第13話 両腕


 雨が降り始めた。

 レンガの壁を叩く雨音が暗い部屋に空しく響く。

 本と紙束の塔に囲まれた真っ白なベッドで、修治郎は静かに目を覚ました。シャツは新しいものに、動かしづらい肢体には包帯が丁寧に巻かれている。体の節々にじんわり残る痛みを感じると、起き上がるのがまた億劫になった。そのまま、再び目を閉じて静かに呼吸のみをする。

 きい、と小さな音を立てて、扉から一筋の光が差し込んだ。

 蘭子が、トレーに新しい包帯を乗せて入ってくる。空気一つも震えない足音だ。そのままトレーを積まれた本の置き、ベッド脇に膝をつくと、修治郎のシャツの袖を手際よく捲って包帯に手を掛ける。

 そこまで流れるように動いていた蘭子は、唐突に手を止めた。じっと修治郎の腕を見つめ、小さく溜息をつき、両手で軽く左腕を包み込んだ。黙ったまま、ぎゅっと体を引き寄せる。

「何をしている」

「あっきゃ!」

 暗い部屋に妙な悲鳴が上がった。

「ちょ……おまん起きてんなら言え!」

「御国言葉が出ているぞ」

 修治郎は弱々しい声で、それでもいつもの調子で返した。蘭子は大きな咳払いを幾つか響かせると、荒い声音のまま修治郎に向き直る。

「包帯を取り替えようと思いまして!」

 顔を真っ赤にして言い張る蘭子を、修治郎は寝たままじとりと見つめる。

「自分で出来る」

 蘭子はその言葉で、唐突に普段の調子を取り戻したように返す。

「無理でしょう、だって腕ですよ」

「この包帯は君が巻いたのか」

「ええ。御国言葉で思い出しましたけれど、弟がよく傷を作っていましたからね。慣れたものです」

 修治郎は応えない。長く、示し合わせたかのような間が空いた。

 やがて修治郎は何かを観念して受け入れるように、深い溜息を一つつき、今度は素直に左腕を投げた。蘭子も何かしら承知したように、左腕を優しく持ち上げる。細い指で包帯をほどく間、修治郎はぎゅっと目を瞑った。

 内出血の跡が痛々しく残る手首に、幾本の白い筋が浮かんでいた。

 蘭子は改めて、確かめるようにその筋を指でなぞる。親指の腹に、割れた皮膚のかさりとした感覚。

 修治郎は力なく、ただ嫌そうに投げる。顔は蘭子から背けたままだ。

「何だ、それは。何のつもりだ」

 応えない蘭子に、今度はもう少し詰め寄ったような声音で投げた。

「憐れみか何かか」

 蘭子は顔を上げないまま返す。

「憐れみ、ですか」

 今度は振り向いて問うた。

「それとも気味が悪いか」

 修治郎はしばらく、顔を上げないままの蘭子をじっと見つめていたが、やがて諦めたようにこう言った。

「何のつもりだって構わない。君にはきっと、僕のことは分からない」

 それを聞いた蘭子はようやく顔を上げ、静かな声で言い放つ。

「言う前から諦めないでください。修治郎様はそういって、ご自身のことを話してくれたことなんてありません」

 修治郎はわかりやすく、またそっぽを向いた。

「君は別に分からんでいい」

「知りたいです」

 そのまま、声を絞り出す。

「あのナイフですか」

 もし肯定されたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。それでも、聞かずにはいられなかった。応えない修治郎に、今度は蘭子が詰め寄る。

「あのナイフは日本にいた頃から持っていらしたのですか」

「それが何だ」

 いつもと変わらぬ低い調子で、誤魔化そうとしている。蘭子はもどかしくなって、はっきりと問うた。

「日本にいた頃から、傷つけていらしたのですか」

「それが何だ」

「それが何だじゃありません、何故ですか!」

 修治郎は応えない。叫んだ声はたちまち静寂に飲まれ、やがて雨音のみが部屋に響いた。

「分からんでいい」

 そう繰り返し、蘭子に預けていた左手をぱっと取り上げ、蘭子に背を向ける。

 苛ついた蘭子が、今度は強引に左手を掴んだ。

 修治郎は振り向いて、至極不機嫌そうに蘭子をねめつける。蘭子も強く返す。

「貴方に脅され慣れていますからその程度では食い下がりませんよ」

「いいから包帯を巻け召使い風情が」

 修治郎の声はみるみる、低く冷たくなっていく。

「この傷が何か教えてくださるまで巻きません」

「分かるだろう、自分で切っているんだよ」

「何故自分で切る必要があるのですか」

「君まで質問攻めか」

「答えてください」

 修治郎は左腕を翻し、勢いよく伸ばす。

「あっ」

 そのまま蘭子の熱い喉元に指を突き立てた。

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