似てる人たち
宮きやと
第1話
霧にけぶる、静かな街。
朝日が空気に反射して、世界がぼんやり輝く。
いつでも寒いこの街の、いつもの風景。
その光の中を、多くの人が右へ左へと静かに歩く。
コートに顔を埋めた彼らは皆、灰色い影を背負っている。
――○○!○○じゃないか!――
老婆がひとりの若い男性に駆け寄っている。人の名前を口にしているらしい彼女は、腰が曲がって、杖をつきながらおぼつかない足取りで駆けている。
だが男の名前は、老婆のいうそれではない。
――人違いですよ――
だが彼女の耳には届いていないように、縋り付かんばかりに彼に話しかけ続けている。
するともうひとり、老婆よりは若い女性が急いで駆けて、男に何度も大きく頭を下げる。男は小さく会釈し、女性に肩を引かれる老婆から離れて行った。
数日が経つ。
再び老婆が男に駆け寄る。今度は病院の患者衣を着ていた。
追いかける女性も今日はおらず、寒空にはあまりに薄い恰好。
その様子から、病院から抜け出したことを察した男は、出社を諦め、老婆の肩を引き近くの病院へ向かう。
看護師から事情を聞き駆け付けたこの間の女性が、病院で再び男に頭を下げている。
男は女性に顔を上げるよう伝えて、彼女に尋ねた。
――事情を聞かせていただけますか?――
数日後、老婆と女性、女性の旦那さんの3人が暮らす、所々に蔦のはしる煉瓦づくりの家にその男はいた。
――何年も前にここを出て行った、わたしの兄の写真です。――
目の前に広げられた日に焼けたアルバムには、男と瓜二つな男性の顔が映っている。
――しかし、あなたのお母様はなぜ――
アルバムから顔を上げた男は、目の前の女性と、隣に座る、自分と同じ顔をした男性に目を向ける。
どこかの大陸の端の端、寒い寒いこの国には、違う顔の人がいない。女性は皆同じ顔。男性も皆、同じ顔。女性と男性、2種類の顔立ちしか存在しない。
――わかりません。なぜあなたにだけ、母は兄の名前を呼ぶのか――
女性の隣に座る旦那さんも、奥さんの兄と瓜二つ。この国では当たり前の、鏡写しの光景。
――あなたの兄について、教えていただけますか――
男はその家に通うようになった。
老婆はいつも、あべこべに生えている歯を見せながら、親しみのこもった笑顔で迎える。何度、食事をしてきましたと言っても、いつも料理を作る。
――お前、ご飯は食べてるかい?今作るから待ってな――
枯れかけのカサカサした野菜で、少ない調味料で、ぶっきらぼうな口調で、出来立ての温かい料理を振る舞う。
――母はもう長くないのです。記憶を保てる時間も、身体も――
彼女は老婆に、男性が兄ではないことを話し、理解している様子だったそうだが、その記憶もまた、どれだけの時間保っていられるか定かでない。
最初は男の提案に戸惑っていた娘夫婦だが、男が老婆と同じ病で家族を亡くしたこと、その老婆が自分を息子の名で呼ぶことが、他人事に思えず気にかかると話すと、男の提案を承諾した。
老婆は彼を、客人のような丁寧さでも、数年ぶりに再会する息子のそれでもなく、親戚の子どものような気軽さと温かさでいつも男を迎える。本当の息子が生きていれば、男とは親子ほどの年の差があり、母というより祖母の年齢間に近い彼女とは、男としてもその方が接しやすかった。
老婆はよくゲームをしたがった。盤の上で二色の駒を置いては裏返しながら、昔のことを話す。
老婆がまだ娘であった頃、女は家の仕事をし、男性は農家を継ぐのが普通の時代だった。
彼女が10歳のころ、電波にのって音声が流れる機械が普及し始めた。
田舎しか知らない彼女は、四角い箱から聴こえる遠い町の様子や煌びやかな音楽に心奪われた。都会への憧れが芽生えることに時間はかからなかった。
働ける年齢になると、我の強い彼女は両親の反対を押し切り、ひとり上京した。
――なにがしたかったでもないのさ。ただずっとあの村にいたら、自分じゃなくなっちまうと思ったんだよ――
しわだらけの手で裏返される駒は、ぱちり、と、凛とした音を立てていた。
彼女が上京してからまもなく、戦争が始まった。電波に乗るのは華やかな都会の様子から、砂ぼこりに煙る戦場の状況になった。
若かりし老婆は、兵士たちの訓練所兼療養場の施設で働いた。そこで、ひとりの医者と出会った。
ふたりは動乱の時代に結婚し所帯をもち、子を産み育てた。むしろそんな時だからこそ、周りからの祝福や援助が手厚かった。皆、幸せの尊さを感じていた。
戦争は激化し、国民は次々に兵士として戦場に送り込まれていった。老婆の夫は戦場医として、何度も戦場に赴いた。戦場がひと段落しては妻と子供のもとに帰り、ひと時を大切に過ごし、また戦場に戻っていく。男たちがひとりまたひとりと、帰ってこられなくなる、その街に――
――どうしようもないことだったのさ。戦争だもの――
隣の家の旦那が死んだ。妻と母親は泣いている。自分が助けられなかった多くの兵隊の家族と、その様子が重なる。しかし、誰も自分を責めない。それがより、彼が彼自身を責めることになっていった。
結局最後は、自国の隊が攻め込まれ、治療していた医師たちも全員銃撃に合い全滅した。
――旦那は、これ以上人を救えなくてすんで、良かったのかもしれないねえ――
――あなたはそれで、良かったんですか――
――良かないさ。でもねえ、あの人が良かったなら、それでいいのさ。
私がどれだけ、生きててほしいと、思っていてもね――
男性が老婆を訪ねるために向かう場所は、しだいに家よりも病院が多くなっていった。
娘の言うとおり、身体ももう、永くはない。
料理を振るうことはできなくとも、老婆は男が来るたび、病院で出される食事のみかんや小さいりんごを差し出す。
その以前より枯れた小さな手が、少しの食事も食べきれない彼女の体を、表しているようだった。
病院では老婆と同じような歳の人がたくさんいて、ベッドに老婆がいないときは、戻ってくるのをただ待つ。
病室の他の老人に目を向ける。老婆と、顔の見分けが全くつかない。この国のなかで、自分だけを息子の名で呼んだ老婆。
男は自身の過去を思い返す。その表情は憂いを帯びていた。
またある日。
ベッドの上に橋のようにかかるテーブルには、いつものゲーム盤。
盤に伸ばす老婆の手が徐々に重たげになってきたころ、息子について話し始めた。
――わたしはね、息子に医者になってほしかったのさ――
――……旦那さんのように、ですか――
男は老婆の、目を閉じて今にも眠りそうな顔を見ながら、努めていつも通りな口調でたずねる。
―兄は母から逃げるように、出て行きました――
老婆は息子に医者になるよう勧めていた。まるで強要のようだったと娘は話した。
我の強い母に意見することの少ない兄に、母親は自分の意思を押し通すことが多かった。
そして兄は、何も言わず家を出ていった。
――たくさんの人に、涙を流してありがとうって言われる。そんな立派な仕事さ。あの人みたいに、自分で自分を、誇れるような人に――
ふたたび、ゆっくり開かれた老婆の瞳は、それでも力強さを感じる、いつもの目だった。
――でも、あの人の死が、良いことだって考えられるようになって思ったのさ。それは自分のわがままだったんだって。歳をとってやっと気づいたんだよ――
息子が家を出て行って、老婆は始めて気がついた。自分が若き日に嫌っていた親や大人たちと同じ存在に、自分がなっていたことに。息子の話を、ちゃんと聞いたことがなかったことに。他者に自分を曲げらることの苦しさを、よく知っていたはずなのに。
誰かに感謝されることよりも、自分は親として、あの子のしたいことを応援してやるのが、なによりも必要だったのだと。
――誰よりも大切な、私たちの子供だって、思っていたのにねえ――
――お前さんも、好きに生きな――
ぶっきらぼうで、優しい言葉だった。
男性は、うつむいている。
膝の上で握られたこぶしは、小さく震えていた。
絞り出すように、言う。
――なぜ、息子にもそう言ってあげなかったのですか。――
老婆の視線を感じながらも、男はうつむいたまま、目を合わせずに病室を出ていった。
丸いライトの車が車体をガタガタいわせながら行き交う、小さな橋の上を男は歩く。真ん中あたりに差し掛かかったとき、男は川に顔を向ける。どこから流れてきたのか、大きな岩が、中洲に静かに佇んでいる。
――昔近所の川の中洲に大きな岩があって、よくそこまでズボンを捲し上げて渡っては、友達とよじ登って遊んだものだ――
父とのたわいの無い会話を思い出す。
男はここから程遠い街で育った。母はおらず、父に男で一つで育てられた。
父は仕事が忙しく、ひとりで過ごすことも多かったが、たまの早い帰りの時には共に食卓について、
最近あったことをめいいっぱい話すことが好きな子供だった。
やがて男も成長し、もうすぐ働きにでる年齢になるころ、父に病が見つかった。父の故郷で昔からよくある病気で、その多くが母親から遺伝子するものらしい。根本的な治療法は、見つかっていない。
病院で、これまでの時間を取り戻すように、父と多くの時を過ごした。そこで、父の過去の話をきいた。
男の祖父にあたる人も医者だった。そんな父に憧れて、自らも医療の道を進もうとした。そんな時、表には出せない、ある情報を知った。父の故郷ではすでに終結した戦争、以前から提携を結んでいる国で今も起こっているそれに、自国の医者が駆り出されている。戦争で多くの人が亡くなり、建物が壊され、いちどは更地になったこの国。復興が進み、ようやく以前の様子を取り戻してきた頃に、国民がまた戦場へ送り込まれているという。当然民衆には許し難いこと。しかし、貧しい国だった。他国の援助なしでは成り立たないほどに。
――それでも、医者になりたかった、父のように。だから、家を出たんだ――
母親は、医者になることを勧めていた。もし自分が戦場で死んでしまったら、母は自身を責めるだろう。そして息子と夫を同じように、戦場で亡くすことになる。
もし戦争が終わり、生き残ることができていたなら、母のもとに元気な姿を見せに故郷に戻るつもりだった。
しかし終戦が見え、戦場医が呼ばれることも少なくなってきた頃、病が見つかった。祖母がこの病気で亡くなっていたことから、母親から遺伝したものだと直ぐに理解した。
父は、母親に会わないと決意した。
息子は父の思いに、そうだねと頷いた。
まもなく、父は息を引き取った。
男は住み慣れた町を離れて仕事に就いた。父の故郷で過ごしたいと思った。
初めてあの大岩を見たとき、父の子供の頃の話が脳裏に蘇った。
――本当にこの町で父は育ったのだ――
目の奥が熱くなった。
歩くことが難しくなり、ベッドの上で一日中過ごす日が多くなった父は、ひとりごとのように、よく呟いていた。
――母さんは発症していなければいいのだが――
男はあれ以来、老婆のもとを訪ねていない。
真実を抱えて老婆の前にいることが、辛かった。
そして父と同じように弱っていく老婆を、見ていたくなかった。
季節が移り替わろうとし始めた頃、娘から老婆の容体が悪化したと連絡があった。もう、回復は難しいと。
急ぎ足で向かった病室で、老婆は眠っているように目を閉じている。ただ喉からはひゅうひゅうと、苦しそうな呼吸の音がしていた。
脇に座る娘は目を赤く腫らしながら、老婆に男が来たことを伝える。
老婆は目を開け、男に向ける。
娘は老婆の様態を気にしつつも、男に席をゆずり病室をでる。通り過ぎる時、ありがとうございますと伝え、椅子に腰かける。
老婆の視線は虚で、しかし男の目をしっかりと捉えている。
――○○――
老婆は息子の名を呼ぶ。
震える腕を、彼に伸ばす。
男はその腕を取り、両の手で包む。
窓から差し込む光は優しく、世界にふたりしかいないような、静かな時が訪れる。
――母さん。
あなたを誰よりも、大切に思っていました――
虚ろな目が、小さく見開かれる。
これまで何度も目を見て盤を挟んで会話をしてきたが、その一瞬の交わりが、永遠に心に刻まれるような、そんな力をもった一瞬だった。
男が老婆と交わした、最後の時間となった。
霧にけぶる、静かな街。
いつでも寒いこの街の、それでも少し暖かい季節。
ひとりの男が、この土地では咲いていない、黄色いちいさな花をつけた花束を持って、坂道を上っている。
花々が芽吹く香りを感じながら、男は歩く。
上り切った先の小高い丘からは町が見渡せ、灰色の町が光に照らされ淡く輝いている。
そこに並ぶ墓のひとつに、男は花を飾る。
男は同じ花束をもうひとつ、用意していた。それは今、別の土地で静かに眠る、父の墓に飾られている。
似てる人たち 宮きやと @meeyakyatto
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