イスパルへ

 三日前には沈みゆく西陽を左手に見ながら、単騎、必死に逃走していた街道を、今日はまだ高い太陽を背に商隊を引き連れ、ゆるやかに進んでいる。つい先ほど通り過ぎたのは、追ってくる騎兵隊を撒くために駆け込んだ脇道に違いない。

 

 あの晩、街道から脇道に逸れた後、森の中で簡単な食事をとり、一息ついたカラスカはこの後の行き先を決めなければならなかった。もう頼れる父はいない。自分一人で判断しなければならなかった。

 最初に思い浮かんだのは、母の故郷であるケルトの村に行くことであった。会ったこともなく、存命かどうかも定かでない祖父だが、生きていれば、孫である自分を匿ってくれるはず。なにより、追手もそこまでは来ないだろう。しかし、村の位置は大まかな場所を何度か聞かされただけだ。手持ちの食糧や所持金でたどり着けるだろうか。

 次に思いついたのは、農夫にでも変装してカルト・ハダシュト(現カルタヘナ)に舞い戻ることであった。そこには頼れる母がいるし、会えるかどうかわからないが、イミリケもいる。逃げ出してきた場所に戻るのは、相手の裏をかくことにはなるかもしれない。

 もしくは、一度しか行ったことがないが、カストゥロであれば、母の故郷とは違い、行き方は分かっている。ここもカラスカが逃げ込む最有力の場所だけに見張られている危険は高いが、街にさえ入ってしまえば、族長である祖父が健在であり、地の利のあるカストゥロ一族にカラスカ一人を匿うことは難しくはない気がした。

 父ならどこを選ぶか。カラスカは判断に迷ったら、父の考え方を真似ようと思った。しかし、父のことを思い出したことで、今思いついた場所にはどこにも行くべきではない気がしてきた。

 (だれかを頼ってはいけない)

 それはそろそろ自立をしなければ、という自覚からくるものではなく、

 (頼った人たちが全力でおれを助けようとして、おれの犠牲になってしまう)

 そんな気がしたからであった。父はカラスカを逃がすために囮となってくれた。恐らく騎兵隊に捕らえられ、逃亡犯を匿った罪でカルト・ハダシュトに連行されているのではないか。母や祖父たちをそのような目にあわせるわけにはいかない。

 結局、カラスカはガディル(現ガディス)の様子を見にいくことにした。父や商隊の仲間がどうなったか知りたかったし、自分同様行く当てのないイルティラケルを置いてきたことが気にかかっていた。

 騎兵隊が見張っている可能性の高い街道へ戻ることは避け、父やイルティラケルと通ってきた間道を使ってガディルに向かうことにした。方向感覚には自信がある。星の位置から見当を付け、東へ、南へと進路を選んでいくと、見覚えのある丘の上に出た。丘の上を北東から南西に道が走っている。見晴らしの良いこの丘は父やイルティラケルとしばしの休息をとった場所に違いない。

 この間道とてガディルにつながるのであれば、騎兵隊がカラスカを探して巡回している可能性がある。カラスカは警戒を高めつつ、ガディルへの道を進んだ。夜が明け始め、視界が徐々に広がりつつある頃、道の先に小さな人影を認めた。一瞬追手かと思い、馬の向きを変えようと手綱を引きかけたが、すぐに徒であることがわかり、少なくとも騎兵隊ではないと安心した。恐らく夜明けと同時に野良仕事を始める近くの村の農夫だろうと思い、そのまま近づいていくと、夜通しの速足で息を切らすイルティラケルとピスタであった。カラスカにとっては予想もしない場所とタイミングで二人と再会することになったが、二人はカラスカの探索を託され、イルティラケルがカラスカはこの道を下ってくるはずと予測してのことと聞き、イルティラケルの勘の良さに感心した。


 再会の喜びもほどほどにイルティラケルとピスタから父の最期を聞かされた。カラスカは早朝の朝焼けに浮かぶ月に向かってしばらくその死を嘆いた。しかし、ゆっくり父を偲んでいる暇はないと気持ちを切り替え、二人を連れ、ガディルへ戻ることにした。カラスカを追ってきた騎兵隊は父の遺骸を伴い、すでにカルト・ハダシュトに戻っていったとのことだが、それが自分たちを油断させるための見せかけのものかもしれない。三人は警戒を解かないままできる限り急いだ。

 朝一番の渡し船は、ガディルで売る野菜や家畜を運ぶ人々で溢れていた。なんとか二番目の船でガディルに渡り、商隊が泊まる宿に飛び込んだ。ゾルダから商隊を託されたペッロはじめ、商隊の隊員が弾けるようにカラスカに駆け寄った。

 ゾルダの最期を商隊の隊員からも聞かされたが、カラスカは悲しみや不安よりも、父が自分を守ってくれたことへの感謝の念と、これからは自分が商隊を率いていかなければという責任感が湧いてきた。父の代わりをしてくれる人はいない。自分がやらなければならない。そして、もうだれかを自分の犠牲にしたくはない。それならば、誰も頼ってはいけないと改めて決意を固めた。とはいえ、知らないこと、分からないことを基に独断するのは無責任である。皆の意見を聞くことは頼ることではないはず。

 「まず、これから何をするか話し合って決めよう」

 悲嘆にくれる商隊の隊員がこのカラスカの言葉に顔を上げた。しかし、すぐに言葉を発する者はいなかった。しばしの沈黙を破り、最初に声を上げたのはイルティラケルであった。

 「騎兵隊の隊長からは、錫を買い足すように言われたんですよね」

 イルティラケル本人は神殿に逃げ込んでいたため直接には聞いていないが、ペッロがカラスカに語っていた船着き場での顛末を思い出し、このやりとりが気になった。 

 「そうだ。それがハンニバル様の命令だと言っていた」

 商隊の隊員の一人が反応した。

 「いや、正確にはハンニバル様の依頼だ」

 ペッロが内容を修正した。カラスカは皆の重い口が開くようになり、ほっとしつつ、口火を切ってくれたイルティラケルに目配せをして、謝意を伝えた。

 「命令と依頼で何が違うんですか」

 「我らをあくまで独立した商隊として扱ってくれているということだろう」

 「自由に交易していいということか」 

 「でも、ゾルダ様は奴らにやられて、連れていかれてしまった」

 カストゥロで交易といえば、それを真っ先にはじめたゾルダのことを誰しも思い出していまう。せっかく活気が出てきた話し合いにゾルダの話題が出ると、場の雰囲気が再び重くなってしまった。話し合いはできるかぎり皆に任すつもりのカラスカが口を挟んだ。

 「父さんの話はいいよ。誰も付き添わせてもらえなかった。でも、誰も連行されなかった。それには何か理由がありそうだけど、今はそれは分からない。分からないことは一旦放っておこう」

 「わかりました」

 一同がほっとしたように頷き、再び活発な議論が始まった。

 「我ら以外の商人も錫の買い付けを請け負っている。急ぎ確保しないと、前回と同じ量は簡単には集まらない」

 「昨晩、港に北の島からの船が入って来るのを見た。今日荷下ろししているはず。錫を運んできているかもしれない」

 「では、早速それを確認し、押さえにかかりましょう」

 ペッロがカラスカの確認をとって、三人が港に走った。

 その後、ゾルダが計画していた通り、イベリア半島西部へ交易に向かうことになった。その目的は当初カラスカの逃亡だったため、最低限の交易品しか仕入れていない。せっかくなので、もう少し仕入れた方がよいという意見が出た。カラスカは皆が話し合って決めたことに

 「それでいいと思う」

 と応えただけであった。

 錫の買い付けとカルト・ハダシュトへの輸送の手配、これからの交易のための追加仕入は二日がかりで完了した。商隊の一人が錫の輸送を監視するという名目で、カルタゴ籍の商船に乗り込むことになった。それならば、カルト・ハダシュトに戻っても咎められないはず。騎兵隊の隊長はゾルダの件をカストゥロにも伝えると言っていたが、正しく伝えてくれるかは信用できない。自分たちが見たことをゾルダの妻、レガーニャに一刻も早く知らせる必要があるとの判断からであった。

 カラスカが率いるのは、残りの隊員にイルティラケルを加え、総勢10名の商隊であった。仕入れた交易品と残りがかなり減った銀を入れた樽を牛車を引かせた。カルト・ハダシュトからガディルに向かった時は、カラスカを逃がすために、距離を稼げる馬で荷を引いたが、今回はそれほど急ぐ旅ではなかったので、ガディルで牛車を確保していた。


 その一行は今街道を北上し、まずはイスパル(現セリビア)へ向かいつつある。カラスカ率いるカストゥロの商隊が目指すイスパルは、タルテッソスというイベリア半島南西部で栄えた古代王国時代に発展した都市である。ペルケスと呼ばれる大河(現グアダルキビル川)沿いに開けた地の利を生かし、その上流にある鉱山に産する鉱物の交易拠点となった。実はカストゥロもペルケス河の上流に位置する。今でこそほとんど取引はないが、かつてはイスパル経由の交易が多かったらしい。タルテッソスは数百年前に滅んでいたが、時代を経ても金や錫など貴重な金属の需要は滅びるどころか盛んとなり、その集積地としてイスパルは生き延びていた。ガディルとの関係は古く深く、両都市を結ぶ街道は今も往来が少なくない。よって、治安もそれほど悪くなく、カラスカは慌ただしく過ぎていった昨日と一昨日の出来事を思い返す余裕があったというわけだ。

 

 それまで殿にいたペッロが先頭を行くカラスカに馬を寄せてきた。比較的安全な街道とはいえ、賊がまったく出ないわけではなく、商隊の後ろから見張っていたのだが、イスパルが近くなれば、もうその必要もないと判断したようだ。

 「昔、レガーニャ様をイスパルまでお連れしたことがあるんですよ」

 「かあさんを。僕が生まれる前かな」

 「そうです。ガディルに移られて、少し経った頃でしたな」

 若かりし母も馬の背に揺られてここを通ったかと思うと、初めて眺める風景にさらに色彩が増す気がした。

 「この辺りにかつて栄えた王国があったそうで」

 「ということは、街で古い書物を見せてもらったか、古老から昔の話を聞かせてもらったんでしょう」

 母はドルイドとして、気候や地形、動植物といったものへの関心が強く、今でも供を連れて郊外を歩くことが時々あるようだが、わざわざここまで足を延ばしたのであれば、さらに強く母の関心を引くものがあったはず。

 「さすが、よくお分かりで」

 父に聞いたガディルの港での母の振る舞いから、その推測は難しくなかった。

 「母さんは収穫があったのかな」

 「羊皮紙の巻物をいい値段で買われたはず。そこに書かれた文字はイスパルではもう誰も読めず、彼らには価値が分からないものだったようで、タダでもよいという感じでしたが」

 「売ってくれた人は驚いただろうね」

 「それは間違いないですな。巻物に支払った金額以上に彼らが驚いていたのは、レガーニャ様本人のことでしたぞ。レガーニャ様は今もお変わりないが、当時の美しさは私の語彙では上手く表現できんです。盲目の若く美しい女性が、まだあの頃は我らの言葉を片言しか話せなかったのですが、大昔の話を必死に聞きたがる様子に人だかりができてましたな」

 

 二人の会話を、カラスカのすぐ後ろを進むイルティラケルが興味深く聞いていた。その話自体、カラスカの奇跡の話のように誰もが興奮して聞く類のものではない。それでもイルティラケルには強い関心があった。

 イルティラケルが村から逃げ出せたのは、連れ出してくれたゾルダのお陰である。その恩人はハンニバルの部下に殺されてしまった。カラスカは幸運児だから、付いていけば、人生が開けると言われたことは、結果的にゾルダからの遺言となった。恩人の遺言だからとそれに従う義理はない。実際、イルティラケルは一人ガディルに残ることを真剣に考えた。商隊の買い付けに付き添いながら、宿屋でも、港でも、市場でも自分はどんな仕事にならば就くことができそうかと、そこで働く人々を観察した。自分には学もなければ、屈強な肉体もなく、縁故もない。そんな自分では賃金の安い下働きぐらいしか仕事はなさそうであった。そんな彼らの服装は皆かなり粗末なものであった。村を出る前に危惧していたとおりだ。

 それが嫌なら、カラスカが率いるカストゥロの商隊にこのまま付いていくしかないのか。なぜかゾルダがいなくなっても、だれもイルティラケルが商隊に残っていることに疑問を差し挟まなかった。他の商隊は知らないが、このカストゥロの商隊は、ピスタのような若手隊員もそれなりの服装で、都市に宿泊中の食事は意外と豪勢なものである。ただし、商隊の重装備を見れば、その旅が決して安全なものでないことが知れる。カラスカがハンニバルからもう追われていないという保証もない。

 ガディルを出発するぎりぎりまで悩んだイルティラケルは、今カラスカとペッロの後ろで馬の背に揺られている方を選んだ。この商隊の人たち、特にカラスカに情が移りつつあったからだ。それはこれまで母と生まれたばかりの弟にだけ抱いた感情に近かった。

 村の同じ年頃の子供とは打ち解けなかった。母には黙っていたが、イルティラケルの父親がよそ者ということで、差別やいじめのようなものを受けていた。もちろん、ガディルで暮らし出せば、親しさを感じる仲間や家族ができるかもしれない。しかし、義父や村の子供たちとの関係から、一緒に暮らしたり、遊んだり、働いたりしたからといって、親しくなるわけでないことも学んでいた。一方、ゾルダやカラスカ、さらにはカストゥロ商隊の隊員には徐々にでも打ち解けることができた。誰もイルティラケルをいじめたり、蔑んだりしない。それはゾルダがいなくなっても変わらなかった。

 (追い出されるか、嫌になるまでは付いていこう)

 それがイルティラケルの出した結論であった。そう覚悟を決めたからには、これからしばらく共に過ごすことになるカラスカや商隊のことをもっと知っておきたい。今聞いている話やカラスカから聞いた話からすると、カラスカの母親は、カラスカや商隊への影響力では亡くなったゾルダにも引けを取らない人のようだ。その人のことをよく知りたい。いや、知らなければならないと思った。

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