ロンドンインジニアスブルー
郁路ミズ季
Chapter1: ingenious
第1話 倫敦は今日も雨
その日も雨だった。
街灯に浮かぶ、仄白い大きな建物。昼間にもかかわらず窓からはランプの明かりが漏れている。
橙の明かりが、室内にいる二人の間の空気をじりじりと焦がす。湿気でよれた大きさの合わない紙の束を抱えて、少女は深々と頭を下げる。長く黒い髪が揺らめいて頬にかかる。そのまましばらく、床の木目を見つめていた。雨が降っているというのに、喉が異様に乾いて感じた。
少女の正面にはぴかぴかの学長机。深い灰色の目をした女性が悠々と腰掛け少女を見つめる。大きな窓に映る雨と同じ色だ。
少女はおもむろに顔を上げ、相手を見つめ直すと、細い声で一言。
「それでは失礼します」
「待ちなさい、ミス・ウザキ」
返ってきた声に、少女は肩をぴくりと震わせる。
「何でしょうか」
「ごめんなさいね。あんまり、本当はね、こんなこと言いたくないのだけれど」
歯切れの悪い口ぶりに、少女はじっと黙り込んだ。
「私達も、何も慈善事業として貴方をここに置いているわけではないの。もう少し危機感を抱いて……その、早めの判断が欲しいわ」
少女は眉ひとつ動かさぬまま、その鈍色の言葉を喉奥に飲み込んだ。
「そう伝えておいて頂戴」
最後は雑に言い下す。少女もこれまた無機質に返した。
「はい」
そのまま静かに振り向き、部屋を後にする。
「失礼しました」
暗い廊下で、少女は溜息ひとつもつかずに、まっすぐ昇降口へ向かう。黒く質素な制服を纏った多くの生徒たちが、何やら物珍しげに少女を振り向く。少女の透き通る黒髪と白い肌は、彼らの青い眼にはどこか馴染みのない美しさを持って見えた。
少女はまっすぐ、ひとつのよそ見をすることなく校門を出、黒い傘を揺らしながら通りへ向かう。小柄な体に似合わない、重いブーツに雨水が跳ねる。
人々が傘の下、顔を上げることなく通りを歩く。誰もが黒い傘だ。少女も革鞄を抱え、足早に歩く。雨と人々の靴がレンガ道を叩き、頭のどこか空っぽなところに響く。
雨と灰と蒸気にまみれた、色のない街だ。
いつだって思う。ここまで無機質ならば、外にいるのも中にいるのも変わらないのではないかと。
外には吸える空気なぞないと、いつだか彼が言っていた。恐らく彼の言う意味とは違うだろうが、そう感じずにはいられない。
通りを曲がりしばらく行けば、レンガ造りの真新しい宿舎が並んでいるのが見える。少女はひたすら、速度を変えずに黙々と歩き、ある宿舎の裏口に立つ。傘をたたみ、壁際の階段を上る。二階には一階とは別に大きめの玄関がある。少女は傘立てに傘を突き刺すと、扉をがちゃりと開け入る。
案の定、外よりも暗い廊下が伸びていた。
少女はブーツから室内用のローファーに履き替え、壁伝いに二歩進むと、廊下の灯りを一つつけた。するとスイッチの下、小さな紙に鉛筆でこう走り書きがされていた。
『父ノ手紙ヲ修治郎ニ渡シタ。校閲頼ム 喜一郎』
少女は、今度こそ溜息をついた。
半ば苛ついて壁から紙をむしり取ると、そのままつかつかと廊下を歩く。奥の部屋の前で足を止め、強めにノックする。
返事はなかった。少女は構わず戸を開ける。
「失礼します」
中は静かだった。分厚いカーテンが掛かって、廊下の灯りが少女の足元を照らすのみである。
じっと目を凝らす。部屋の主の姿は見えない。苛つきが彼女の足を部屋の中へと運んだ。
しかし。
「……ひっ!」
慌てて後ずさる。
足元には、マリオネットが転がっていた。
それも、服は剥ぎ取られ、あらゆる関節は意図的に捻じ曲げられ、更にはその関節に食い込むように細い繰り糸が巻きつけられているのだ。
顔を上げる。一体ではない。暗がりの中に、無数のマリオネットが浮かんで見える。どれもが同じように、それそのものの形を失っていた。
少女は今度こそ、叫ばずにはいられなかった。
「きゃー!」
「喧しい!」
暗闇からすぐさま鋭い声が返ってくる。そのままのしのしと足音を響かせ、部屋の主が姿を現わす。
すらりと伸びた長身、細い体、病的なほどに白い肌。そして不機嫌そうに寄った眉間のしわ。
「主人の部屋に立ち入り金切り声を上げる嫌がらせか? 悪趣味もいいところだな!」
大人びたその容姿に似合わない暴言が飛ぶ。
少女も負けじと叫び返した。
「どっちがですか! 何ですかこの悪趣味な人形はー!」
「人の個人的空間に勝手に入ってきておきながら悪趣味とは召使いのくせに図々しい奴め」
「召使いだから中に入るんでしょうが! 私がいなかったら掃除するんですか!」
「掃除など必要ないといつも言っている! この空間は僕の脳内状態を表しているのだ!」
「ならこれは今あなたの脳内で何が起こっているんですか! 新たな芸術界への挑戦ですか!」
「君に解説してやる道理はない」
「なら掃除します」
少女は部屋の明かりをつけ、また数歩中に入る。
否、正確には数歩までしか入れなかった。マリオネット以外にも、書物やら辞典やら紙やらが散らかっていて、少女はまんまと進行を阻まれてしまったのだ。
「どうだ、主人の所有品は召使いには踏めまい」
主人は不敵な笑みを浮かべる。
「あの、全く格好良くないです」
「それにしても、君は何処に行っていたのかね」
それを聞いた少女は諦めたように溜息をつき、先程受け取った紙を鞄から取り出すと、主人の目の前に突き出した。
「課題です。今週分の。いい加減自分で出しに行ってください」
主人は、ああと何ともなしにそれを受け取ると、手頃な高さに積み上げられた書物を机代わりに早速解き始めた。
少女はそれを見送り、台所へ向かった。洗い物を済ませ、二人分の紅茶を入れて、再度主人の部屋に戻る。
明かりの下、周囲を凡ゆる書物に守られた主人は退屈そうに本を読んでいた。脇には既に解答の埋められた課題が積まれている。
少女は紅茶を手頃な本の上に置き、課題を拾い上げると、そういえばと思いだしたように聞いた。
「旦那様からお手紙が届いていたそうですね」
主人は眉をひそめ、少女を一瞥した。
「なあ蘭子」
「はい」
「何故僕の書く手紙はいちいち君に検閲されねばならんのだ」
少女は、今更ですかとでも言いたげな表情で返す。
「修治郎様が旦那様に失礼なことを申し上げないようにする為です」
「何様のつもりだ。その理屈でいけば兄さんも同じように君の検閲を受けることになるではないか」
「それは喜一郎様は既に精神が大人で、修治郎様は子供だからです」
蘭子は表情を崩すことなく屁理屈を捏ねる。当然真意ではない。
「否定はしない」
「しないんですか」
「かといって、息子が父親に反抗して何が悪い」
不満げな修治郎に、蘭子は、ともかくと畳みかける。
「早くお返事を送らないと旦那様が心配なさります」
真意ではない。
だって、知りたくないじゃないですか。
折角優秀な貢進生としてロンドンに送り出された自分の息子が、学校に通っていないだなんて。
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