魔性の才媛
高麗楼*鶏林書笈
第1話
深夜、月明かりの下、一人の士人の姿があった。
「山は昔の山なれど、川は昔の流れに非らず
昼夜流れ流れて、どうして昔の水でありえよう
人傑も水の如し、去りてどうして戻ろうか」
詩を詠じながら彼は小さな墓石に酒を注ぐ。そして軽く拝礼し、自分用の杯に酒を注いだ。
「せっかく松都(開城)に来たというのに汝に会えぬとは何とも残念なことだ」
酒を飲みながら彼は墓石に語りかけた。
かつて、この松都に黄真伊という妓女がいた。才知溢れ、歌舞音曲全てに巧みなうつくしい女人‥。多くの男たちを魅了し、情熱的な詩を残した彼女。多くの女を手玉に取った風流客を逆に手玉に取り、十年間修業した僧を破戒させた魔性の女。
そんな彼女に靡かなかったのが、この地に暮らした士人 徐花潭だった。真伊は彼を尊敬し「松都に三絶あり、朴淵瀑布と徐花潭先生、そして私 黄真伊」と言っていたそうな。
「私はどうだろう…」
士人は墓石に話し掛けた。
「汝に会えたならば、酒を酌み交わし、詩を応酬して楽しい時を過ごせただろうな」
杯を重ねた後、彼は懐から笛を取り出すと奏し始めた。調べに合わせて琴の音が彼の耳に聞こえて来た。真伊が奏でてくれたのだろうと彼は確信するのだった。
数年後、彼は周囲の嫉視により官職を失った。その際、「士大夫の身でありながら賎しき妓女の墓を参るとは何事か」という批判を浴びたのだった。
もとより、官職には関心のない彼ゆえ、その後は各地を遊覧し、詩文を作り音楽を奏でて日々を送ったそうである。
数百年後、朝鮮民主主義人民共和国―
開城市に来た金枓奉委員長は心を弾ませていた。かねてより願っていたことが遂に叶うからだ。
真夜中、煌々とした月明かりのもと彼は古びた小さな墓石の前に来た。
雪中に前朝の色あり、
寒鐘は故國の聲
南樓に愁いて獨り立てば
殘廓に暮烟香る
お気に入りの詩を詠じながら委員長は持参した酒を墓石に注ぎ、拝礼をした後、自身の杯に注ぐ。
国語国文学者である彼は黄真伊の作品を高く評価していた。そして、常々彼女の墓参りをしたいと思っていた。
今、それが実現したのであった。
墓前で彼は詩を次々披露した。暗唱できるほど読み込んでいたのである。
日本の統治も終わり(朝鮮)戦争も休戦し、世の中はようやく一段落した。今後は若い人々に母国の秀逸な文学作品を伝えねばならない。日本に和泉式部や梁川紅蘭が、中国に李清照や蔡文姫がいたように、我が国には黄真伊がいるのだ。
委員長は墓石と向かい合いながら様々なことを思うのだった。
数年後、政権内の派閥争いによって金枓奉は粛清されてしまった。
「社会主義者が妓女の墓に拝礼するとは何事か!」
彼を批判する言葉の中にはこうしたものもあった。
金枓奉は内心で苦笑した。
“私も白湖と同じ身の上になってしまった”
かつて白湖 林悌も黄真伊の墓参りをして失職してしまったが自分もそうなるとは…。
死してなお、男たちの運命を狂わす魔性の女・黄真伊。だが、彼女を恨む気にはなれなかった。
彼女に罪はない。彼女を利用して他人を陥れる奴が悪いのだ。林白湖もそう思ったことだろう。
深夜、収容所の窓から月を見ながら金枓奉は思うのだった。
魔性の才媛 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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