第14話 素直な思いを
「ひっ……いあ……」
悲鳴にもならず呻く声に、修治郎は再度低く一言。
「いいから包帯を巻け」
暗闇の中に確かな怒りが混ざった。
次第に力が込められていく左手を、蘭子は両手で必死で外そうと抵抗する。しかし喉からはすぐに嗚咽が漏れ、苦しげに小さく頷いた。
「わ、か……わありました……」
聞くや否や修治郎はぱっと左手を離した。
蘭子はうずくまり荒く息を求めた。呼吸音と鼓動が耳元で大きく音を立てて混ざる。
数分間、嗚咽の混じった荒々しい呼吸が、雨音に重なり混じった。
俯いていた蘭子はやがてゆっくりと顔を上げる。目頭には薄らと涙が滲んでいた。そのまま、今度こそ素直に包帯を巻き始める。えずきながら言葉を溢す。
「巻いたら、話してくださいますか」
修治郎は、今度は身を翻すでもなく、冷やかに返した。
「首を切られたいか」
「諦めません、お友達が居られたらこんなこともしなかったでしょう」
「どうかな」
「私のせいです。私が貴方を囲い込んで一人にさせたのです。私が尽くすことで貴方から全てを奪ったのです。旦那様のお誘いでなくとも、もっと早くから外に連れ出していればよかったのです」
「的外れもいいところだよ。僕はずっと前からこうだった」
蘭子はふるふると首を振った。
「いいえ、私がどうにかできる機会がもっとあった筈なのです。何も貴方の身の回りの世話をする為だけにここまで着いてきた訳ではありません」
「君が居ようが居まいが僕は変わらない。変わるものか」
「私がただの召使いならそうでしょうが、私は」
「もういい」
「よくありません。修治郎様のお身体は私の身体よりもよっぽど大事なのです」
言い切る。雨音が唐突に強くなった。
「召使いというより、母親か何かかね。君は」
修治郎が呆れたといったような目でそういうと、蘭子はひとつ息を飲んでから、吐息に混ぜるように続けた。
「そのくらいのつもりでいましたよ、今までだって」
「訳が分からん」
蘭子は険しげな声をそのままに、淡々と語り出した。
「子供扱いと言われたらそれまでですが、でも私はちゃんと、修治郎様に意味のあるロンドン留学を経験してもらえるように、力を尽くしてきたつもりです。お友達でなくとも、他の様々な境遇を持った留学生の方々とお話になって、修治郎様が成長なさることが出来たら、きっと私もやりきったと達成感を得て帰国することが出来るだろうと」
「余計な世話と言ったら?」
「私が居なくて生活できますかと問います。外の世界が怖いというのも分からないではありません。私は修治郎様よりもっと下手な英語で、東洋人として見下されているように思うと怖くて、それでも何とか生きていかねばなりませんから頑張っているだけで、今だって怖くて仕方ないこともあります。何なら、今の方が怖いかもしれません。修治郎様が外に出たのはまだたった二日なのに、たくさんのことが起きました。嬉しいような、はたまた知らないことがたくさん起きて少し怖いような、複雑な気持ちです」
そしてにこりと笑う。涙の乾かぬ目に笑みを湛えて、優しく語りかける。
「でも私はちゃんと、ここに来て成長できたような気がしていますよ。怖いこともありますが、あのまま帝都にいてはできなかったことだと思うと、むしろ何だか頑張れてしまうのです。英語もそうですし、喜一郎様のお話も面白いですし、帝都よりも美味しくないお水でどうやって貴方のお口に合うご飯を作ろうかとか、旦那様への忖度とか、挙げたらきりがありません」
包帯を巻く手に、ほんの少し力がこもる。
「この先は、我儘かもしれません。私の仕事は貴方の使用人ですから、私ばかりが成長するのではなくて、ちゃんと貴方にも成長していただきたいのです。私は、あなたの成長を支えるには、至らぬところばかりかもしれませんが……」
言い終えて、蘭子は左腕の包帯を巻き終えた。
修治郎はむず痒そうに蘭子から目を逸らした。しばらくそのままそっぽを向いていたが、やがてくるりと蘭子の方へ寝返り向き直った。
暗闇の中、穢れのない子供のような目で、うっすらと蘭子を見つめる。
「僕には自信がない」
何やら感情めいたものを感じ取って、蘭子は次の言葉をじっと待った。
「自信だけではない。僕には何も、何もないんだよ。報われないと、ずっと思っている」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます