二番目の恋

北原楓

プロローグ

プロローグ

 青い空を眺めながら、初恋のことについて考えていた。

 正確には初恋の相手についてだ。考えていたというよりも、思い出すと言った方が近いのかもしれない。閉じたまぶたの向こうに浮かぶ彼女の顔、そよ風で揺れそうな絹のような髪、耳の奥で蘇る声、彼女を形作る要素を一つずつ思い出し、その要素を頭の中で組み立て彼女を形作る。

 僕は時々彼女を思い出し、彼女について考える。覚えた英単語を暗唱して記憶の定着化を図るように、ほぼ毎日彼女のことを考える。僕は僕の中にいる彼女が色褪せてしまうのが何よりも怖かった。

 昨日よりも少しだけ躍動的な色に近づいた青を、緊張の眼差しで君も見ているのだろうか。今もこうやって彼女の姿や仕草を想像することしかできないでいる僕には、もどかしい日々がこの先三年間も待ち受けていると思うと、なんだか息苦しくなる。

 空に向けていた視線を校門に落とす。

 アニメでの入学式のシーンはお決まりのように桜の花びらが舞っているけど、僕らの地域では四月イコール桜の時期ではないし、顔を覗かせた春は猫のように気まぐれだ。昨日までは冬の残り香を強く感じる風が吹いていたけど、今日は昨日よりも幾分春らしい陽気を感じる空気が街を包んでいた。そんな春の陽気に導かれるように、初々しさと緊張感を身にまとった新入学生が校門を通り校舎に足を踏み入れる。僕はしばらく校舎に吸い込まれるように登校してくる生徒の姿を四階の教室から眺めていた。

 多くの生徒は緊張の面持ちだったけど、誰もが一様に明るい未来に向かって歩を進めているように感じられて、纏う空気は菜の花色に見えた。

 一方、僕だけが彼女の呪縛から逃れられず停滞している。未来に期待することを放棄して、綺麗な思い出の中で北風に耐えるように震えている。

 ここで始まる新たな日常にも、きっと春は訪れないだろう。そして、春の訪れを知

らない桜は美しい花を咲かせることもない。

 不意に後ろから声を浴びせられた。

「何見てんの?」

 僕が振り向くと、そこには先月まで中学校に通っていたとは思えないような風貌の

男子生徒が立っていた。

 僕は口を開く。

「外の景色だよ」

 窓から見えるのは外の景色以外に何があるのだというのだろうか。そんな当たり前

の答えを求めて彼は話しかけてきたわけではないことを分かっていても、僕は当たり

障りのない答えしか言えなかった。

「外見てて面白いか?」

「面白くはないよ。ただ、入学式が始まるまで席に座っているより、外の景色を眺め

ていた方がまだ緊張が和らぐと思ってさ」

「そっかそっか、そうだよな。俺も緊張しててさ、誰かと話したいなと思っていたら

お前が目に入ったわけ。あっ、俺は高木ね。皆からは紀夫のりおと呼ばれることが多いから、名前で呼んでくれて構わないぜ」

 彼はそう言って、ガハハと豪快に笑った。

 ずいぶんと馴れ馴れしい男だなと思ったけど、友達づくりに関しては受動的になる

ことが多い僕にとっては、フランクに話しかけてくれる彼のような存在は正直ありがたかった。

「僕は三代みしろ、よろしく」

「お~、よろしくな。とろこで三代はどこ中?」

「春中だよ」

「結構遠いな。俺は緑中だから家も学校から近いんだ。バスで通うのか?」

「チャリ通する予定だよ」

「そっかそっか。とろこでさ、部活には何か入る予定なのか?」

「部活紹介見てから考える。紀夫は?」

「部活は入ろうと思っているけど、まだ決めてねーや」

 彼は照れ臭そうに笑う。

 僕と紀夫は先生が来るまでの間、冬の間教室の片隅で頑張り続けた暖房機の前で、

高校生になってどう過ごしたいのかという話題で時間をつぶした。

 紀夫はフランクで明るく、お調子者っぽく、どこか憎めないやつだった。高校生に

なったばかりだというのに、うっすらとヒゲも生えていて大学生と言われても少しも

違和感がなかった。


 担任の先生が教室に入ってきて、僕らに対し廊下に並ぶように言った。

 僕らはH組だから、廊下に並んでもすぐに体育館に移動を開始しなかった。AからG組が順々に移動するのを待っている間、会話をしているのは男子よりも女子の方が圧倒的に多かった。このような光景を見ると、男子よりも女子のほうがコミュニケーションが得意なのだろうと思い知らされる。

 通路の向こうに視線を向けると、F組が移動し始めた様子が目に入る。もうすぐH

組も移動が始まると思うと、周りのみんなの緊張感が増したように感じた。きっとみ

んな、今日から始まる高校生活に何かしらの期待を抱いているんだ。だから、大小関わらず新しい体験が自分の中に取り込まれる度に、自分の中で化学反応が起きて心を動かす何かが生まれているんだ。

 H組も移動を開始する。階段を下りて、生徒玄関とステンドグラスホールの間を通

る。僕の高校には美しいステンドグラスホールがあり、そして立派なグランドピアノ

がステンドグラスの前に佇んでいた。このステンドグラスの前でピアノが弾けたら、

とても素敵だろうなと思うけど、あいにく僕はピアノに触ったことがない。

 体育館に全校生徒が並んだ。将棋版の盤面に並べられた駒のように、綺麗に並んで

いた。

 僕ら一年生は中学生から高校生になり、二年生は後輩ができ、三年生は受験を控え

た学年となり、それぞれに緊張感が高まる状況に身を置く。ピンと伸びた輪ゴムのような空気を纏っていても、僕とは違い、みんなそれぞれ眩しい期待感も同時に抱いていることが表情から伺える。

 僕は三○○人近い一年生を見渡す。

 学区から解放され、市内各地域から集まった生徒たち。でも、体育館に並ぶ生徒の中に彼女の姿がないことは分かっている。それも何カ月も前から彼女と同じ高校に通えないことは分かっていた。だけど、今でも僕の中にはその現実味なんてなかった。

 心のどこかで、きっと彼女とまたどこかで会える、この街にいる限りまた会える、

という今にも弾けて消えそうな泡のような期待を壊さないように意固地に抱き続けて

いた。

 僕はいつかなうとも分からない初恋を一○年以上もこの胸に抱き続けている。

 叶う気配すら全く訪れないのに、僕はこの初恋に別れを告げられずにいたし、この

初恋への別れを告げることを決意せずにいることに甘んじていた。

 彼女も僕と同じように、今頃彼女が通う高校の体育館で校長先生の話を聞いているのだろう。彼女が佇む体育館に僕はいない。そう思うと僕は何だか泣きたくなった。だから、僕はそっと拳を握り下唇を軽く噛む。

 僕はゆっくりと顔をあげて体育館の天井を見上げた。

 そして、音にならない彼女の名前を口にした。

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