第2話 青木財閥当主次男
蘭子は今まで、修治郎の父親から届く手紙すべてに目を通していた。大方上手くやっているかとか、学業はどうだとか、飾り気のない文字で綴られている。修治郎はそれに、
この生活状況は、旦那様の目に触れてよいものでは決してない。そういった蘭子の心中をよそに、この主人は毎度何も考える事なく筆を走らせる。
「旦那様からのお手紙はお読みになりましたか」
今回はとりわけ、彼女にとって難しい要求が書きつけてあった。
「読んだがそれがどうかしたか」
「その中に、旦那様が是非と仰っていた事柄がありませんでしたか」
「あったがそれがどうかしたか」
「いえ、どうかしたかとかではなくてですね……」
「分かっていないようだな蘭子」
修治郎はカップを手に取り、一口吸い上げる。恍惚げな溜息に混ぜるように、こう呟いた。
「僕は外に出ない」
またそれですかというように蘭子は顔を曇らせる。
「旦那様の要求は絶対です」
「主人に逆らうのかね」
「私は青木家の使用人です。修治郎様以上に、旦那様も立派な御主人様なのです」
「こんな日光の当たらない街で外に出る必要がどこにある」
「晴れていたら外に出るのですか」
「出ない」
大真面目に言い切った。蘭子も調子を崩さず続ける。
「ともかく、今回ばかりは仕方ありません。旦那様は修治郎様に是非と仰っています。私宛に届いた手紙にも、既に手配をしてしまったと書いてあります」
「君が断ってこい」
「嫌です。修治郎様の生活状況を見直す第一歩になるかもしれないではありませんか」
「この状況を改善する必要がどこにある。僕は勉強なら独力でどうにかしている。むしろ日本にいた頃よりも邪魔が入らないから快適この上ないぞ、君以外にはな」
反論すればするほどこの主人は、どこか嬉しそうに揚げ足を取ってくる。蘭子は埒があかぬと、強い口調で言い切る。
「諦めてください、人間外に出ずに生活することなんて無理なんです」
「そうだよ修治郎」
飾り気のない、それでいてどこか垢抜けた声。
「あ、お帰りなさいませ喜一郎様」
柔らかな笑顔を浮かべ、修治郎の兄、喜一郎が立っていた。部屋にマリオネットが転がっている光景にひとつの身じろぎさえしない、余裕のある立ち姿である。
「ただいま蘭子さん」
垢抜けた、穏やか声が部屋に染みる。蘭子も返した。
「今日は何方へ?」
「教授の紹介でセミナーに参加してきたんだ。現行の法制と二大政党の対立という、留学生向けの説明的な内容だったんだけど、なかなか面白かったよ。下院の意見が直接的に反映された事例がこれほど存在するなんて、やはりこの国は進んでいるね……まあ、その先進性を印象づける為のセミナーだったんだろうけど」
それよりも、と喜一郎はマリオネットなど諸々の所有物を綺麗に避け、修治郎の前に座り込む。
「蘭子さんから聞いたよ。お父様が修治郎の為に気を利かせてくれたんだってね」
修治郎はこの日最も不機嫌そうな顔で喜一郎を睨む。
「僕だって、修治郎が外に出るようになれば万々歳なんだよ。だって修治郎は、僕よりずっと優秀な貢進生だったんだ。僕よりずっと期待されていたんだ」
熱のこもった口調でそういう喜一郎と対照的に、修治郎は低い声で返す。
「過去形だろう」
「外に出るようになればきっと、修治郎にはその頭の良さを発揮できる機会が沢山あるに違いないよ。僕なんかよりずっと理解も早くて、聡明な修治郎を、僕も誇りに思っているんだ。それに最近、何をするにも蘭子さんを頼りすぎじゃないか」
「喧しい、分かった気になるな」
怒りを滲ませそう言うと、修治郎は喜一郎の足元を見やる。今すぐ出て行けという意味である。
喜一郎は寂しげな笑みを浮かべると、そのまま素直に立ち上がって部屋を後にした。
残された蘭子は何も言えず、ただ凶器と化してしまった修治郎を怯えた心持ちで眺めている。
嗚呼、また失敗した。
断るのも泣きつくのも、全て自分の仕事である。思うにこのお坊ちゃまは、喜一郎様からも旦那様からも奥様からも寵愛され続けてきた。それゆえ十七という、平安の男ならとうに元服しているような年齢でもこの自立心のなさで許されてきたのだ。
私は、奥様には失礼だが、母親のごとく、このお坊ちゃまを正すつもりでいるというのに。このお坊ちゃまの外での我儘を代行する為に留学に同行し、英語も一から勉強したわけでは断じてないというのに。
これまで幾度となく拒まれてきた要求ではある。だからこそ、毎度毎度だからどうしたと張り合ってきた。
「修治郎様」
蘭子は意を決して声を上げる。
「今回の旦那様の要求を聞いて貰えないのであれば、私は旦那様にここでの修治郎様の生活を赤裸々に報告したうえで、日本に帰らせて頂こうと思います」
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