ハンニバル

 カルト・ハダシュト(現カルタヘナ)の宮殿は、この都市の北西の丘に聳え立つ。宮殿から見渡せば、住人のほとんどが暮らす都市の中央に整然と造られた街並みは、まだ拡張の余地を残し、新興都市の伸びしろを示している。わずかに右手に視線を振れば、大型帆船やその周りを動く小型の船が海面を埋めており、完成から十年も経たぬうちに、ガディル(元ガディス)に並ぶイベリア半島最大規模の商業都市へ成長したことがわかる。左手奥を臨むと、南東の丘の上に大理石で組み上げられたメルカルト・ヘラクレスの神殿が厳かに鎮座している。この都市を守護し、繁栄へと導くのは、神殿に祭られたメルカルト・ヘラクレスの神だが、その実行を託されているのが、バルカ家であり、その新たな棟梁がハンニバルである。


 宮殿上階にあるハンニバルの執務室には、イベリア半島の地図が広げられた大きなテーブルが中央に置かれ、他にはハンニバルの机と椅子があるだけだ。中央のテーブルに椅子さえついていない。

 ハンニバルがイミリケと過ごす私的な区域にある個人の書斎の方には、この時代非常に高価な巻物、その多くがギリシア語のものを多数並べた本棚があり、ギリシア系の職人による装飾の施された燭台がいくつも置かれている。実用性重視ながら脚や肘掛の優美な曲線が印象的な椅子もギリシアの意匠である。後にライバルとなるローマの上流階級で急速に高まっているギリシア文化熱にハンニバルも罹患したわけではない。自分の感性に合う実用品を集めたところ、尊敬するアレクサンダー大王が生み出したヘレニズム文化の産物が結果的に多くなった。それでも、必要なものを揃えてしまうと、

 「今あるもので十分事足りる」

 と書物以外の、それ以上の収集には関心を示さなかった。

 その一方、ハズドルバルから引き継いだ公の仕事空間は、先君の豪奢な趣味のものはいつのまにか片づけられ、ギリシアの軍事国家スパルタを連想させる質実剛健な雰囲気が漂う。それによりこの部屋を訪れる重臣たちは、ハズドルバルは喜んで収めてくれた豪華な調度品や美術品をハンニバルは受け取る意思がないことを知らされた。ハンニバルの私的な趣味を知らない重臣たちは、

 (では、どうやって歓心を買えばよいというのか)

 と一時期手当たり次第に情報を求めた。その結果、アレクサンダー大王の事績を含め、ギリシアの書物を集めていることが漏れ伝わってきた。しかし、ハンニバルがまだ手にしていない書物が何で、欲しがっている書物が何か分からなければ、高価な書物を購入しても無駄になりかねない。美術品、実用品であれば、万一ハンニバルに受け取ってもらえない場合も、自分たちで楽しんだり、他に贈ったりと使いようはあるが、書物を読む習慣のある重臣はカルト・ハダシュトには一人もいなかった。


 今この執務室にはハンニバルのほかに秘書役の奴隷が一人、ハンニバルに面会を求めてきた重臣が一人、この三名に対し報告を行おうとしている兵士が一人がいた。ハンニバルは自分用の、皮も張られていない背もたれだけの椅子に座り、秘書役はその脇に立っている。重臣には控室から持ってきた丸椅子があてがわれていた。

 入口から一歩入った位置で報告を始めようとした兵士に向かって、

 「もう少し中に入ってはどうか。ここで声を張る必要はない」

 言葉穏やかにハンニバルに促され、兵士はいざ部屋の中央、テーブル近くまで進んでみるが、早速今まで通り戸口に留まればよかったと後悔した。ハンニバルとこれほど近くで接するのが初めてだったため、その眼光の鋭さ、体全体から醸し出される鋭気に圧倒されそうになった。秘書役の奴隷がその兵士を落ち着かせようと、その目を見て軽く頷いた。そのお陰で少しだけ落ち着いた兵士は一呼吸おいて、口を開いた。

 「サグントの状況を報告いたします」

 サグントはイベリア半島中東部の海岸に位置し、ガディルやここカルト・ハダシュトと並ぶ、イベリア半島における主要な貿易港を持つ都市である。ギリシア、カルタゴ双方の貿易船が寄港し、妻イミリケの実家カストゥロも少量ながらいまだこの都市に銀を供給していると聞く。

 有力者の力関係、守備兵の数、城壁の修復具合、武器や食料の貯蔵量といったサグントの政治、軍事機密を聞き終えたハンニバルは 

 「今後も商人たちからの聞き取りと現地の調査を三月毎に継続し、変化があれば報告を上げるように」

 報告した兵士を労うと、本来ハンニバルの傍らに立つべき男に代わって秘書役をしている奴隷に何か小声で指示を与えた。そのやりとりが終わるのを待って、

 「サグントを攻めるつもりですか。あそこに関してはローマと協定を結んでいたはずでは」

 同席の重臣がハンニバルの意向に探りを入れる。彼はハンニバルに呼び出されたのではなく、自分一人の判断でここに来たわけでもない。ハンニバルが今後何をしようと考えているのか分からず、不安に苛まれている重臣たちが相談の上、ハンニバルの父ハミルカルの信任が厚かったこの重臣を代表として送り込んだのが実態である。

 ハンニバルから返事がないのは想定通りであったが、聞かずにはいられなかった。ハンニバルは自分の考えに重臣たちが口をはさむことを好まない。そのことはここ数か月のやりとりで重臣たちも理解しつつあった。それでもちょっとした反応からその考えの一端が見えるのでは、と期待しての投げかけであった。この重臣がローマと揉めることを恐れての発言というわけでもない。ハンニバルは自分の考えをめったに語ってはくれないが、なぜか部下からのこのような質問や発言を完全に封じることはなかった。

 ハンニバルの父ハミルカルも独断で事を進める棟梁であった。しかし、これはハミルカルの性向というよりは、当時はまだ大規模な軍を任せたり、作戦会議で建設的な見解を述べられる人材が不在であったことに起因していた。ハミルカルは、ローマとの戦争(第一次ポエニ戦争)の中で軍事的な人材育成にも注力していた。そのため、方針や作戦の目的と理由を随時部下たちに説明してくれた。その中で頭角を現したのが、娘を嫁がせることになるハズドルバルであり、ハズドルバルを支えた重臣たちであった。

 一方、ハズドルバルも実力、実績から自分の思い通りに采配しつつ、その過程では同じくハミルカル門下の重臣たちとの協議の体も繕ってくれた。それは、バルカ本家直系でないことの負い目ではと陰で言われたが、重臣たちには自分たちの意見も伝える機会があり、悪くない体制であった。二代に渡りそうした環境で仕えてきた重臣たちはハンニバルの独断専行なやり方にまだ馴染めずにいた。

 入れ替わって、次の兵が執務室に入ってきた。ハンニバル仕様に変わったこの部屋を初めて見たのか、室内をさっと見渡し、その様変わりぶりに驚く表情を見せた。そんな兵士の様子は気にもかけず、ハンニバルから声をかけた。

 「シレノスからの報告か」

 「はっ、今シレノス様は、カルト・ハダシュトまで一日のところです。明日の日暮れ前には到着の見込みです」

 「それでは、脱獄したハズドルバル様暗殺犯を確保したのだな」

 「はっ、しかし、生け捕りにはできず」

 「なに」

 ハンニバルが思いのほか強い反応を示して、報告の兵がたじろぐ。彼はシレノスが率いたカラスカ追跡騎兵隊の一員である。ハンニバルへの報告と指示を仰ぐために一騎先行してきた。

 「まあ、ちょうどよかったではないですか。例のハズドルバル様殺しの元近習なら、遅かれ早かれ死刑の身です」

 「シレノス様からはカストゥロへの説明を、との伝言です」

兵はハンニバルの圧にも耐え、なんとか上司の言葉を伝えた。

 「そういえば、カストゥロの族長の孫かなんかでしたな、その犯人は。ただカストゥロの方でも分かっているでしょう。自分のところの若者がとんでもないことをしでかしたことは」

 重臣の発言を受け、少し冷静さを取り戻したかに見えるハンニバルが応えた。

 「イミリケには私から話しておく。カストゥロにはシレノスが、ここに戻り次第イミリケを連れ、説明に行って欲しい」

 「そのようにお伝えします」

兵は無事に役目を果たし、ほっとした様子で部屋を出ていった。

 「そういえば、最近お姿を見かけませんが、イミリケ様はお元気ですか」

 重臣はハンニバルに代替わりしてから公の場に姿をほとんど見せなくなったイミリケの容姿端麗な姿を思い浮かべた。この重臣の個人的な好みとしては、

 (もう少し艶めかしさがあれば)

 と思わぬでもないが、このバルカ王国の王妃として戴くのであれば、女神然としたその瑞々しい美しさが相応しいのかもしれない。

 「身内が暗殺犯となって気落ちしているのだろう。これを機に吹っ切れてくれるとよいのだが」

 本来、ハンニバルの傍らで秘書役を担うシレノスからのものが本日最後の報告であると、その代役の奴隷から告げられ、ハンニバルは頷き、

 「今日の報告にあったことは外では話さないでもらいたい」

重臣に向かって釘を刺した。

 「もちろんです。どちらも機密事項ですから、ハンニバル様からしかるべきタイミングで必要な方々に知らされるものでしょう」

 重臣は慇懃に答えたが、ハンニバルがその言葉、態度を信じているとは、秘書役の奴隷には感じられなかった。逆にこの重臣から他の重臣たちに伝わることを期待して、この二つの報告の場に同席させたのではないかとさえ思えてくる。シレノスが重臣たちの口の軽さを嘆くのを何度も聞いたことがあった。

 ハンニバルと重臣が席を立ち、ハミルカルの思い出を語り合いつつ部屋を出ていくのを見送りながら、秘書役の奴隷は今自分が感じたことを頭の中で整理してみた。普段は資料の整理、検索を主に任されている。臨時の秘書役を任されるだけあって、論理的に考えることが苦手ではない。上司に当たるシレノスからも資料の内容に関して気になることがあれば、その根拠をつけて報告するよう常に求められていた。疑問に感じたことを深堀するのが習慣となっていた。

 実は、その重臣が同席した執務室における二件の報告に先立って、ハンニバルはカルタゴからの使者を引見していた。場所はこの簡素極まりない執務室ではなく、ハズドルバル時代から豪華絢爛の内装変わらぬ応接の間であった。

 ハズドルバルの死を受け、ハンニバルはその暗殺犯を確保し、ハズドルバルの国葬をつつがなく執り行うことで、このバルカ王国を自らが継承することを重臣たちやスペイン部族長たちに認めさせるのに成功していた。しかし、本国カルタゴからの承認がまだであった。その回答を持った使者との会談である。重臣たちやスペイン部族長がハンニバルを支持していることをアピールするためにも、その会談の開始前に来訪していた重臣を会談に同席させることは、ハンニバルにとっては有利になると秘書役の奴隷は考えた。しかし、ハンニバルの判断は違った。

 「カルタゴの使者との会談が終わるまで待ってもらうように」

 会談の内容は期待したものより渋いものであった。使者はその支配地域をハズドルバルの死後も混乱なく治めるハンニバルを称えつつ、カルタゴの民会が「リビュアおよびスペイン方面軍の将軍」にハンニバルを選出しなかったことを伝えた。 

 この肩書は、先代ハズドルバルがカルタゴより与えられていた称号である。つまり、スペインを統治する公式な役職なのである。”初代”ハミルカルは、「リビュア方面軍の将軍」に就いていた。その肩書を持って、担当地域となる北アフリカとはヘラクレスの柱(現ジブラルタル海峡)を挟むだけで隣接し、すでにカルタゴの勢力が一部及んでいたスペインに上陸し、その勢力範囲を劇的に拡大していった。いずれにしろカルタゴの将軍職に任命されなければ、都市国家カルタゴの一員として公式にスペインを治める資格はない。

 バルカ家が半独立勢力としてイベリア半島南部を支配して十年が経過するが、自分たちはあくまでカルタゴに属しているという意識が、バルカ家にも、その重臣たちにも意外と根強い。

 「民会で選ばれるよう、分かりやすい実績をあげてもらうしかありません」

 使者からスペインの統治権を公式には認められなかったが、他に「リビュアおよびスペイン方面軍の将軍」が選出されたわけではない。実質はこの権力の継承を黙認し、今後の状況次第で公な追認があるという政治的な回答は、最低限の成果ではあったが、まだ重臣たちやスペイン部族長たちに知られたい内容ではなかった。

 (この回答も想定して、同席をさせなかったわけか)

 ハンニバルがこの地でどれほど人心を掌握し、この後さらにその支配圏を広げる準備をしているかをアピールしたところで、この使者の肩書では、その情報を本国に持ち帰ることしかできず、将軍職を与える資格も権限もないことは事前に分かっていたのだろう。秘書役の奴隷は、カルタゴの使者との会談が終わると、ハンニバルの情報収集能力および判断の適切さに感動しながら重臣を呼びに控室に向かったことを思い出した。一方、その後に続く二つの報告はわざわざ重臣を同席させ、聞かせる必要がある内容ではなかった。それなのになぜ敢えて同席させたのか。重臣たちをあまり排除しすぎるのもよくないと、はけ口としての効果を狙ったものであろうか。ハンニバルのことなので、何かしらの目的があるのは間違いない。しかし、その狙いはどうしても思いつかなかった。 

 (私はシレノス様ではない)

 普段ハンニバルの秘書役を務めるシレノスはハンニバルの考えをほぼ理解しているようだ。そのシレノスにわざわざハズドルバル暗殺犯を追わせた意図もこの秘書役の奴隷には理解できなかった。ハンニバルの傍らにその意図を掴めぬまま仕えるのは大変な緊張を伴う。

 (明日にはシレノス様が戻ってくる)

 「ふぅう」と大きく息をつく。明日は会談や報告の予定は入っていない。これでここ数日の重責から解放されると安堵しながら、執務室の後片付けを急いだ。シレノスが戻り次第確認してもらうことになる本日の議事録の末尾に重臣が同席したことを記すと、それを記した羊皮紙を脇に抱え、重臣が座っていた丸椅子を持って、部屋を出た。

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