いと高きところに神の栄光あれ 第1話
七月十六日。
神光祭の山鉾巡行を明日に控えた午前のこと。
この晩には神賑奉納の舞楽が行われる宵宮を控えていた。
早めに家を出る準備をしていた麻仁は、机の上に置いた首飾りが目に止まった。
それは先日ステーシーから貰った、大切な友に贈るという御守りの石だ。
せっかく街へ外出するのならばと、麻仁は願掛けついでにその石を首に掛けた。
支度を終えて自室から社務所へ向かうと、巫女の藤谷と手伝いの神職・
「マニちゃん、すごいじゃないの。あの神光祭で舞を奉納できるなんて。マニちゃんなら、きっとだいじょうぶよ、頑張って」
藤谷は麻仁を鼓舞するため、両手をぐっと握り拳にして振り上げた。
当の麻仁は、凄い事だという認識があるからこその緊張の面持ち。表情も硬い。
「ありがとうございます、藤谷さん、廣矢さん。頑張ってきます」
父の予定がある時や、時節の例大祭では共に祭祀をしてくれる臨時の神職、廣矢も同じく、麻仁が高校生になり家業の手伝いを本格的に始める前から、長く貴船家を支えてくれていた。
廣矢も姪っ子同然の麻仁が成長し、巫女舞という大役を得たと聞き、喜びもひとしおだ。
「いってきます。父をお願いします」
手を振って送り出す藤谷と廣矢の姿を後に、麻仁は麓の街へと向かうバスに乗り込んだ。
窓の外は、鮮やかな緑の樹々から次第にコンクリートが林立した灰色の景色に変わっていく。
やがて麻仁は、ずいぶんと見慣れた壮麗な朱色の楼門の前に着いた。
社務所で事情を説明すると、中へと通される。
すると、沙羅の父が下足場までわざわざ来てくれた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「急な頼みで悪かったね、貴船さんのお嬢さん。さあ、時間もないから上がって」
さっそく沙羅の父から神前で御祓いをしてもらうと、こんどは和室で先輩巫女から付け焼き刃で舞を教わる。
練習時間もそこそこに、今度は別室へ通されると女中である背の小さな老婆から着付けを手伝ってもらった。
いつも自宅で着けているものとは朱の色彩が違う緋袴に足を通す瞬間は、不思議な感覚だった。通常の祭祀では鶴や桐、菊などの柄が施された純白の千早を着けるが、ここでは社の神紋が描かれた萌黄色の千早を羽織る。袖と背中のあたりには龍のうろこを模した重ね染めの輪が描かれ、頭飾りも龍のそれのままだ。
「あんたはきれいなお嬢ちゃんだから、お化粧は軽めにしとこうかね」
そんなことを唐突に言われて、麻仁は顔から火が出そうになっていた。
最後に唇に薄く紅をひく。
「ほら、きれいな巫女さんになったわね。大したもんだわ」
老婆が目元の皺をくしゃっと寄せて満面の笑みをくれた。
自宅の祭祀でも儀礼用の巫女装束を着用して臨むが、鏡に映るその姿はまるで良く知る他人のようで奇妙であった。
「すごい……この装束だと本当に<鳥の巫女>様というよりは、まるで<龍の巫女>様ですね」
「このお祭りで舞を奉納できるのは誉れだよ。気張りなさい」
老婆は着付けを終えた麻仁の背中を、小さく骨ばった手でそっと押した。
麻仁と老婆が社務所の和室から控室に移る廊下を移動していた時だ。
祭祀用のものではない普通の巫女装束を着て、神祭具を丁重に抱えた沙羅とすれ違う。
彼女は何の言葉も発さず、ただ麻仁の顔を見ていたので慌てて沙羅に頭を下げる。
「あっ、会長。その……すいません、今日のことちゃんとお伝えできなくて……」
沙羅は手に持っていた神祭具を老婆に託した。
「貴船さんと少しお話したいので、これを拝殿までお願いしますわ」
人払いをしたあと、沙羅は麻仁と対峙する。
彼女は至極落ち着いた風を装って、麻仁に向けて話し出した。
「貴船さんが鳥の巫女舞をされるなんて驚きましたわ。ともかく父からも聞いた通り、今日の主役は貴船さんというわけですのよ」
「なんか申し訳ないです。やっぱり会長のご自宅の祭祀だし、あたしはお断りしたかったんですけど……」
それを聞いた沙羅は堪えきれない怒りを隠そうともしなかった。
「わたくしが本来はお勤めしたかったものをお譲りした役目でもありますのよ! それをお断りしたいなんて、信じられませんわ!」
気色ばんで語気を強める沙羅に、麻仁は驚いて肩を縮こまらせる。
はっと我に返った沙羅は深く頭を下げた。
「失礼いたしました……洗礼を受けた<鳥の巫女>様は、このお祭りの間は神も同然ですの……わたくしとしたことが言葉が過ぎましたわ。ともかく、貴船さんのご自宅でのお勤めと同様に、落ち着いて舞の所作を繰り返せばだいじょうぶですわ」
「ありがとうございます、会長」
ふたたび一礼して立ち去る麻仁の背中を見守る沙羅。
廊下から舞殿を見ながら、装束の中に下げた首飾りを握ってぽつりと語る。
「そう……所詮はこのお祭りだけ……」
日没が迫り、境内では祭り提灯に加えて、増設された照明が煌々と灯される。
境内には見物客が大勢集まるなか、祭りは厳かに執り行われていた。
表通りの別会場では、既に夕方から数多くの神賑奉納の舞が披露されている。
境内の舞殿では、いよいよ<鳥の巫女>による龍の勧請の舞が行われる時間が迫っていた。
麻仁は控室で祈り続けていた。
緊張で震える両手が言うことをきかず、しっかりと握り交わすと十本の指すべてに力を込める。掌に汗が滲み、さらにそれが冷房で冷えて指先まで凍ったかのようだ。
「お嬢ちゃん、今日は神の代理で巫女様なんだから堂々としてないと。多少の失敗は誰も気にしないわよ。もっと深呼吸してリラックスしないと」
女中の老婆がペットボトルの水を手渡した。
麻仁は無言でこくりとうなずきながら、何度にも分けて水を飲んでいく。
その頃、畑中はサンダル履きにだぼっとしたラフな私服で、こっそりと南山門から境内の中の様子を見ていた。
神楽が境内に鳴り響き、厳かに<鳥の巫女>が舞殿に現れる。
「ありゃりゃ、マニのやつド緊張してるな」
学校でよく知る顔が舞台に立っており、その表情を見るなり笑わずにはいられなかったが、やがて保護者のような気持ちになると、畑中までもが緊張に包まれてしまった。
麻仁はゆっくりと手を水平にかざし、足を動かして舞を始めた。
この街に封印された龍。
災いが迫った時、民を救うために<鳥の巫女>は龍を目覚めさせる。
大きく両手を広げたのち、左右に振り龍を使役する。
龍は<鳥の巫女>に問い掛ける。
いずこに災いはある、と。
それに<鳥の巫女>が龍に答える。
そは、たれのかたはらにもあるものぞ、と。
龍の咆哮によって、鬼は恐れおののき、魑魅魍魎は消し飛ぶ。
だが、それだけではない。人間の中にある悪しき心も炙り出される。
人々が信仰を失った時、龍の牙は民に向かう。
龍の生み出した雷雲により、未曽有の洪水がこの街を洗い流す。
自然の恵みを享受し、生き物の命を摂取することに感謝を忘れ、神々に祈らず過ごす不心得な者こそ、この大地にとっての鬼であり、それが人間なのだ。
我はそなたらを常に見張る。畏れよ。崇めよ。
正しき行いをする者を、我は救うであろう。
神楽が終わると、万雷の拍手が舞殿の四方から贈られた。
それに応えるように麻仁はぺこりと一礼した。
拝殿からその姿を見守っていた沙羅は、焦って両手を強く握る。
「貴船さん……この祭りの間は神も同然だと申したのに、神が軽々しく頭を下げるなんて、まったくもう……」
南山門から舞を見ていた畑中も、安堵の表情で息を吐いた。
「あぁ、よかったな、マニ。上手くいって。さすが神社の娘で巫女だわな」
さらに、人混みの中には生徒会の後輩を引き連れた京極の姿もあった。
「すごかったね! やっぱりコスプレ程度じゃ本職のマニの雰囲気には敵わないや。カッコよかったぁ!」
後輩たちと興奮気味に喋り交わしながら、惜しみない拍手を叩く。
それよりもわずかに離れた人の影に紛れて、ステーシーが舞を見物していた。
スマートフォンで撮影をしていた麻仁の写真を何度も眺める。
「美しいプレリュードになったわね。よくできた子だわ」
そのまま彼女は人の波をかきわけて、立ち去っていった。
どうにかこうにか無事に祭祀は終わり、麻仁は化粧を落として私服に戻った。
どっと疲れを感じた麻仁は、社務所から外に出る。
夜風に当たりながら、ふうっと深呼吸をした。
ここ最近の暑さが嘘のように、空は薄曇りとなっていた。雨が降り出す様子はないが、ひんやりとした風が吹き、夏の熱帯夜を忘れさせてくれて心地よい。
ふと境内に目をやると、沙羅は拝殿に祈るでもなく、ぼうっと中空を眺めていた。
ゆっくりとそちらに歩み寄る麻仁の気配に気づいた沙羅は視線を向ける。
「貴船さん、お疲れ様でしたわ。今日はありがとう」
礼を言った割に、沙羅は堅い表情を浮かべていた。
「こちらこそ。ご迷惑にならなかったですか」
「すべて予定通り祭祀も終わりましたわ。明日はまた山鉾巡行があり、わたくしも父も忙しいので、このあたりで。ごきげんよう」
沙羅はおざなりな挨拶をして、そそくさと足早に立ち去ろうとした。
麻仁もその後に続く言葉を掛けられないでいた。
やむない事情とはいえ、自分に出来る精一杯で臨んだつもりであったが、それが彼女にとって不快であったのならば、この話を受けねば良かったとも思ったからだ。
それでも、きちんと礼なり謝罪の気持ちを伝えたかった。
「あっ、あの、あたしっ……」
麻仁は思わず手を伸ばす。かすかに指先が沙羅の背中に触れたその時。
強い衝撃が頭の中を襲う。
金属どうしが接触するような甲高い音が響き渡り、脳内を掻きむしる。
「きゃあっ!」
「なんですのっ!」
立っていられない程の痛みが走ると、麻仁は思わず両手で側頭部を抱えた。
その衝撃は沙羅をも襲った。
二人は息も絶え絶えに、共に膝から崩れ落ちる。
周囲には悶え苦しむ動きに合わせて玉砂利が擦れ合う音が響く。
わずかな間だったのだろうが、どれほど時が経ったのか理解もできぬうちに、やがて痛みも不快な音も次第に消えていった。
「……熱っ!」
沙羅はおもむろに装束の下からアクセサリーを取り出す。
その中央、青い石がぼんやりと光っている。これが熱を発していたようだ。
首飾りの縄が燃えるような物理的な熱さではない。まるで所有者に向かい語り掛けるように強く発する。
「やだっ! なに?」
麻仁も胸元に違和感を覚えて、首飾りをまじまじと見つめた。
ステーシーから貰った石は赤の輝きを発している。
ふたつの石は、所有者であるそれぞれの巫女の顔を赤青に照らしていた。
しばし呆然としていた二人だったが、頭痛も石の光も収まっていった。
麻仁は玉砂利の上で姿勢を崩していた沙羅に声を掛ける。
「あの、会長。だいじょうぶ……」
弱々しく差し伸ばされた麻仁の手を払いのけると、沙羅は強く睨みつけた。
そのまま振り返りもせず無言で自宅に向かって歩いていく。
麻仁も立ち上がると、気持ちを落ち着かせるために目を閉じて数回、深く息を吐く。
ふと境内にある時計を見るといい時間になっていた。
最終バスの出発も近いので、沙羅の父に礼を伝えて帰宅の途についた。
神光祭から数日のち。
ほどなくして麻仁の噂は、巷に広がっていた。
神光祭に参加した氏子や崇敬会に学校の父兄がいたようで、今年の祭祀で巫女舞をしたのは、三年生の貴船さんの娘さんらしいと、早くも評判になっていた。
日没後。いつもの貴船家の夕食の時間。
両親はまだ閉門時間までは若干あるので神社で勤めをしている。
麻仁は母の用意した料理に火を通して最後の手を加えて、右源太と左源太との三人で夕食を囲む。授与所が閉まった後は双子に食事をさせるのも食後の洗い物も麻仁の担当だ。
「ねえちゃん、なんだよその髪型。巫女さんがおしゃれしてんのかよ」
普段にはない姉の違和感に右源太が突っ込む。
「あれ? 前にもその髪型してなかったっけ?」
それに同調して指摘する左源太。
麻仁は長い髪を以前ステーシーに教わったお団子にまとめて、調理をしたのだ。
「夕飯を用意するのに邪魔だったから、まとめただけよ」
といってもヘアアレンジはまだこれしか知らない。
いつもなら簡単にゴムで後ろに髪を束ねるだけの姉がはぐらかす様子を、ふーんと怪しげに見ている双子。
「あ、それよか、ねえちゃんのこと盛り上がってたよ。神光祭に行ったんでしょ?」
「そうそう、祭りで大切な舞をしたきれいな巫女がいるって言ってたぜ」
弟たちと同じ塾や学校に通う既知の保護者にも、宵宮に参加した者がいるようだった。
「急にねえちゃんの名前が出たからびっくりしたよ」
「でも、なんでねえちゃんが神光祭に出てたんだよ」
「頼まれたから仕方なくね」
若干照れつつも、弟には誇らしげにぐっと胸を張る麻仁。
そんな得意満面の姉を見て、双子はニヤニヤと互いを見合わす。
「ありえないよなぁ。うちにいるねえちゃんは、いつも怒ってるのにな」
「そうだよな。ねえちゃんはどっちかって言うと『あらみたま』だもんな」
荒御魂と和御魂。
神々には二面性がある。災いとなる面と幸となる面だ。
太陽神のご加護も、適度な好天は作物の生育に欠かせないが過ぎた日照りは大地を枯らせる。同じく水の神も同様に、いい塩梅の雨量は田畑を潤し稲穂を育てるが、大水は土を流し作物の根を腐らす。
冗談を言いながらケラケラと笑いだす弟たちの小さなこめかみを、歳の離れた荒御魂の大きな両手が掴んだ。
「もういちど言ってごらんなさい」
静かに言い放つも先の神光祭の時とは、いや普段の学校や神社での麻仁とは全く異なり、まるで夜叉のごとき気迫だった。だが何者にも囚われない飾らない素顔の彼女にさせてくれるのは、やはり弟の存在が大きかった。
姉の左右の手でそれぞれの頭を鷲掴みにされた弟たちは弱々しく続ける。
「りっぱな、よそいきのねえちゃんです……」
若干、気になる表現ではあるが麻仁は手を緩める。
双子は頭をさすりながら食卓に視線を戻すと、お行儀よく食事は終わった。
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