神のまにまに

邑楽 じゅん

序章

 水は恐ろし、水は尊し。


 この地球上にある森羅万象、すべての命に欠かせない水。

 生物の喉の乾きを癒すだけでなく、細胞の隅々までを潤してくれる。

 大地が豊かに湿ることで作物の種が芽吹き、花を咲かせ、果実が熟れる。


 母なる星の営みを支えるありがたい水も、過ぎたるはなお及ばざるがごとしの故事の通り、何事もいい塩梅が理想だが、なにせ自然のすることだ。

 大雨となれば、鉄砲水は大地を洗い流し家屋を飲み込む。

 乾燥が続けば、地面はひび割れ作物は枯れ果てる。


 人々は自然に祈りを捧げ、姿なき未知なるものの怒りを鎮めるために慰撫し、時に感謝することで八百万やおよろずの神々をおそうやまってきた。

 それはここ、東京からはるか西の旧都にある山深い神社でも――。




 鬱蒼とした樹々に囲まれた境内。

 敷き詰められた玉砂利を踏みしめる音を鳴らし、神職と巫女の二人がやってきた。


 まだ朝が早いせいか、巫女の少女はほんの少し眠そうな目をしていた。

 拝殿に向かうと、神職は神前に御饌みけを捧げて祝詞のりとを奏上する。

 その間も少女は目を瞑り、ともに祈りを捧げる。

 それから、境内の一角にある山肌から湧き出る清水を留め置く石組の水場で、清らかな水音を聞く。


 それはまるで、幼い子供たちが無垢にコロコロと笑っているようだった。

 手水舎ちょうずしゃに溜まる水は、参拝客の来訪を笑顔で迎える少女のごとく。

 境内のすぐ横から落ちる滝の水音は、おおきなあくびをする気の良い大男のように。


 そのまま、神職と巫女の少女は境内を出る。

 天を衝くかのごとき高さを備えた樹々が林立する山道をさらに奥へと進んでいく。

 やがて、本宮よりも山深くにある奥宮に到着した。

 朝靄が立ち込め、濃密な緑の香りが鼻腔に充満する。

 参拝客のいない早朝の境内ではあるが、少女には分かる。

 姿なき何者かに鋭く観察されているかのような気配を。

 それは目に見えぬ畏怖の存在を信奉する、か弱き人間への慈愛の眼差しともとれるし、神々の名を汚し仇なす者への警告のようでもあった。


 少女はここの神社の神職の娘であり、高校に進学してからは親の手伝いで巫女としても奉職している。

 彼女自身は、この気配を奇妙だと感じたことはない。

 物心ついた時から、ずっとありふれた日常だった。

 幼心の頃より、常に誰かが語り掛けてきているようにすら覚えた。

 だが、それは実際に音として耳で捉える言葉ではない。

 水神をまつるこの神社では、境内の手水、周囲の山肌から沁み出る湧水、滝を落ち沢に流れ集まる渓谷など、あらゆる水たちがまるで世間話をするように気さくに訴えてくる。

 だから彼女も幼い頃は、水に向かって挨拶をしたり問い返してみたりした。

 純粋で素直ないい子だと褒められたこともあったし、妙な振る舞いをする子だと怪訝そうに見られたことも記憶している。

 もちろん水から明朗な言葉となって返事がくることはないのだが、彼女はそれらの笑顔だけでなく、嘆きや怒りをも水音から察知していた。

 お腹が痛くなるほど水が怒っていた時の後は、決まって豪雨が襲ってくる。

 彼らの声を自分が聞き祈りを捧げることで、逆に水は少女自身と一体となり、彼ら人間を鎮守するように思えた。

「さあ。もどるよ、マニ」

 宮司ぐうじである父の声を合図に、娘の麻仁まには共に本宮へと帰った。



 境内のすぐ近くにある自宅へと戻り、麻仁は巫女の装束から学校の制服に着替えた。結わいていた髪をほどくと、光沢のある黒髪が腰のあたりまで広がる。

 母は朝御饌の支度を終えると、こんどは子供たちの朝食を準備していた。

 麻仁の年の離れた弟たちは小学校の登校時間まで余裕があるのか、まだ夢の中だ。

 ここ貴船一家の毎朝の光景だった。

 市街地にあるような大きな神社ではないため、わずかに居る臨時手伝いの神職や巫女のほかは、家族総出で作業分担をしながら神社を切り盛りしていた。


 麻仁は通学カバンを手に持つと、両親に声を掛ける。

「それじゃ、学校にいってくるね」

「あぁ、気をつけて」

 なにせ山深いところに自宅兼神社があるため、ここから電車やバスを乗り継ぎ、学校のある市街地まで出なくてはいけない。

 そのため始業よりもずっと前の時間に出発するが、毎朝の御饌の祭祀があるので、起床時間に間に合わず寝坊するといった失敗がないのは幸いだった。

 ただし、友達と羽を伸ばして遊び歩いたりはできないし、朝に備えて就寝も早いので夜更かしはできない。なおさら学校の休みにはたまに寝坊をしたいと思わなくもないが、自宅の家業を思うとやむなしと考えていた。



 麻仁は最寄りの駅から電車に乗り、麓の街へと向かう。

 周囲の景色は一面の緑から、次第に近代的な建物の並ぶ市街地に変わってきた。

 麻仁が電車を降りると、盆地の蒸した熱気が襲ってくる。

 いかにも古都の夏という全身にまとわりつくような湿度であった。

 ところが、季節はまだ六月下旬にもかかわらず、雨が極端に少なく梅雨の季節は鳴りを潜め、知らずのうちに暦は盛夏になったかのようだった。

 テレビでは早くも、今年は農作物の不作や取水制限は避けられないという報道も多かった。

 清々とした山の空気とエアコンの効いた交通機関から、不快な街の熱波という急な体温差に、思わず麻仁もハンカチを取り出して汗をぬぐう。

 やがて彼女の通う高校に到着した。


 麗明学園れいめいがくえん


 校名を記した銘板が掛けられた校門のそばでは、私立の女子高らしく警備員が登校する生徒を出迎えているのは非常に現代的だ。

 だが正門を抜けると、眼前には満々と水を湛えた美しい池が配置されており、校舎の外観は白い石造りの梁が美しいレトロな洋館風で、一部は青々とした蔦が生い茂っていた。

 校庭は陸上トラックが引かれた広いグラウンドがあり、美しい時計台が目を引く大きな講堂のほかに、芝生が敷き詰められた緩やかな起伏のある広場には、効果的に樹々が配置されており、昼休みには敷物を用意して木陰でランチを楽しむ生徒らもいる。

 階段をいくつか上がり、到着したのは三年生のフロアだ。

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