ハンニバルとの再会
総勢二十五名、五両の牛車でガディルを出発したカストゥロの一行は、交易品の他に銀をふんだんに持参している。ガディルで仕込んだ商品がイベリア半島内陸部で高値で売れることは間違いないが、イベリア半島やピレネー山脈の向こうのめずらしい物産を仕入れて、ガディルで経済的に豊かなカルタゴ、ギリシア、オリエントに向けて売る方が利益も大きいことが前回の交易ではっきりした。各地で商品を仕入れるのに一番使いやすいのは銀である。それで、輸送隊が運んできた銀を敢えてあまり商品には変えず、そのまま持っていくことにした。
ガディルから北へ向かえば、イベリア半島を横断して流れる大河をいくつも渡ることになる。カストゥロの交易隊は一つ目のケルペス(現グアダルキビル)河を越え、イスパル(現セリビア)でさらに商品を仕込み、二本目のアナス(現グアディアナ)河を越えた。今はちょうど二本目と三本目の中間まで進んでいた。その三番目の大河が、前回は西に下ったテージョ河(現代でも同名、イベリア半島中央を流れる、半島二番目の大河)であり、今回はその流れを東上することで、イベリア半島中部へ進路をとる予定である。テージョ河まで半日のところで少し大きな丘を越える。それほど広くない丘頂に至ると、下り斜面の先に大軍が見えた。
大量の荷車とそれを引く馬や牛がいる。それを守る兵士より多く見える。これは軍の輜重部隊であろう。こんな大規模な商隊がいるはずがない。とすると、それに先行する本隊は数万規模の軍団であろう。そう、カラスカは推測した。
「どこの軍隊でしょうな」
馬を寄せてきたペッロがカラスカに尋ねた。
「ここからでは分からないね」
「道を変えますか」
「付いていく方が安全かも」
「たしかにその方が盗賊からは襲われにくいかもしれませんが」
ペッロは心配そうな表情である。
「あの軍自体が不安かい」
「はい、どこの軍か次第ですが」
「確かにね。でも整然と行軍しているから、指揮系統はちゃんとしてそうだ」
丘の上で商隊の進みが止まったので、その理由を確認するために殿を務めていた輸送隊の隊長が先頭のカラスカたちのところまで馬を進め、二人に並んで前方を眺めた。
「あれはカルタゴ軍だと思います」
「なぜ分かるんだい」
「我々がカストゥロからカルト・ハダシュト(現カルタヘナ)に到着いた時、ちょうど軍が徴集されていました」
「母さんの手紙にもカルタゴ軍がオルテガス族(イベリア半島東部の大部族)の都市を攻め落としたと書いてあったけれど、ハンニバル様になってずいぶんと積極的に兵を出しているね」
「先代ハズドルバル様の頃は威嚇や有利な交渉条件を引き出すために出兵していた印象ですが、この方針転換はハンニバル様が半島統一を急ぎ、ハズドルバル様のやり方に生ぬるさを感じていたからだとカルト・ハダシュトでは噂されていました」
「あれがカルタゴ軍ならば、やはりあの軍について行ってはまずかろう」
「ああ、そうか。俺はハズドルバル様暗殺犯だった」
そう言って、カラスカとペッロが商隊の向きを今登ってきた丘の斜面の方に変えようとすると、輸送隊の隊長がにこやかにその動きを制止した。
「大丈夫です。もうカラスカ様は殺人犯ではありません」
「ほんとに」
「ええ、間違いありません」
「でも、母さんの手紙にそんなことは一言も書かれてなかったよ」
「はい、それがいつ明らかになったかは分かりませんが、我々がカルト・ハダシュトを出発する際に、レガーニャ様から直接そう説明を受けました」
「そんな大事な話、なぜいままで黙っておったんじゃ」
怒りでペッロの口調が強くなる。
「もしハンニバル様の軍と接触する機会があれば、カラスカ様にそれを伝えるようにという指示だったので」
「そうなの。それってどういうこと」
「それは私には分かりかねます」
「そうだよね。母さんの話は相変わらず種明かしされるまで訳がわからないんだよな」
「そういうことならば、さっさと軍に追いつくまでじゃ」
ペッロは丘の上で一休みし始めた商隊の腰を上げさせ、すぐに坂を下り始めた。
「なんだお前たちは」
「カストゥロの商隊です。質の良い武具も仕入れています。もしご所望であれば、今晩の宿営地でお見せします」
「おお、そういうことか。わかった。我が軍はハンニバル様率いるカルタゴ軍の輜重部隊だ。この札を渡しておくので、軍の夕食後に宿営地の中央に張られる天幕まで来てくれ。話をつけておこう」
軍列の最後尾は兵糧の他、予備の武器や工具を運ぶ部隊を守る一軍であった。カラスカとペッロの二騎が商隊から先行し、その殿に追いつくや、知らせを受けた守備隊の隊長が現れ、どちら側も騎乗のまま言葉を交わし、輜重部隊責任者との商談を取り付けたのだった。守備隊の隊長は顔なじみというほどではないが、カラスカは何度か見たことがある顔だったので、安心して話すことができた。もちろん、隊長の方はまさか目の前の商人がかつてハズドルバルの近習だったカラスカとは思いもしない。
日が暮れ始めると、輜重部隊は早々に宿営の準備を開始した。早めに夕食を済ませたカラスカたちは輜重部隊の責任者を訪ねるべく、その天幕を探した。
「カストゥロは銀以外の取引もしているのか」
「はい、銀を元手に。銀の取引で各地との交流もありますので」
「たしかに、それは交易の強みになるな」
「昨年もハンニバル様の依頼で大量の錫を仕入れ、納めました」
輜重部隊の責任者もカラスカの方はその顔をよく知っていた。ハズドルバル暗殺犯として逮捕される前であれば、もっと砕けた口の利き方をしたであろうが、今や完全に商人になりきった口調である。カラスカの元の正体はまったく気付かれていない。
イスパルで仕入れた鉄剣を見せた。
「おお、これは。同じものはいくつあるか」
「三十本持ってきています。必要なら毎月五十本納品可能です」
「武器の選定は私の一存ではできない。少し待ってもらえないか」
そういうと、輜重部隊の隊長は鉄剣を一振り持ったまま、商談の場となっていた焚火から離れていった。
「いくらで買ってもらえるでしょうね」
商談の場にはペッロが同席していた。他の商隊隊員は、すべての荷物をもって、すぐ近くで待機している。軍が何を買ってくれるか分からないので、すべての品を見せられるようにしていた。
小一時間ほど待たされ、すっかり陽が落ちた。時々薪をくべる兵が来るだけで、カストゥロの商隊は放っておかれたままである。
「ずいぶん時間がかかりますな」
「それだけあの鉄剣が気に入られたということだよ」
「イスパルではカラスカ様が即決で購入したものだけありますな」
「残念ながらまだカルト・ハダシュトにはあれだけの剣を打てる職人がいないんだよ」
「全国から鍛冶職人を集めたと聞きましたがね」
「若く野心のある職人はね」
「腕のいいのは来ませんでしたか」
「愛着のある竈がないと、いい鉄も打てないというこだわりがあるらしいよ」
「そういうものなんですかね」
カラスカとペッロがそんな会話をしながら時間をつぶしていると、輜重部隊の責任者が息を切らして戻ってきた。
「待たせたな。これから本隊の方に来てもらいたい」
「本隊って、ハンニバル様のところでは」
ペッロが少し不安そうに呟いたが、
「商隊ごとですか」
カラスカは半ば予想していたかのように冷静に尋ねた。
「ああ、荷物も持って全員で来るようにとのことだ」
本隊の宿営地はかなり先にあった。その中心近くまで移動し、しばらく待つように言われた。ほどなく松明五本の集団が近づいてきた。
「カストゥロの商隊か」
「はい、そうです」
将官らしき人物に付き従う一人の兵が松明を掲げて、商隊の隊員と荷物の全容を確認した。
「商隊のリーダーはだれか」
そう尋ねる将官はややギリシア語訛りである。
「わたしがそうです」
カラスカが答えて、一歩前に出る。
「では、一人で付いて来い」
ペッロはその言葉に急に不安となり、カラスカを引き留めようと手を伸ばしたが、カラスカは速足で進む将官たちの後を同じ速度で付いて行ってしまい、空しくその手を下ろすことになった。
しばらく進むと、大きな天幕がいくつも張られているところに出た。その中心にある天幕へ向かう。
「シラヌスです」
カラスカを引き連れた将官が天幕の中に向かって名乗る。すると、二人の将官がシラヌスに会釈して天幕から出て行った。
「ここで待て」
そう言い残して、シラヌスが一人入口の垂れ幕をくぐって中に入る。しばらくして、
「中に入れ」
そう声が掛り、カラスカが垂れ幕を両手で開き、天幕内に進んむ。中には組み立て式のテーブルがあり、そこに座って簡易な食事をしているのがバルカ王国の新棟梁であった。
「久しぶりだな。カラスカ」
姿を確認することなく、ハンニバルがその名を呼んだ。
「お久しぶりです。ハンニバル様」
「商隊の規模は」
「牛車五頭の小規模なものです」
シラヌスが答える。
「まだそんな程度か。カラスカ」
「ようやく二度目の交易ですので」
「頼りの父親なしでは苦戦中というわけか」
ハンニバルの言葉に、カラスカだけでなく、シラヌスの表情にも緊張が走る。
「いえ、父の教えに従えば、リスクとバランスをとることが大事で、今の我が商隊ではこの物量がちょうどよいと判断してのものです」
「カストゥロの銀、カルタゴとの婚姻関係があって、どんなリスクを恐れる必要があるのか」
「このスペインの地にもまだカルタゴに従わない部族が多いので。それで、ハンニバル様も直々に遠征されているのでは」
「どこへいくつもりだ」
「アレバコ族の地へ」
「わざわざカルタゴに反抗的な部族の地に行くとは、よほどよい商売のネタがあるのか」
「カストゥロにとっては、避けられない商売です」
ハンニバルは少し考えてから、
「カストゥロが大いに儲けてくれれば、カルタゴにとっても利益となる。ギリシア商人ばかりにおいしい思いをさせるのもそろそろおしまいだ」
「そのつもりです」
「イスパルの鉄剣はあいかわらずの品質だな」
「ええ、職人の腕が違います」
「仕入れた値の二倍で買い取ろう。定期的に納められるのか」
「もちろんです。輜重部隊の責任者にもそう伝えました」
シラヌスがさっとメモをとった。
「カルタゴの勢力圏外でも仕入れは可能か」
「銀がありますから」
「五万の兵卒、二週間分の兵糧を準備できるか」
五万人分の食料の量が想像つかないカラスカは、とっさに計算をしてみた。とんでもない量だ。一度や二度の取引では集められない。
「いつまでに」
「一か月後だ」
これから向かう半島中央部は食料が豊かな土地であると聞く。仕入れのための銀が足りるかどうか。
「わかりました」
「兵士よりも商人が向いているようだな」
「どちらも似たようなものです」
ふっと笑ったように見えたハンニバルがシラヌスに向かって頷いた。それを受け、シラヌスがカラスカを天幕の外へ連れ出した。
「細かいことは輜重部隊の隊長に伝えおく」
シラヌスがそれだけ伝えて、天幕の中に戻ろうとすると
「ガディルでの追跡隊はあなたが指揮していたのですか」
カラスカの問いに一瞬言葉が詰まったシラヌスだったが、
「ああ、私が率いていた」
正直に答えた。それを聞いたカラスカの顔が一瞬強張る。シラヌスはカラスカの、睨みつけるような視線から逃れるように、
「逆恨みは勘弁願おう」
天幕へそそくさと入っていった。
「ご無事でよかった。カラスカ様」
商隊の元に戻ったカラスカをペッロは泣きそうな顔で出迎えた。
「なぜそんなに心配してるんだい。丘の上からカルタゴ軍を率先して追ったのもペッロじゃなかったか」
「そうなんですが、いくらレガーニャ様からの言葉があるとはいえ、いざハンニバル様に直接、しかも一人で面会となると心配になっておりました」
ペッロの言葉に一同が頷く。
「お前も心配してたのかい」
カラスカが輸送隊の隊長に尋ねる。
「私はレガーニャ様に直々に大丈夫だと言われていましたが、皆があまりに心配するので、もしかしたらと、正直少し不安になっていました」
「俺も正直、一人で行くのは実は少し怖かったんだ」
「ずいぶんと落ち着いているように見えましたが」
「それなら、よかった。ハンニバル様には見透かされてなかったかな。結構震えていたし、口の中もカラカラだよ。なにか飲ませて」
イルティラケルが水の入った革袋を渡してくれた。
「子供の頃もさ、母さんの助言に従って、なんども危機や困難をなんとか乗り越えてきたからね」
「レガーニャ様の言葉を信じて、ということですか」
水を飲み干してからカラスカが頷く。
「今回避けたからって、ハンニバル様がこれだけ軍を動かしていたら、交易中にいつかは遭遇してしまうよ」
「遅かれ早かれというやつですか」
「逃げられないと思ったら、敢えて相手の懐に飛び込むだって、父さんが言ってたしね」
その言葉を聞いて、ペッロはかつてゾルダがケルトの戦士相手に一対一の決闘を受け、片腕を失いながら、見事に勝利したことを思い出した。
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