルシアを破り、ついに当時の西洋世界の東端インドにまで到達した。一方、アレバコの王も大王ほどの若さではないものの、この大族の王位を三十になってすぐに継ぎ、侵略的な膨張政策を掲げた。周辺部族との戦いに負けることはなかったが、なぜかその支配地域はさして広がっていかなかった。
「ピレネーの向こうも、こちら側も中小の勢力が乱立、拮抗している。ペルシアのような大帝国がないのが王の不幸だな。大国が相手ならば、それを倒しさえすれば、その領土も周辺地域も一気に支配下だ」
王の参謀はアレバコの領土が広がらない言い訳をしたが、
「それなら、我々にとってのペルシア帝国が現れるまで、実力を貯えおくか」
王は素直にその言葉を受け入れた。戦闘ではいつも適切な状況分析を基に緻密な作戦を立てる幼馴染の参謀を全面的に信頼していた。ならばと、傭兵稼業で兵を鍛え、財力を貯えてきた。しかし、いつまで経っても分散傾向の強いケルト人とスペイン人の間からは部族を統一するような英雄は現れない。アレバコの王自身が一番その可能性を有していたかもしれないが、彼からして同じ民族を束ねるための政治的な資質、思想が欠如していた。
ケルト人の文化、教育を担うのはドルイドである。アレバコ王の師は今は亡き先代のドルイドの長老であった。当時ケルト世界で最高の賢人と呼ばれたそのドルイドの長老の教えを王子だったころのアレバコ王はあまり真面目に学ばなかった。とはいえ、それがこの戦闘には無類の強さを発揮する王をして、ケルティベリアンの統一さえ叶わぬ理由ではなかった。そもそも多神教であるケルトの宗教観は統一政権を生み出しにくい。自然との調和を重視する伝統と生活様式は各部族の存在を尊重する政治思想を生む。師の講義を真面目に受けなくとも、ケルト人ならば日常の生活の中で自然と育つ感覚であった。
一方で、人は民族の伝統だけでなく、自分が生きる時代の影響を受けずにはいられない。特に若い世代は時代性に対しより敏感となる。この時代の英雄、アレクサンダー大王への憧れは、大族の王子という立場が同じであれば、アレバコの王子にとっては誰よりも強いものであった。
この土地や民族の特徴と時代の流れの矛盾に翻弄された若き王の憂さ晴らしが、自ら率いる傭兵稼業だったのかもしれない。それも近頃は声が掛ることが減ってきた。それで周囲からは王に落ち着きが出てきたと喜ばれたが、王自身は鬱々とした気分を引きずり、座り心地の良い玉座がかえってその憂鬱さを深めた。その不機嫌さが豊かな髭と相まって、周りには威厳のある表情と映るから皮肉である。
この王が若い頃望んだことでもう一つ叶わぬことがあった。恋した女性を妃にできなかったことである。その女性とは若い頃に離れ離れとなってしまった。その後、側近に消息を追わせると、イベリア半島南部の、とある部族に交じり暮らしていることが分かった。それはまだ父が亡くなる前のことある。身軽な王子の身分であれば、娘に会いに行き、あわよくば連れ帰えることもできるのでは。娘への想いがうずくと、そう取り巻きの若い戦士たちに声を掛けるのだが、そのたびにさすがの勇猛果敢な若き戦士たちも必死に王子を引き止めた。娘はスペインの有力部族に匿われているようで、選りすぐりの戦士で王子を護衛しようとも、地の利のない敵地で事を荒立てては、誤って王子が捕らえられかねない。
「あの娘がどうしても欲しいなら、彼女のいるところまで我が部族の支配下に入れてしまえばいい。そうなれば、娘も王子の思うがままだ」
少数精鋭での奪還計画の危険性は十分理解できた王子は、
「確かにそうだな。父の許しさえ得られれば、すぐにでも南部に居座るカルタゴ人やスペイン人を海に追い落としてやろう」
そう息まくも、この地域の大国で満足している父王が南への侵略を許すはずがなかった。いつか自分が王位に就きさえすれば、イベリア半島すべてを支配下に置くくらいわけがない。そうやって自らを慰め、猛る想いをなんとか鎮めていた。
戦の怪我がもとで老け込んだ父が急死し、王子が待ち望んだ王位に就いたのは十年と少し前である。即位早々、前述のとおり満を持して周辺部族に攻めかかり、戦闘では負け知らずであった。しかし、馬を走らせれば、五日とかからない、あの娘がいるイベリア半島南部には自国の勢力が届く気配がない。そんな日々を過ごすうちに、大王の享年、三十三歳もあっという間に超えてしまった。
それをきっかけに、娘のことを諦められないまま、同じケルティベリアンの有力部族の王女を娶った。子供も儲け、みな元気に育っている。王としての自覚と責任感でやるべきことはやってきた。大族の王とはいえ己を抑えることが多い日々が続く。若い時はなぜ王として強大な権力を有する父が苦い顔をすることが多いのか理解できなかった。その権力は己の欲望を満たす為ではなく、部族の繁栄、安寧のためのものである。あの長老の、当時退屈でしかなかった講義はそれを学ぶための時間でもあったのだ。今ならそれは分かる。しかし、その頃のことを思い出すと、否応なく娘の想い出が蘇ってくる。甘くて切なく、苦い記憶である。
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