王子様にはなれない
飴野ちはれ
プロローグ
「愛されたいな」
ぽつり。薄桃色の唇から溢れた言葉は、私たちの間に横たわる静寂を微かに揺らしてゆっくりと溶けた。
首を動かさなくたって分かる。みことは今、長い睫毛に縁取られた色素が薄く丸い瞳に期待を込めてこちらへ向けているのだろう。
私はといえば素知らぬふりをして、お母さんが作ってくれたお弁当に舌鼓を打つことに努めていた。
昼休みだと言うのに練習をしているらしい運動部の声が僅かに耳に届く。青春だなぁなんて空を仰げばそのあまりの青さが目を焼く。そしてそのままひとつ深く呼吸をすれば夏の気配が鼻をつく。
つまるところ、私の五感は今大忙しで、彼女に割くリソースなんて万に一つもありはしないのだ。
ミートボールを飲み下して、次は卵焼きへと箸を伸ばす。東京から一度だって出たことのない母の作る卵焼きは、何故だか京風の出汁をたっぷりと含んだだし巻き卵だ。噛み締めればじゅわりと出汁の風味が溢れ出すそれは、私の好物なのだけれど、以前頂戴と請われてお裾分けした友人には甘くない! と驚かれてしまったことがある。
「ねぇってば」
どうあっても無視され続けることに気が付いたらしいみことは、どうやら強硬手段に出ることにしたらしい。すくっと立ち上がったかと思えば私の前に立ち塞がり、少しばかりひんやりとした細く長い指先を両頬へと這わせ無理矢理に顔を上げさせられた。視線が、かち合う。そこで、勝ち誇った表情の一つでもしてくれればこちらだって憎々しげな顔で悪態でも吐いてやれるのに、みことは嬉しそうにほう、と息を吐いて顔を綻
ばせる。
「麗美ちゃん」
酷く、甘やかな声。みことはそれがこの世で一等大切な宝物だと言わんばかりに、一音一音を丁寧に、愛しげに私の名前を紡ぐ。
彼女が身動ぎをする度に、ふわりと香る柔らかな匂いに頭がクラクラする。
私は、この女が嫌いだ。恐ろしく整った顔も、困っていれば誰だって手を差し伸べてくれる環境をいつだって当たり前に享受しているところも、他人に嫌われていたって一切気にせずに距離を詰めてくるデリカシーのなさも。そして何より、私を好きだと嘯くところが、
「大嫌い」
絞り出すような声だった。弱々しくて、私以外、誰にも届くことのないような、細い音。それでもきちんと届いたらしいみことは私が反応を返したことにうっそりと笑う。
その姿がどうしようもなく恐ろしく思えて、今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに金縛りでも掛けられたみたい動けない。じわりじわりと体温が上がって、総毛立つ。恐怖で鼓動が逸る私を知ってか知らずか、みことは穢れを知らない乙女のような微笑みを持って顔を寄せてくる。瞬間、掠め取るように唇が触れた。咄嗟に、制服の袖で唇を擦る。酷いなぁ、なんて楽しげに呟くみことも、薄い色付きのリップで汚れた制服も知ったこっちゃなかった。
「麗美ちゃんはね、きっと私を好きになるよ」
予言めいた響きを持った、恭しい宣告だった。なんて馬鹿げた青写真を描くのだろう。なんて歪な呪いの言葉だろう。
それだけ言い残して、みことは屋上を出て行った。残された私は最悪の気分で、お弁当をしまう。お母さんには申し訳ないけれど、もう食欲なんて一欠片も残ってはいなかった。
「誰が、アンタなんて好きになるか」
飛鳥みことが通り魔に襲われ、顔の半分をカッターでめちゃくちゃに傷つけられたのは、その日の夜のことだった。
王子様にはなれない 飴野ちはれ @skygrapher
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